「今昔物語」に描かれた相撲人・傀儡師(かいらいし)

 12世紀にできた編者不明の「今昔物語集」は、平安時代に生きた人々を活写している史料として知られている。

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 「相撲人私市宗平投上鰐語(すまいびときさいちのむねひらわにをなげあげたかたり)」(巻23-23)に登場する駿河国の私市宗平は、正暦4年(993年)のころの実在の人であり(「小右記(しょうゆうき)・「権記(ごんき)正暦4年条」)、相撲人として京都にのぼり、その名をなした名高い相撲人であった。

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 平安時代になると、毎年7月、天皇が宮中で相撲を観覧し、参列の諸臣と饗宴をする相撲節会(すまいのせちえ)が年中行事化されるようになり、 この相撲節会に諸国から力自慢の相撲人が選ばれ、7月28日の天覧の召合(めしあわせ)にそなえた。
 私市宗平は、こうした年中行事がうんだ著名人であった。



 また、「今昔物語集」には、平安時代の諸国を渡り歩く芸能者集団である傀儡師(かいらいし)出身であった伊豆国の目代(もくだい)の説話をのせている(「伊豆守小野五友目代語」巻28-27)。

 伊豆守小野五友(おのいつとも)は、国守の代理として有能な目代を探し求め、駿河国内の年60歳ほどのものを目代にした。 あるとき、国守の前で仕事をしていたところ、傀儡師が国司の館に出入りし、歌舞を披露しはじめたら、「昔のこと忘れ難く」と仕事を放り出して、ともに興じ始める始末。 そりをみて館のものが笑いさわいでいると、目代はわれにかえり、恥じて逃げ去って行った。 国守がその理由を傀儡師に訊くと、目代は若い頃に傀儡師であったが、書を巧みにし、文を読むことができることから傀儡師をやめたという。 国の人や舘の人は、彼の人を「傀儡師目代」といって笑ったという。
 この説話は、若いころの体にしみついた傀儡師体質が容易に消せるものでなかったことを語っているが、 同時に伊豆国司の館に出入りする傀儡師集団の姿を描いている。 遠江の地はこうした集団を育んだ土地でもあった。

                         

 「朝野群載(ちょうやぐんさい)」におさめられた大江匡衡(おおえまさひろ)の「傀儡子記(くぐつしき)」は、そうした人々の生活を漢文体でつづった作品として著名であり、 東国の美濃・美河・遠江等の党を豪貴」とし、傀儡子(くぐつし)集団のランクの最上位にしている。

 傀儡子(くぐつ)は「定居無し」と書かれ、テントに似た移動可能な住居に住み、水草を覆って移動する存在であった。 その風俗は「北狄之俗に類し」、男は弓馬が巧みで、「沙石を変じて金銭と為し、草木を化して鳥獣と為す」といった奇術に類することもできるとされる。 女は「唱歌淫楽、以て妖媚を求め」、「一宵の佳会を嫌わず」と記された遊女的な一面ももっていたとされている。

              

 傀儡子集団は、「一畝の田をも耕さず。 一枝葉も採らず。 故に県官に属さず。 皆土民に非ず」ということから、 彼らは課役がなく、そのことをもって「一生の楽と為す」とも書かれた存在である。

 諸芸能にすぐれた渡り歩く傀儡子集団の社会的存在理由は、諸国を渡り歩き、 歌舞音曲をもって「福助を祈る」宗教性にあったとみることができるのである。



 霊験所伊豆の走湯・箱根山の生成

 11世紀ごろになると、走湯権現・伊豆権現の名で知られた伊豆山神社神宮寺(熱海市)の地は、平安時代の「新猿楽記」や「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に「よもの霊験所は伊豆の走湯、信濃の戸隠、駿河の富士の山、伯耆の大山丹後の成相(なりあい)とか、土佐の室生(むろお)と讃岐の志度の道場とこそ聞け」とみえ、「伊豆の走湯」は「駿河の富士の山」とならぶ、日金山(ひかねさん)と走湯(温泉)を信仰のの対象にした全国でも有数の霊験所であった。

 また、足柄明神をまつる箱根外輪山矢倉岳が古くから信仰されていたが、神山駒ケ岳をめぐる山々や湖水が信仰の対象になった箱根山修験道がある。

 建久2年(1191年)の奥書のある「筥根山縁起幷序」によれば、天平宝字3年(759年)に、三重県の多度神宮寺、茨城県の鹿島神宮寺の創建にもかかわった万巻(満願)上人が苦行の末に山の3神を感得して筥根三所権現としてまつりはじめたとする。 子細は不明ながら奈良時代末期には、箱根山の開基は認められよう。

  

 その後、平安時代にはいると11世紀前半の人で、三十六歌仙の一人である相模の「相模集」には、

 ふたつなき 心にいれて はこね山 いのるわか身を むなしからすな

 と箱根権現をうたった和歌があるが、これかもうかがえるように、このころには箱根山の修験道信仰が盛んであったことが証される。

   伊豆山神社



 富士上人(しょうにん)末代と藤原顕長(あきなが)
 
 昭和7年(1932年)、旧田方郡西錦田村三ツ谷新田(三島市三ツ谷新田)で、経塚が発見された。 遺物のなかに、愛知県渥美郡田原町大アラコ古窯址で焼いた壺があり、そこに「藤原顕長(あきなが)」の名を含む銘文が刻されていた。

   

 同様な壺が、その後焼成地を別として、県外でも出土しており、今日、山梨県南巨摩郡富沢町出土(個人蔵)、伝鎌倉出土(愛知県立陶磁資料館蔵)、神奈川県綾瀬市早川宮久保遺跡出土(神奈川県立埋蔵文化財センター蔵)の3点が知られている。

     
      藤原顕長の銘文              大アラコ古窯跡出土            山梨県出土

  
    大アラコ古窯跡出土

 藤原顕長(あきなが)は、白河院の近臣であった藤原顕隆(あきたか)と源顕房(あきふさ)の娘とのあいだに生れ、藤原季綱(としつな)の娘の悦子との間に生まれた藤原顕頼(あきより)・顕能(あきよし)は異母兄弟にあたり、顕長は、保延(ほうえん)2年(1136年)から久寿(きゅうじゅ)2年(1155年)までのあいだに三河守遠江守三河守と任じられている。 

 その顕長(あきなが)が三河守在任中に三河国の渥美半島にある大アコラ古窯に埋納経のために必要な壺をつくらせ、今日知られているかぎりで、伊豆・相模・甲斐の3国に埋納を企てたと考えられる。

 他方、顕長が遠江守となっていた久安(きゅうあん)5年(1149年)、京都で富士山に一切経を奉納することを説く僧侶がいた。 その名を富士上人末代(ふじしょうにんまつだい)という。

 富士上人末代は、霊峰富士にのぼること数百度におよぶという僧であった。 その末代が、経はいうにおよばず律・論・釈疏などの経典のすべてを書写する一切経の書写とそれらの富士山への埋納を企て、すでに関東・東海・東山の人々を勧進してまわり、久安5年4月ごろには都にまでのぼり、京都の公家から庶民だけでなく、鳥羽法皇をも結縁させることに成功した(「本朝世紀」久安5年4月16日・5月2日・5月13日条)。

 この企ての結果を史料は記さないが、それから約800年後の昭和5年(1930年)8月、まったく偶然に、このことに関連すると思われる遺物が、富士山頂の三島ヶ嶽で土砂を採取していたおり発見された。 同経筒1・同経筒片2個体分・朱書および墨書紙本経の残塊一括・陶壺片一括・刀子片一括などが出土していることから、紛れもない経塚の遺址の富士山頂からの発見であった。

     
            出土した経典

 出土遺物を調査すると、銅製経筒の底部に「承久」の墨書があり、経巻50巻のうち43巻が血書を擬した紅殻(べんがら)で書かれた朱書の経巻であり、これらに加えて、「17日書了」「末代聖人」と墨書した紙片も残存していた。 これらを久安5年のものと断定する見解には異論もあるが、末代上人の関連資料とみることに誤りはない。

 藤原顕長の各所への埋納経と富士上人末代の霊嶽富士山への埋納経との関係は、なお未詳の部分が多く今後の課題であるが、武家の世の開幕を告げる源頼朝伊豆での旗揚げの前段階にあたる12世紀中葉に東海を震源地とする大宗教運動が存在したことはもっとも知られてよいだろう。
 
     武士の台頭


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