群集墳と横穴

 6世紀をすぎると、古墳が大きく変化する。
前方後円墳でも墳長30m以下、円墳は直径10〜15m程度に小規模化し、墳丘をかざった葺石(ふきいし)や
埴輪(はにわ)がなくなり、埋葬施設も追葬が可能な横穴式石室となる。


  

そして何よりも以前と異なるのは、その数が増加し、せまい範囲に群集して墓域を形成する点である。

 静岡県に存在した古墳の総数は、約9000基であり、このうち横穴が約3000基である。

約6000基の古墳のうち、4,5世紀の古墳は10%を越えることはないと推定されているから、

残り約5400基が後期から終末期の古墳ということになる。





 他方、約3000基を数える横穴も後期古墳を考えるうえで重要である。
軟質の凝灰岩を掘って作った横穴は、古墳時代後期から奈良時代にかけてつくられたもので、
大きさは5m以上のものから数十センチのものまで多様である。
 小さな横穴は、火葬の影響かとも推測されている。 この横穴は、高く築く墳墓と異なることから
階層差、身分差によるものと考える説もあったが、歴然した差はみいだしにくく、渡来系の人々
墓制とする考えが有力となっている。



 横穴は、遠江・駿河にもあるが、沼津市江之浦横穴群・函南町柏谷横穴群・伊豆長岡北江間横穴群・
大仁町宗光寺横穴群などのある伊豆に顕著にみられる墓制である。

 北江間(きたえま)横穴群は、東から大北東横穴群・大北横穴群・大北西横穴群・大師山横穴群
割山横穴群に区分でき、計101基の横穴が展開する一大横穴群である。

 そのうちの一つの大北横穴群の24号横穴からは、秀逸な書体で「若舎人(わかとねり)」と
刻された8世紀初頭のものとされる石櫃(せきひつ)が出土している。

       

 この若舎人と書かれた人物は、7世紀後半の天武(てんむ)持統(じとう)朝の皇子宮(みこみや)の舎人と
して出仕した人と推定されている。

 かくして、3世紀末から4世紀前半ごろにはじまった静岡の古墳造営は、7世紀中葉になると
遠江で古墳の築造が中止され
8世紀前葉になると駿河・伊豆でも古墳は築造を中止するに至る。





















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