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登呂遺跡と静岡の弥生時代

稲作農耕は紀元前1世紀には全県的に定着したと考えられており、各地に拠点的集落が形成される。
こうした時期を経て、この静岡の地では2世紀後半から3世紀にかけて大河川の流域に稲作農耕を伴って本格的に弥生時代が展開し、このころから遺跡数が急増する。

 弥生時代の静岡県域は、初め静岡・清水平野、その後天竜川を境として大きく東西2つの地域圏に分けることができ、さらに細分化して、西から、
 (1)天竜川以西の遠州西部、
 (2)太田川・菊川流域を中心とした遠州中・東部、
 (3)大井川から静岡・清水平野までの駿河西部、
 (4)富士川・狩野川流域や愛鷹山麓から伊豆半島を含む駿河東部・伊豆の4地域圏が考えられるという。

 弥生時代の集落の構造は、ほぼ全域を調査した例を総合してみると、少なくとも集落は住居域、倉庫域、墓域の3つの区域をそなえていたとみられる。
 このうち、弥生後期の集落遺跡でもある登呂遺跡の集落の区域は、安倍川の1支流が形成した自然堤防上にある。 それは、17〜18戸で成り立っていたと推定され、彼らの生活を支えた水田は、これまでの調査で矢板や杭で補強された畦畔(けいはん)で整然と区画された水田が50枚ほど確認されている。
 水田の面積は最大で2396m、最小で375m、もっとも多いのは1400mとされている。

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細江町悪ヶ谷の
三遠式銅鐸

三ケ日町猪久保の近畿式銅鐸

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 弥生時代は戦争の時代でもあった。
この時代を特徴づけるものが、弥生中期から後期にかけて出現する高地性集落であり、集落の周囲に濠(ほり)をめぐらせた環濠(かんごう)が出現する。
 県内の高地性集落としては、小笠山北西麓に位置する袋井市の愛野向山(あいのむかいやま)遺跡や菊川流域の菊川市赤野(あかや)遺跡が知られている。
 前者からは、約14000mの範囲から150基以上の竪穴住居、高床倉庫のほか方形周溝墓、土器棺墓などの墓地が検出されている。

登呂遺跡全景

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高床式倉庫

 各地で水田遺構の調査が進んでくると、登呂遺跡の水田景観とは相を異にする田が多く検出されている。
それは、水田をつくる地形環境に応じて区画されるためとされ、そのたみに不定形のものが多く、田1枚の面積もせまい。 平坦地の水田に至っては4〜10mの小区画の田が検出される場合も少なくない。
 今日、県内で最古の弥生時代中期後葉の水田遺構といわれる静岡市瀬名遺跡でも、面積のわかる7枚の田は18〜28.5mで、足跡とみられる小さなクボミも検出されている。

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遺跡は、太平洋戦争中の1943年、軍事工場建設の際発見され、戦後間もない1947年には考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わった日本で初めての総合的な発掘調査が行なわれ、8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居・高床式倉庫の遺構が見つかった。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起こしの道具、占いに用いた骨などが出土した。

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