静岡の縄文時代

 旧石器時代につぐ縄文時代は、地球の温暖化がすすみはじめる約1万2千年前ごろから約2500年前までの時代をさす。

縄文時代の集落跡(駿東郡長泉町上山地遺跡) 縄文時代の中期前葉の住居址27基や竪穴遺構・土杭・集石遺構などが検出された。

玉川大学のサイトを開く
縄文時代の自然
マフグ
マダイ

 これらの調査例が示す居住址数は、同時に存在した数を示すものでなく、遺跡の存続期間や立替えを考慮すると、同時に存在したのは、少ない例で2~3基程度、総人数20~25人程度ではなかったかとすいていされる。 住居址に住んだ縄文人は、立地条件によってその比重が異なるが、弓矢の使用によるシカやイノシシなどの狩猟、木の実の採集、淡水性・海水性の貝類や魚類の採集・捕獲によって生活を維持していた。

 成熟期の遺跡の例として、修善寺町「出口(でぐち)遺跡」では、直径約60メートルの半円状にならぶ15基の住居址が発掘され、富士宮市「千居(せんご)遺跡」では21基の居住址が環状にならび、袋井市「長者平(ちょうじゃびら)遺跡では18基の住居址が半円状にならんで検出されている。
 また、終末期の例としては、浜松市蜆塚(しじみづか)遺跡では円環状に住居址が検出され、大小4つの貝塚が一部居住址と重複してある。

 後記後半になると遺跡数が東部では急減するが、拠点的遺跡を成立させる中・西部はゆるやかに減少する傾向がうかがえる。 この時期になると、石棒は姿を消し、石剣や石刀などの儀器が普及し、前代にみられた石製の?状(けつじょう)耳飾りにかわって土製の耳飾りがつくられるようになる。

 縄文草創期はこの遺跡を含め数は少ないが、早期前半までに至ると縄文文化は確実に定着していることがわかっている。 その後、今から7000年前~8000年前ごろまでの発展期にあたる早期後半には愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増し、中部にも拡散するようになる。
 縄文前期になると遺跡数が減少し始める一時的衰退期を経過する。 この時期になると住居に炉が常設されるようになる。

 縄文前期末から中期・後半期までの成熟期になると、県内の縄文時代は最盛期を迎え、 県中部から西部にかけても遺跡の数が増加する。 東部では、八ヶ岳山麓で発達した縄文中期の文化と様相が類似する文化(集落規模・住居の形と構造・土器・顔面把手(とって)・土偶・石棒・大量の打ち欠いた石斧・ヒスイの大珠)が発達し、愛鷹・箱根両山麓地帯を中心に伊豆半島から西は掛川氏付近まで浸透している。
 これに対し、遠江の平野部では、近畿・瀬戸内地域の土器が流入し、東海東部独自の形式を生みだしたり、伊那谷系の土器などが支配的に分布する独自の様相を示している。

前のページへ戻る
次のページへ飛ぶ
目次へ戻る
クロダイ
アカエイ
スズキ
ヤマトシジミ

終末期の「蜆塚遺跡」からは、貝類では淡水性のヤマトシジミが他を圧倒するが、それらにまじって海水性の魚類であるタイマフグスズキクロダイアカエイの骨もみられる。 とくに、スズキのえら骨にみられる3つの小孔は銛(モリ)による捕獲とする見方もだされており、また、大量に発見された石錘からマダイなどの魚網も推定されている。

 また、石鏃(せきぞく)の原料となる石材も、天竜川付近までは、奈良県と大阪府の県境にある二上山(ふたじょうざん)産出のサヌカイトや岐阜県下呂産の下呂石などが大量に入っているのに対し、東部では八ヶ岳黒曜石が、伊豆半島では神津島産の黒曜石が主流をしめている。 こうした点から生活必要材の「交易」が活発に行われていたことがわかる。

 縄文時代の開始は、静岡県の場合、九州や東北地方と比較するとやや遅く、1万1000年前ごろとされる。

旧石器時代との大きな相違を示す土器の製作が県内でも大仁(おおひと)町仲道(なかみち)A遺跡で確認されている。

静岡県の縄文遺跡の総数は2000ヶ所を数え、おおよそ大井川を境として東部に偏在している。