三島大社と富士山の爆発

 伊豆国の一宮であり、総社(そうじゃ)でもあった賀茂郡の三島大社は、大同元年(806年)の(ちょう)(「新抄格勅符抄」)によれば、天平宝字2年(758年)に、社殿の維持・管理と恒常の祭祀のための封戸(ふこ)が計13戸さずけられた。 その後、天長9年(832年)に三島神は、伊古奈比(いこなひめ)神とともに「明神(みょうじん)」に列せられ(「釈日本紀(しゃくにほんぎ)」)、嘉祥(かしょう)3年(850年)10月7日には「神階(しんかい)」として従五位上をさずけられ、貞観(じょうがん)10年(868年)7月27日には従三位をさずけられている。 この「神階(しんかい)」とは、神々に位階(いかい)をさずけ、神々を序列づける試みにほかならない。

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                          三島大社

 その最初の記事は、承和(じょうわ)7年(840年)6月24日に遠江国周智郡無位小国(むいおくに)天神と同国磐田郡無位矢奈比売(やなひめ)天神に従五位下をさずけたという記事であり、つぃで、9月23日に伊豆国神津島阿波神物忌奈乃(ものいみなの)神に従五位下をさずけたという記事である。 (「日本文徳(もんとく)天皇実録」)。
 以後、寛平2年(890年)12月25日に遠江国の雄神を従四位上から正四位下に神階を上げる記事(「日本紀略」)をみるまで断続的に続く。

 史料で確かめられる神階をさずけられた神々は、遠江国6神、駿河国6神、伊豆国11神の計39神であり、これを神階別に分けると、四位以上が7神、正五位上:3神、正五位下:5神、従五位上:4神、従五位下:20神となり、半数強が従五位下の神々である。 これらの神々は、9世紀末までにそれぞれの国で律令国家がさずけた神階の授与と昇叙によって神々が序列づけられていったのである。
 こうした試みの一つの帰結が、「延喜式」にみえる「式内社(しきないしゃ)」体制である。

 式内社とは、延長5年(927年)撰進の「延喜式」の巻9・巻10の「新名帳(しんみょうちょう)」に記載された3132座の神をまつる神社をいう。

 このうち、さらに式内の大社403座のなかから名のある霊験(れいげん)あらたかな神と認定した285座を「名神=明神」としてほかの神との差異をつけ、明神大社→大社→地方の小社→無格社と序列化している。

 県内の式内社として、
   遠江国から62座(大社1座・小社61座)、
   駿河国から22座(大社1座・小社21座)、
   伊豆国から92座(大社5座・小社87座)
 が選ばれている。

 このうち、明神・大社となったのは、
   遠江国は榛原郡の敬満(けいまん)神社の一社、
   駿河国は富士郡の浅間神社の一社、
   伊豆国は、
     賀茂郡の伊豆三島神社
     伊古奈比当ス(いこなひめのみこと)神社
     物忌奈乃命(ものいみなのみこと)神社
     阿波神社
     の4社に、
       賀茂郡の意波与命(おはよのみこと)神社か
       田方郡楊原(やなぎはら)神社
     いずれかの一社を加えた5社である。

 3国の群別内訳は、
  <遠江国>
     浜名郡5座、敷智郡6座、伊佐郡6座、鹿玉郡4座、流下郡4座、長上郡5座、磐田郡14座
     山香郡(なし)、周知郡3座、山名郡4座、佐野郡4座、城飼郡2座、榛原郡5座
  <駿河国>
     志太郡(なし)、益頭郡4座、有度郡3座、安部郡7座、庵原郡3座、富士郡3座、駿河郡2座
  <伊豆国>
     賀茂郡46座、田方郡24座、那賀郡22座

 こうした式内社の分布で、第一に注目されるのは国ごと・郡ごとに式内社数が不均等であることである。
 式内社が存在しない郡もあり、他方で伊豆国賀茂郡のように一郡で46座も占め、駿河国7郡の式内社の総数を優に上回る郡もある。 これをみても式内社が機械的に諸国の群から均等にえりぬいたものでないことがわかる。

 また、3国のなかでは伊豆国の式内社数の多いことがめだつ。 そぬちでも、三島神社は「神名帳」によれば、「案上官幣(あんじょうかんぺい)」のあつかいをうけ、明神・大社の社格に加えて、国家的祭祀の月嘗祭(つきなめさい)および新嘗祭の執行に際して幣帛(へいはく)をうける3国176社のなかで唯一の神社である。

 他方、富士山を御神体とする駿河国浅間神社は、駿河国内では高い社格をあたえられ、仁寿(にんじゅ)3年(853年)7月5日に明神とされ、貞観(じょうかん)元年(859年)1月27日には正三位の神階を授与されている。



 富士山の爆発

 自然災害史の上でも見逃すことができないが、火山噴火のメカニズムに暗かった当時の人々にとって、「国の鎮め」としての富士山の噴火が社会不安を増幅させたための対応である。

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 富士山は、「扶桑略記(ふそうりゃっき)」などの史料によって役小角(えんのおづか)が開いたとされる。
 こうした伝説にたよらなくとも、「万葉集」に「日の本の大和の国の鎮」ともうたわれていることから、奈良時代にはすでに周知の山であった。 また、「常陸国風土記筑波郡条には、「神祖尊(みおやのみこと)」が駿河国の「福慈岳(ふじだけ)(富士山)」で宿を請うたところ、福慈神は「新粟(わせ)の初嘗(にひなへ)して、家内諱忌(ものいみ)せり。 今日の間は、翼(ねが)はくは許し堪(あ)へじ」 と断り、「神祖尊」は宿を貨さなかったことを恨み、そのことが原因で長く福慈岳にはつねに雪がふり、人が登らなくなったという伝承がみえる。
 ここでの「福慈(富士)神」は、秋に「新嘗」をする存在として語られており、古代の民衆生活の延長上に擬人化して語られている。
 都の貴族が駿河国を通過するに際してあおぎみた国家鎮護の神とは異なる一面が示されている。

 元慶(がんぎょう)元年(877年)前後ごろ成立した都良香(みやこのよしか)の「富士山記」の山頂の描写は、富士山頂への登山経験なくしては描けないもので、おそらく、9世紀後半のころには富士山への登頂を実際に試みたものがいたと考えられる。

      



 古代の富士山噴火

 古代における富士山の噴火は、
   天応元年(781年)(「続日本紀」「日本紀略」)にはじまって、
   延暦(えんりゃく)19年(800年)、
   延暦21年((802年)、
   承和(じょうわ)年間(834年〜848年)、
   長保(ちょうほう)元年(999年)、
   長元(ちょうげん)5年(1032年)、
   永保(えいほう)3年(1083年)
 までの噴火が史料的に確認できる9回である。

 近世では宝永4年1707年)の宝永大噴火である。

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