(00) 風土と人間

近世では、「東海道53次」の4割を超える22宿を擁し、

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南北の交流

遠江では、相良(さがら)町にはじまり、菊川市、掛川氏や森町を経て、水窪(みさくぼ)町青崩峠を越えて信濃に至る信州街道がメインルートであった。
 この道は、秋葉街道ともよばれる信仰の道でもあったが、他方では「塩の道」ともいわれているように、まさに信濃との物資や文化のこうりゅうをささえてきたのである。

静岡県の成立

明治元年(1868年)8月に徳川家達(いえさと)が70万石で駿府城にはいり、駿河府中藩が成立したが、翌年、家達が静岡藩知事に任命されたことによってはじめて静岡という名称が使用された。

 その後、明治4年7月に廃藩置県が行われ、11月には、3府72県へと統廃合が断行された。 そのさい、静岡藩の駿河部分が静岡県に、遠江と堀江県が浜松県、伊豆では早くから韮山県が成立していたが、このとき足柄県に編入されたのである。

 いろいろな紆余曲折があったが、明治9年4月に足柄県の廃県に伴って伊豆は静岡県と合併され、ついで8月に浜松県も廃止されて、ほぼ今日の静岡県の成立をみることになったのである。

名主>>庄屋

名主

村役人の呼称

庄屋

古代、琵琶湖を近淡海(ちかつおうみ)近江、浜名湖を遠淡海(とおつおうみ)遠江
称したのに由来する。

 つまり大和王権以来の古代国家では、遠江までは、直接権力がおよぶ地域とみなしていた。

 駿河伊豆が独自の発展を始めるのは、天武天皇九年(680年)に駿河国から伊豆国が分かれて以来である。

 駿河の国府は駿河郷(沼津)から安部郡(静岡市)に移され、駿河府中が政治の中心地となった。
とくに、戦国大名今川氏が駿府に居館をかまえ、さらに大御所徳川家康が駿府を居城にしたことで、駿府は政治的な都市として発展し、その特質は今日までつながっているといえよう。

 伊豆国という表記が正史に明確にあらわれてくるのは、大宝2年(702年)のことといわれていて、遠江・駿河に比べるとかなり遅かった。 中央からは、僻遠の地とみなされていたようで、源頼朝が蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流されたように、流刑の地とされていた。
伊豆は一貫して東国的な要素が強く、現在も熱海、伊東から下田に至る東海岸は、まったく関東圏といってよい。

個性ある三国
刺身
東

醤油

西

溜り(たまり)

鮭(サケ)

正月の魚
肉
東
西

鰤(ブリ)

東

豚肉

西

牛肉

東

ヤマイモ

西

サトイモ

イモ
東
西

サツマイモ

ジャガイモ

儀礼用イモ
食べ物の東西

東国方言と西国方言
東京式アクセントと京都式アクセント

言語の東西

この後者の地質構造上の特徴は、静岡県が日本列島のほぼ中央に
位置することもあって、単なる地質学上の問題にとどまらず、
東日本と西日本との広い意味での文化交流の接点に静岡県を
位置づけることにもなった。
  東日本と西日本とでは、文化的にさまざまな面で違いがみられるが、
静岡県はまさにその境界に位置しているのである。

他方で、フォッサマグナ(糸魚川 - 静岡構造線)と
中央構造線と呼ばれる2つの大地溝帯が日本列島を縦断していて、
そのいずれもが静岡県内をとおっている。

熱海
三島
新富士
静岡
掛川
浜松

現在も新幹線の駅が6ヶもある。
長い街道筋と海岸線とを地理的な特徴としている。