国分寺の退転と定額寺・大知波峠廃寺

 聖武天皇の威令で造営させた国分寺は、律令国家の厚い保護のもとにおかれていたが、平安時代にはいると各国の国分寺は寺の維持・補修を自前で行う必要が多くなってくる。 この点を少しみておこう。

 遠江国分憎寺は弘仁10年(819年)8月29日に火災にあっており(「類聚国史(るいじゅうこくし)」、発掘調査によって金堂・塔の焼失が推定されている。 その後の再建の痕跡はないが、10世紀代の「講院(こういん)」の墨書土器が出土していることから、かろうじて法灯を保っていたと考えられる。 また、伊豆国分尼寺も承和3年(836年)の火災によって焼失したのちは、豪族の氏寺である「定額寺(じょうがくじ)」を半世紀におよんで代用していた。 その後、元慶(がんぎょう)8年(884年)に国司による再建の申請が許可されているが(「三代実録」)、その完成については不明である。

 これらの例が示唆するように、国家の手厚い保護に依存していた国分寺は、保護が薄くなると、退転を余儀なくされた場合が少なくない。

 9-10世紀における寺院の退転の事情は、豪族の氏寺にもおよんでいる。
 国家からの優遇措置をうけることができる資格をもつ豪族の氏寺である、定額寺ですら、退転の危機をのりきる必死の努力がなされている。

 定額寺の例は、伊豆国分尼寺の代用となった寺名不祥の例につぃで斉衡(さいこう)2年(855年)9月28日に定額寺となった「伊豆国大興寺」(「日本文徳天皇実録」)、貞観(じょうがん)5年(863年)6月2日の「駿河国頭陀寺(ずだじ)」(いずれも「三代実録」)の例をみることができる。

 しかし、伊豆国大興寺は「孝子大部富賀満」が「国家の為に建て」たものであるが、定額寺となると同時に「海印寺別院」となっており、中央寺院の末寺化を選択している。

 遠江国頭陀寺も、のちに高野山領頭陀寺荘が存在していることから、時期はふめいであるが、同じく末寺化の途を選んだと考えられる。

 こうした選択は、多くの白鳳期天平期の寺院が10世紀のころに退転を余儀なくされている場合のすくなくなかったことをふまえれば、揺れ動く古代社会のなかで「氏寺」を存続させるための一つの選択であった。

    
   白鳳文化(薬師寺)                   天平文化(唐招提寺)

 10世紀に退転を余儀なくされる寺院がみられるなかで、この時期にあらたに寺院が建立される場合もある。
 湖西市大知波峠(おおちばとうげ)廃寺は、浜名湖北西部の多米(ため)峠本坂峠の中間の主尾根に位置する国境の寺院である。
 遺跡からの眺望は浜名湖を眼下にし遠江を一望でき、尾根に立てば三河国府国分寺も視野に入る。



 



 末法思想と写経・経塚

 奈良時代に国家や寺院の経典の需要にこたえる写経は、平安時代になると下火になり、それにかわって祈願成就を願っての宗教行為としての写経が、浄土思想の普及や日本では永承7年(1052年)より末法にはいるとする仏教的終末観である末法思想の流布とともに盛んになってくる。

 また、写経行為にとどまらず、さらに、経典を写した後にそれを金属製その他の容器に入れ、それらを土製の外容器におさめ、地下の小さな石室に和鏡利器・銭貸などとともに埋納する埋納経が11〜12世紀をつうじて全国的に活発化することが確かめられている。 そのことを端的にしめすのが、経塚の築造である。 これは、56億7000万年を経て、ふたたび娑婆(しゃば)世界に出現する弥勒菩薩が第二の釈尊(しゃくそん)として再生して龍華樹下(りゅうげじゅげ)に教えをたれ、衆生済度(しゅじょうさいど)を示す経典に依拠したもので、経典を弥勒再生の時期まで地下に保存しようとする信仰活動に基づいている。

         

 県内の古写経として、榛原郡相良町般若寺には、静岡県指定文化財で、治暦(じりゃく)2年(1066年)の年紀と正5位上藤原惟清(これきよ)ら4人の名を記す奥書をもつ大般若経が65巻(うち46巻に奥書あり)所蔵されており、賀茂郡南伊豆町の修福寺(しゅうふくじ)には、長治元年(1104年)2月6日に大蔵大輔で伊豆守を兼官した大江通国や大治2年(1127年)に伊豆守に重任された源盛雅の息子の源盛頼の名が奥書にみえる重要文化財の大般若経539巻がのこされている。

    



 一方、県内の経塚(きょうづか)については、昭和2年(1927年)、伊豆山でも経塚が伊豆山神社裏山から「永久5年(1117年)8月4日」「僧良勝 橘成祐」と刻書された経筒外容器や「承安(じょうあん)2年(1172年)」の年紀を記す網文飛雀鏡(あみもんひじゃくきょう)が発見されており、伊豆山神社経塚と呼ばれている。 なお、伊豆山神社本殿に安置されている神像は、平安時代中期の一木造・像高212cmの男神立像で重要文化財に指定されている作品である。

      
   伊豆山神社の経筒外容器
   「永久5年(1117年)8月4日」
   「僧良勝 橘成祐」と刻書がみえる
   



 コラム 東海の海民・海賊

    海の幸         

 黒潮は、海の幸を運んでくれる。 こうした利点を伊豆大島は十分に生かした生産活動を古代においても行っていた。 伊豆大島鰹(カツオ)漁とその加工の一つの拠点であり、内陸部の生活用土器が大島新島式根島でも出土していることから、古代の太平洋の海上交通の重要拠点であったことはすでに指摘されている。

伊豆大島 式根島の地図 伊豆新島の地図   

 海上交通が盛んになると、海賊がつきものである。 海賊といえば、瀬戸内海で活躍した村上水軍や紀伊の熊野水軍などが有名であるが、平安時代の貴族である藤原宗忠の日記「中右記」に「遠江・尾張・美河の海賊強盗、多く以って出来(しゅったい)す」とあり、永久2年(1114年)のころ、遠江にも海賊がいたことを記している。


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 文献史料は東海の古代の海上交通について多くを記さないが、それでも、「日本書紀」応神5年冬10月条は伊豆国に、仁徳紀62年5月条は遠江国に、斉明紀6年12月条は駿河国が造船を行っていることを記しており、陸上交通とならんで海上交通も大事な道であったことがわかる。
 また、熱海市来宮(きのみや)神社大楠は、かって船材として用いることの多かった伊豆の地のを知るよすがでもある。

   来宮神社

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