庵原君と倭王権の浸透

 天智2年(663年)の白村江(はくそんこう)の戦いに「万余」の精鋭部隊を引き連れ、従軍した将に
庵原(いおはら)君臣(きみのおみ)(別名:臣足(おみたり)がいる。 (「日本書紀」)

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 庵原君臣の子と孫は、この一族の系譜である「庵原公系図」によれば、子の大蓋(おおがき)が大山上(のちの正六位上 相当)の位階をもち、「国造(くにのみやっこ)に任ぜられ、孫の首麻呂(おびとまろ)は、庵原郡大領(だいりょう)となり、神護景雲3年(769年)に駿河国の祭祀(さいし)をつかさどる律令制下の新国造となっている。

 こうした履歴からみれば、臣もまた後の駿河国庵原郡に居をかまえていた豪族であり、庵原国造の血をひいた存在とみてよいだろう。

 国造制は遅くとも6世紀には成立しており、「隋書」倭国伝によれば、6世紀末から7世紀初頭ごろには約120の「国」(=国造)が存在し、「国」の下に10の稲置(いなぎ)が属していた。
 また、平安時代初期に編纂された「旧事本紀(くじほんぎ)」には、各地の「国造」の履歴が書かれた「国造本紀(こくぞうほんぎ)」という部分があり、静岡県内の国造として、6国造が、任じられた治世およびその祖とともに書かれている。

            サイトを開く  国造本紀

 静岡県の6国造(くにのみやっこ)とは、
(1)素賀(そが)国造(神武天皇・美志印(うましいに)命
(2)遠淡海(とおとうみ)国造(成務天皇・物部氏の祖、伊香色雄命の子、伊岐美命)
(3)珠流河(するが)国造(成務天皇・物部氏の祖、大新川命の子、片堅石命)
(4)庵原国造(成務天皇・池田・坂井君の祖、吉備武彦命の子、意加部彦命)
(5)久努国造(仲哀天皇・伊香色男命の孫、印播足尼)
(6)伊豆国造(神功皇后・物部連の祖、天蕤桙(あまのぬぼこ)命の8世の孫、若健命)
以上の6国造である。

 古墳群の分布の検討から上の6地域は
(1)原野谷(はらのや)川・逆川(さかがわ)流域
(2)磐田原台地西南部
(3)富士・愛鷹山麓
(4)清水平野
(5)太田川流域
(6)伊豆半島
として対応を考えている。

 国造は王権への従属の証しとして、その娘か姉妹を采女(うねめ)として大王に差し出して奉仕させる義務をおっただけでなく、贄(にえ)などの貢物をおさめ、平時のさいには力役として造宮・造寺の人夫の派遣や戦時には兵の徴発に応じ、倭王権の軍事力の一翼をになう「国造軍」として参加した。  庵原君臣が白村江の戦いに出征したのも、こうした義務の遂行であったといえる。

 これらとならんで国造の大王への奉仕として重要なのは、「トモ:伴」として大王の身辺のことをつかさどる「舎人(とねり)」、大王の身辺の警護をつかさどる「ユゲイ」、大王の食膳のことをつかさどる「膳夫(かしわで)」の派遣であり、大王や王族の宮に出仕していたトモの資養物という名目で、各地の「初物」を貢上することであった。 後者の負担をうけおう集団は「べ:部」とよばれ、「トモ」とあわせて、5世紀から7世紀にかけて王権存立の最重要の基礎をなした「トモ-べ」制が成り立っている。

 前者にかかわって、檜前(ひのくま)舎人金刺(かなさし)舎人他田(おさだ)舎人などのようにかって奉仕した大王の宮にちなんで一族の姓と化した例や、後者にかかわって、白髪部小泊瀬(こはせ)長谷(はせ)部のようにかっての「名代(なしろ)」姓と化した例が、後代の文献資料や県内外出土の木簡墨書土器などの考古の史資料にみいだすことができ、また、「駿河国有度郡他田郷」のように地名化している例からも王権の浸透が推測できるのである。

 国 - 郡 - 郷 - (里)

 評(こほり)とは、律令制下の先駆けとなった制度で、7世紀中葉の孝徳(こうとく)朝ごろから大宝令施行に至るまでの間に実施された地方行政単位であり、王権が直接支配するための拠点として「評衙(ひょうが)」ともいえる施設が設けられた。 国造家とその系譜につらなるものや新興の首長などが任用された。 浜松市伊場遺跡とその周辺は、7世紀中葉から末にかけてこの評衙が存在していたとみてよいだろう。
 霊亀元年(715年) 国-郡-里 から 国-郡-郷-里 として手直しされ、天平11年(739年) 国-郡-郷 が基本的な地方行政制度として存続することになる。

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      浜松市伊場遺跡

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 伊場遺跡から出土した木簡

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