発見された古代の水田

 律令制下の遠江・駿河・伊豆3国の人々は、班田制にもとづき、6歳以上の男子には2段、女子にはその3分の2段の土地があたえられた。 これらの人々があたえられたは、班田は、8世紀の全国的な土地区画制度である条里制の施行された田が少なくなかった。
 条理がほどこされ、整然と区画された水田は、旧来、地形図・地籍図残存地名などから推定するしかなかった。 ところが、大規模開発の進行に伴う発掘調査によって地表下の埋もれた条里が発見される例が増加してきている。
 静岡県の場合も例外でなく、その顕著な成功例を清静バイパス工事に発掘調査からみておこう。



 この工事に伴う調査によって、耕地整理以前まで残存していた表層条理の方向・地割とほぼ並行する埋没条里が、静岡市内の各所(瀬名遺跡・川合遺跡・上土遺跡・岳美1丁目遺跡・永ヶ島遺跡・北安東4丁目遺跡・池ヶ谷遺跡)で発見され、9世紀以来中途での廃絶期間を含みつつも近代に至るまでの条里型水田を、広域的かつ重層的に検出した意義は大きい。
 これらの調査によって、埋没していた条里水田の一辺長が107m前後、方位がN38°〜41°Wとなること、また、川合遺跡内荒地区の官衙(かんが)かと推定される遺構も条里型地割により区画され、同地区でも検出された古東海道遺構が条里の里界線を利用したことがうかがえる点などをあきらかにしている。

 豪族の氏寺と国分寺

 9世紀初頭の仏教説話集「日本霊異記」(中-31話)には、聖武(しょうむ)天皇の時代に遠江国磐田郡の丹生(にゅうの)直(あたい)弟上(おとかみ)が「磐田寺」の七重塔を建立したという説話がある。 説話では、国司・郡司が別におり、弟上(おとかみ)は特別の肩書をもたないが、その「直」という姓からみた、郡司級の人であったろう。

    

 また、弟上の建立したのが塔と限定されていることから、弟上が磐田寺の伽藍のすべてを造営したわけではない。
 これらの点からこの寺は、丹生一族氏寺とみなすことができる(偶然発見された瓦から、磐田市寺谷廃寺がこの磐田寺の有力候補となっている。今後の調査にまちたい)。

 だが、塔建立の趣旨に賛同した「知識」を率いたとはいえ、塔の建立を完成させた経済力は並々ならぬものである。 こうした経済力を蓄積できた氏族が、白鳳期から天平期にかけて列島各地に氏寺を建立している。 地方への仏教普及の一つの指標ともいえよう。


 県内で知られているこの期の廃寺として、上図にみられるような寺院址がある。 これらの寺院が、遅くとも奈良時代天平期ごろまでには建立され、甍を競っていたのである。

 したがって、天平期にはいれば、遠江・駿河・伊豆の諸国の人々にとって寺院伽藍が稀有で新しい「文明」の象徴であった時代は去りつつあったともいえる。 こうした状況でもあるにもかかわらず、天平13年(741年)2月に国分寺建立の詔発布された。

 それは、「法華経」10部のほかに、「金光明最勝王経」10部、塔におさめるための天皇の自筆になる紫紙金字(ししこんじ)の「金光明最勝王経」の書写、丈六の釈迦像造立料として憎寺に食封(じきふ)50戸の畝入、憎寺の定員を20人、尼寺は10人と定め、その生活費として各々に水田10町をあたえることなどを内容とするものであった。
 全国に国分憎寺国分尼寺を建立しようとする大事業である。 この大事業は、県内でも各地に国分寺跡としてその歴史的痕跡を残している。

 遠江国の国文憎寺は、磐田市中央町に往時の姿が一部復元されており、国分尼寺はその北に存在したことがほぼ確かめられている。

 サイトを開く 磐田市国分寺跡

 駿河国の国分寺は、静岡市大谷にある片山廃寺がその最有力候補とされているが、国分尼寺は不明である。

   

 伊豆国分寺は、三島市泉町に、国分尼寺は三島市南町に求められる。

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 サイトを開く 伊豆国国分寺跡

 このうち、遠江と伊豆の国分寺は、そのプランが中門の東西から回廊がのびて金堂にとりつき、塔が回廊の外の西に配置される東大寺式伽藍配置であったことがわかっている。
























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