東海道と駅家

 平成6年(1994年)〜平成7年(1995年)にかけて、旧東静岡駅跡地を中心とした曲金北遺跡の調査が行われ、下層に古墳時代後期のころと推定される水田跡の上層から、奈良時代から平安時代にかけての古代の道路跡が発見されている。

   
 道路跡は古代の東海道であり、両側に溝をもつ、長さ350mにわたる直線道路である。 道路幅は、おおよそ9mで、側溝の中心からもう一方の側溝の中心mでに距離が12〜13mの幅である。 この道路は、条里の東西方向と一致しており、道路側溝から、布目瓦・須恵器・土師器・灰釉陶器・木製品その他の豊富な出土品にまじって、3点の木簡が出土したことも注目されている。 駿河国内から常陸の国郡名を記した木簡が発見されたことは興味深い。

   
   東静岡駅跡地で行われた約30,000平方メートルの発掘調査では、奈良時代から平安時代にかけての官道が見つかりました。これは、清水の清見寺から一直線にここまで延びている道だそうで、幅が道部で9m、側溝まで入れると12m。歩いてみて、とても立派な道でした(有度第一小学校5年生の社会科見学でこの遺跡を訪問し、約190名の子どもたちが、当時の面を歩きました。この時、転がっていた子がいて、「先生、1000年前の土を付けちゃった!」と言って喜んでいたのが印象的でした…)。すごい土木工事が行われていたということは、きっと犠牲者も出ていたのでしょう。
 なお、現在はこの遺構付近にグランシップが建っていますが、この古道を外して建てています。約100mですが、この道を意識した歩道があり、説明版も写真付きであります。
   「常陸國鹿島郡…」という木簡を見たとき、この道路の意味がわかりました。当時の日本を支えていた、今で言う国道一号線だったんですね。それにしても、東海道新幹線とほぼ同じ位置にあるのですが、当時の人たちの都市計画のすごさを感じました。



 この官道としての東海道に、令制下30里(16km)に一駅おかれたのが、官衙としての駅家であり、東海道が中路にあたることから駅馬10匹がおかれた。 「延喜式」に規定された3国の駅家とおもな推定地は、次のとおりである。

<遠江>
 猪鼻(荒居町)--栗原(浜松市伊場遺跡)--□摩(磐田市今ノ浦付近)--横尾(掛川市中宿・下西郷付近)--初倉(島田市宮上遺跡周辺)「なお、延喜式にみえない駅家として、板築駅家(伊佐郡三ヶ日町日比沢がある」

<駿河>
 小川(焼津市小川町)--横田(静岡市横田町)--息津(おきつ)(静岡市興津本町)--蒲原--柏原--長倉(沼津市大岡日吉)--横走(御殿場市駒門)
 



 駅家は、一般庶民の利用を許さぬものであったが、こうした施設を利用できなくても、都鄙(とひ)を往来する人々が東海道を通過した。 「駿河国正税帳」は駿河国の東海道を通過した多種の人々を書き留めたが、そのなかに帰郷する東国防人(さきもり)の集団もあった。

 平安時代にはいると、東北の蝦夷(えみし)との戦争もあって、東海道の往来は以前にまして活発化したようで、承和2年(835年)には、駿河国の富士川に渡船2艘を加えて三艘とする太政官符がだされている。
























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