武士の発生と牧

   

 わが国中世の主役は、やはり武士だろう。伊豆で挙兵した源 頼朝にしたがい、初の幕府を鎌倉に開く主勢力となった彼らとは、一体どのような存在だったのか。 それを一言で表現すれば、弓矢と太刀をおもな武器とする乗馬の戦闘集団であり、発生の当初は狩猟民的性格を色濃くまとっていたが、やがて農村に根をおろして在地領主的性格を強め、鎌倉幕府においては、御家人(将軍に奉公(ほうこう)する武士)=領主として法的に規定されるようになった、といえる。

 このような武士が組織化され、社会的身分として承認されるについては前提があった。 すなわちそれは、九世紀の古代律令(りつりょう)国家が辺境の狩猟牧民集団を編制した騎兵隊を特殊な源流とし、さらに九世紀から十世紀の東国を中心に跳梁した群党(弓馬で武装した浮浪反逆集団)を鎮圧するために、地方の国衙(こくが)や中央の諸権門に国家的軍事力として編制された弓射騎兵軍が、直接の前提になったと考えられるのである。



 およそ東国には、古くから多くの牧場が発達し、馬の生産において質・量ともに西国を凌駕した。 狩猟牧民集団から弓射騎兵軍、そして中世武士団への展開過程において、牧(まき)の存在は密接不可分の関係にあったに違いない。 遠江国には、律令制下に白羽官牧(しろわのかんまき)があり、やがて荘園化して白羽荘(しょう)とも称し、笠原(かさはら)牧や相良(さがら)牧という私牧を分出させた。 両私牧とものちには荘とよばれた。白羽牧の故地は御前崎西方の砂丘地帯から北方の牧之原台地におよび、相良牧と笠原牧は、それぞれ榛原郡相良町と小笠郡浜岡町丁大須賀町)付近とに措定(そてい)される。 これらの牧の地域・周辺には、勝間田・相良・新野・横地・内田・浅羽などの武士団が輩出した。

 駿河国には、岡野(大野)・蘇弥奈(そみな)の二官牧があった。 岡野官牧は愛鷹山の東南麓、現沼津市の大岡・金岡・愛鷹を中心とする地域に存在し、のちには大岡牧あるいは大岡荘とよばれる荘園になった。

 蘇弥奈牧の位置は明確ではないが、やはり、現静岡市街地の西北、安倍川と藁科(わらしな)川とに囲まれた牧ケ谷から美和の内牧に至る一帯の山地と理解するのが妥当だろう。 大岡牧の周囲には、葛山(かつらやま)・大森・小泉・金持(かなもち)・原氏などが発祥し、蘇弥奈牧の近辺では、岡部(辺)・朝比奈・藁科・工藤・長田(おさだ)・手越の各氏、今の清水市域南部には、入江氏を始め多数の武士団が簇生(そうせい)した。

 伊豆国では官牧の存在を検証しえないが、現田方郡修善寺町に牧之郷という地名があり、この付近を根拠として伊豆各地に同族を分出した大武士団(狩野・工藤・伊東・河津氏など)の私牧の遺称地かと考えられる。

 牧の近隣には、八幡・大見(おおみ)・田代・堀氏が勃興し、駿河の大岡牧との中間地帯には三戸(みと)(津)・天野・南条・北条・江間・近藤・那古谷(なごや)・仁(新)田・沢などの諸氏が分布した。 伊豆国においても駿河や遠江と同様に、牧と武士(団)との深い関わりを認めてよいであろう。




 国司の「土着」と武士団の形成
 
   

 このようにして出現した武士たちが結集し、やがて在地領主化していく過程で、国司とその末流が果たした役割は大きい。
 まず天暦十(956)年、駿河国司は「弓箭を帯びざれば」前述の「群党」による犯行に対処できないとして、「国司□郡司雑任(ぐんじぞうにん)帯剣」を太政官に申請し、勅許を得た(『朝野群載(ちょうやぐんさい)』)。弓箭・剣など、武器の恒常携行を、国司はおろか郡司の雑任(四等官にはいらない下級職員)にまで一挙に拡大・承認したことは、おそらく数百をくだらない規模の軍隊の創設を意味する。 すなわち国司が指揮する国衙軍の設立であり、やがてそれは、国内武士団の結集母体となり、東国から全国に波及していったのである。

 こうして国司の指揮下に組み込まれた弓射騎兵集団は、農民支配のための強制執行武力に転用される場合もあった。 また他方、弓射の集団のなかには、対する農民の傭兵的役割をになったりして、農村社会との結びつきを強めるものもあらわれた。 武力を買われるにせよ、逆に暴力をもって支配し田畠の押領におよぶにせよ、あるいは「平和」裡に狩猟と私出挙(しすいこ)などによる動産投下を行うにしても、彼らはさまざまなかたちで農村に立ちあらわれ、やがてその内部に食い込んで領主化への道を歩みはじめるのである。






 長元元(1028)年におこった平忠常たいらのただつね)の乱に際しては、東海・東山道諸国に追討官符(ついとうかんぶ)がくだされ、忠常は、追討使に起用された清和源氏流(当初は「陽成(ようぜい)」源氏を称していた)の甲斐守頼信(かいのかみよりのぶ)に降伏した。

  八幡太郎義家

 頼信の子頼義(よりよし)、その子義家(よしいえ)は、前九年(ぜんくねん)の役(1051〜62)・後三年(ごさんねん)の役(1083〜87)に出征し、坂東・東国の武士たちを率いて奥州各地に転戦した。『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)によれば、頼義の国守任国のなかに伊豆が含まれ、また、北条時政の先祖が、奥州下向の途中北条の館に立ちよった頼義に娘を配したという所伝もある(真名本『曽我物語』)。 多分、伊豆以下県下三国の武士たちの多くも、源氏三代と私的主従関係を結ぶようになっただろう。 かくして義家の時代には、東国武士の棟梁(とうりょう)としての源氏の地位が固まった。

 



 確かにこのころになると、県下諸地域も中世的武士、すなわち在地領主としての性格をそなえた武士が広汎にみうけられるようになる。代表的な例の一つとして、また、信頼性の高い史料によって実在が検証されるものとして、現在の清水市入江町付近を本拠に発展した入江氏を取りあげてみよう。

  

 諸系図類が伝えるところによれば、はじめて入江氏を名乗ったのは、藤原南家の流に属する「入江(右)馬允維清(うまのじょうこれきよ)」だという。同人の実在性については、榛原郡相良町大沢の般若寺(はんにゃじ)に所蔵されている『大般若波羅蜜多経』巻第373の奥書に、治暦二(1066)年の銘で「願主正五位下藤原朝臣維清」とあることによって確証が得られる。

 

 維清は、父の時信(ときのぶ)が駿河守に任じられたのにしたがって現地にくだったらしい。 時信・維清父子は、当時の国司にあたえられた強大な権限を利用し、中央政府の方針である荘園整理を遂行する一方で、その権力をちらつかせながら、逆にみずからの私領を設定するための布石を行ったと考えられる。

 受領(ずりょう)が京都より多数の子弟・郎党らを引率して任国に赴き、彼らを国内支配の尖兵としていた事実や、国内に多くの私領・佃(つくだ)(直営田)を設けて郎従(ろうじゆう)・農民に耕作させていたことなどは、他国に類例が少なくない。

 駿河守の任期が明けてのち、時信はあるいは帰京したかもしれないが、維清はとどまって清水市入江各町付近に「土着」し、ここを「名(苗)字の地(=本領をあらわすと同時に、本姓とは別に、その地名を家代々の名乗りとする)」として、有度山東北麓一帯の開発にのりだした。

 加えて維清には、右馬允というれっきとした中央武官の経歴があり、父の駿河守在任中はその強制執行力を構成し、国衙軍制の一翼をになったに相違ない。 彼はこの間に組織した武装集団をしたがえたまま「土着」し、在地領主に変貌した。

 維清が開発した入江の地は、やがて立券(りっけん)・寄進されて入江荘とよばれ、平安時代の入江氏は荘官職(しょうかんしき)を相伝したらしい。

 また周辺には一族を分出させ、近隣の土豪(どごう)・弓射の武装集団を吸収し、駿河国有数の武士団に成長していった。

 維清の子孫からは、入江氏のほか、国内に工藤・原・久野(くのう)(能)・船越・岡辺(部)・息(おき)(輿)津・蒲原・渋川(しぶかわ)・吉香(きっか川)、その他の諸氏がで、伊豆国には天野氏を輩出した。 入江宗家は一族の中心にあって、鎌倉時代には入江荘地頭職を相伝したのである。


 保元の乱と駿・遠・豆武士団

 11世紀の末は摂関政治から院政への転換期であった。 かつて「武士の長者」と称された源義家の地位は、新興の院政政権と結びついた平正盛(まさもり)(伊賀(いが)・伊勢(いせ)地方を地盤とする「桓武」平氏の裔(すえ))に移り、義家の跡をついだ孫の為義(ためよし)は、まったくふるわなかった。

 こうした頭勢を挽回すべく、はやくから坂東にくだり、相模(さがみ)国鎌倉を根拠地として東国武士の再組織にのりだしたのが、為義の嫡子義朝(よしとも)だ。 義朝の子の母たちは、京都から相模までの東海道沿いに点々としていた。 たとえば範頼(のりより)の母は、遠江国池田宿(磐田郡豊田町)の遊女で、範頼自身は同国蒲御厨(浜松市)で成長したと伝えられるごとくである。

 これらはすなわち、義朝が京・鎌倉のあいだをつねに往還し、東海道の要所にしかるべき備えを維持していた事実を示している。

 

 長いあいだ政界に君臨した鳥羽法皇の死を契機に勃発した保元の乱256年)は、わずか四時間ばかりの市街戦で、後白河天皇・関白藤原忠通側の勝利に帰した。

  

 平清盛とともにこの合戦の主力をになった義朝は、『兵範記(ひょうはんき)』によれば200余騎、『保元物語』では近江から下野(しもつけ)・常陸(ひたち)に至る東国17国、主要騎兵400余、合計1000余騎を率いたと記し、異本によっては200〜300騎としている。そして、義朝麾下(きか)の遠・駿・豆武士団としては、遠江国−横地長重(ながしげ)・勝間田成長(なりなが)・井伊八郎駿河国−入江右馬允・藁科十郎・興津四郎・蒲原五郎伊豆国−狩野工藤観光(ちかみつ)・同親成(ちかなり)の名を載せている。義朝の失地回復運動は、ある程度功を奏したと判断できよう。

 しかし、義朝と父の為義とは年来不和であり、保元の乱でも為義は崇徳上皇(すとくじょうこう)・藤原頼長(よりなが)方に加わり、乱後斬首された。為義にしたがった義朝の弟たちのうちで、唯一死刑をまぬがれたのは為朝(ためとも)だけだった。 弓矢の技をおしんで死一等を免ぜられたものの、二度と弓が引けぬように両腕の筋を切られたうえで、伊豆大島に流罪となった。



 護送はそれでも厳重をきわめ、為朝の意気もいっこうに衰えなかった。 伊豆に下着してもわがもの顔にふるまい、「預(あずかり)伊豆国大介狩野工藤茂光ももてあつかひ」かねるありさまだった(『保元物語』)。

 さらに彼は、大島の領主をかねる茂光の代官、三郎大夫忠重(ただしげ)の婿になって子までもうけ、忠重ともども茂光の支配をないがしろにするのみならず、近隣の島々をうちしたがえておおいに武威を広めたという。

 このため茂光は、後白河法皇に追討の院宣(いんぜん)をこい、嘉応二(1170)年四月下旬、伊東祐親(すけちか)・北条時政宇佐美政光(うさみまさみつ)・同実政(さねまさ)・加藤光員(みつかず)・同景廉(かげかど)・沢宗家(むねいえ)・仁田忠常(ただつね)・天野遠景(とおかげ)ら伊豆の軍兵を中核とする500余騎、兵船20余艘をもって大島に押しよせ、為朝を自刃に追い込んだ(古活字本『保元物語』ただし『尊卑分脈』は安元三<治承元=1177)年三月六日討死とする)。

 このとき為朝が大島をのがれ、琉球(りゅうきゆう)王朝の始祖になったという伝説がうまれたのは、室町時代になってからのことである。


 平治の乱と源頼朝の伊豆配流

 さて保元の乱後は、後白河天皇の親政、ついで院政となった。 乱後の処遇に不満をいだく源義朝は、権臣(けんしん)信西入道(しんぜいにゅうどう)(藤原通憲(みちのり))とその武力的後援者である平清盛をのぞこうとして、平治元(1159)年十二月挙兵した(平治の乱)。



 決戦にそなえて義朝が書きあげた指揮下の兵力は、『平治物語』によれば、一族・郎党および近江〜常陸・上野に至る諸国の武士、おもだった兵200、総数2000余騎だったという。

 清盛との決戦にやぶれた義朝勢は、東国にのがれる途中、尾張国内海荘(愛知県知多郡内海町)で、乳母(めのと)子鎌田正清の舅にして源氏譜第(ふだい)の家人長田忠致(おさだただむね)の手にかかり、正清もろともに謀殺された。 正清の父通清(みちきよ)

も為義につかえたもので、「北条時政の烏帽子親(えぼしおや)」をつとめ「駿河国に住」んだとされている(「山内首藤系(やまのうちすどうけい)図(ず)」)。



 義朝の三男ながら嫡子の頼朝は、父の一行に遅れをとり、不破の関(岐阜児不破郡関ケ原町)手前の雪深い山中を彷復していたところを、平(池)頼盛の郎党平宗清(むねきよ)にとらえられた。

  

 頼朝と同腹(熱田大宮司季範(すえのり)の娘の所生)の弟希義(まれよし)は、駿河国香貰(かぬき)(沼津市)に潜伏していたところを、母方の伯父朝忠(ともただ)(正しくは範忠(のりただ))に捕縛され、平氏に身柄を差し出された(古活字本・九条家旧蔵本『平家物語』)。異腹の長兄義平(よしひら)が、逮捕後ただちに斬首されたのに対し、頼朝・希義兄弟は、永暦元(1160)年三月、それぞれ伊豆・土佐に配流となった。

 頼朝が「助命」されたのは、平清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)が頼朝の身をあわれんで、清盛に嘆願した結果だとされる。 しかし、単なる同情心だけで、敵方嫡子の救済懇願などという、大胆かつ危険なカケにでられるわけがない。真相はどうか。

 もともと、平氏一門の総帥清盛と尼の実子頼盛とは微妙な関係にあり、こののち、禅尼が亡くなると両者の対立が表面化する。 頼盛は清盛のために、一時解官、全所領を没収されたし、やがてきたるべき平氏の都落ちに頼盛が動向を拒否した事実は周知に属する。

 また、頼朝を逮捕した頼盛の郎党宗清は、本来池禅尼の侍だったとも伝えられる。 要するに尼と頼盛とは、当初から頼朝の身柄確保をねらっており、宗清は、平治の乱の勲功により尾張守を兼任した頼盛の代官として、東国をめざして落ちゆく源氏を包囲する作戦を展開する過程で、みごと捕獲に成功したとみることができよう。

 一方、伊豆に流された頼朝の監視を命じられたのは、同国の在庁宮人、伊東・北条の二氏だった。 しかも北条時政の妻牧の方は、池禅尼の姪にあたる。 すなわちこれは、イトコ同士の一方(頼盛)がとらえ、他方(牧の方)があずかった結果になり、頼朝の身柄は、一貫して池(頼盛、尼)家の手中にあったと評される。

 おそらく池家としては、清盛との相剋をみすえたうえで、将来にわたる政治的カードとして、頼朝の身柄の温存をはかったのであろう。

 とはいえ頼朝は、まさしく国家的謀叛人の嫡子である。 当然彼は国家の手によってさばかれなければならないが、当時の社会にあっては、それ以前に私的刑罰の世界が存在し、私戦の論理が介在しえた。 されば、頼朝に対する第一次処分権は平氏に帰属し、ここに池禅尼が、当面の裁量権をもつ宗清の主人として、頼朝の助命を朝廷ならぬ清盛に嘆願し、可能ならしめる条件が存在したのである。




 平氏政権下の在地武士団

 平治の乱により源氏主力が壊滅した結果、武力の項点に立つ清盛の地位が固まった。 清盛は乱の翌年に、武士としてはじめて公卿となり、以来わずか7年後の仁安二(1167)年には、従一位太政大臣にのぼって位人臣をきわめた。

 やがて治承二(1178)年十一月、娘の徳子(建礼門院)が高倉天皇の皇子言仁(ときひと)(安徳天皇)を生むと、嬉しさあまった清盛が、富士の綿(駿河国富士郡所産の真綿(まわた))2000両・砂金1000両という途方もない贈り物を後白河法皇に進上し、人びとのひんしゅくを買ったとする所伝がある(『平家物語』)。

    

 富士の綿にせよ砂金にせよ、駿河国や奥州など、平氏政権と東国諸国との深い関わりを抜きにしては考えられぬ話である。 以下、平氏全盛時代の駿・遠・一旦二国支配の状況を一瞥しておく。

 駿河国は治承三年正月以前に平宗盛の知行国になり、国守平維時(これとき)・日代(もくだい)(代官)橘遠茂(たちばなとおしげ)があった。

 また大岡荘(牧)や、蘇弥奈牧の故地と推定される服織(はとり)荘は、ともに平頼盛が領知する荘園であり、大岡牧は母方の叔父牧宗親(まきむねちか)があずかり知行していた。

 宗親の娘が前述の牧の方である。 そのほか、益頭(ましず)荘(藤枝市・焼津市)・富士神領(旧富士郡一帯カ)に平氏の領有権がおよんだのは、ほぼ確実とみられる。

 こうした、知行国・荘園制という原理を媒介にする支配の拡大方式のほかに、武家権門としての平氏は、国家の軍事警察権を専掌することによって、諸国の武士を支配下におく方策もあわせとった。

 遠江・伊豆や他の近隣諸国の場合と違って、駿河武士について平時における平氏との関係を直接に語る史料はみいだせないが、のち、頼朝の挙兵準備の報を、いちはやく平氏中枢に注進したのは、国府(静岡市)近くの武士長田入道某だった。 また、岡部五郎・荻野五郎・阿佐摩(あさま)二郎(浅間三郎とも)は、頼朝に敵対した(駿河)武士として、物語文学に名をとどめている。

 彼らにかぎらず、多くの駿河武士が源平内乱(治承・寿永(じしょうじゆえい)の乱)の初期段階では、目代遠茂に率いられ、平氏方として参戦したこと自体は間違いない。

 遠江国は保元三(1158)年以来、重盛宗盛基盛(もともり)・頼盛ら平氏一門が国司の任を重ねたところであり、平氏領となった荘園なども少なくなかったと思われる。 とくに重盛に関しては、笠原荘を起源とする広大な荘園)の初代「地頭」とする、かなり信頼性の高い所伝がある。

 鎌倉幕府の地頭職に先行する平安時代の「地頭」の存在は、すでにいくつか知られているが、東国にその例は珍しく、しかも平氏「地頭」が直接鎌倉幕府の地頭職に転換したと主張する点で貴重である。

 

 また、当国の武士浅羽宗信(むねのぶ)・相良長頼(ながより)らの一族は多数が平氏に属し、あるいは遠江の出身と推定される橘公長(きみなが)、同子息公忠(きみただ)・公成(きみなり)らは平知盛(とももり)の家人になっていた。

 公長の弟橘五(きつご)は、のちの一の谷合戦に平氏方として参戦した。



 伊豆の国政については、頼朝挙兵の直前(治承四年六月)に平時忠(ときただ)(清盛の妻時子の弟)が知行国主、その猶子時兼(ときかね)が守になり、伊勢平氏の分流山木兼隆(やまきかねたか)が日代に起用されるまで、平氏一門とのあいだにとくに深い関係は認められない。 むしろそれ以前、平治の乱後は、摂津源氏の伸綱(なかつな)が何度も伊豆守になり、父の頼政が長年の知行国主だった。

 有力在庁の一族工藤四郎・五郎兄弟は仲綱の郎党となり、近藤国平も同様の存在かとみられるが、そもそも頼政は、平治の乱に義朝を裏切って清盛方につき、晩年、清盛にすがってようやく公卿の座を得た人物である。

 頼朝に先行して頼政が挙兵したのは確かにしても、頼政や仲綱がはやい段階から反平氏の立場をとり、その結果が在地におよんでいたとは、とうてい思われない。 だから頼政父子の国政は、平氏の軍事支配が伊豆をおおうさいの妨げにはならなかった。

 伊東祐親は源氏重代の家人でありながら平氏に鞍替えし、逆に「平家重恩の者」とさえ称されるようになった。 祐親は平氏の政権下で京都大番役をつとめ、北条時政も一時上洛していたようだし、工藤祐経(すけつね)もその所領久須美(くすみ)荘の領家平重盛につかえていた。

 そして祐親は、のちの早河合戦(石橋山合戦)において、300騎を率いて頼朝を攻撃するなど、伊豆における平氏方武士団の中心勢力を形成した。なお、石橋山会戦のおり祐親の軍に属し、時政の男宗時をうちとった平井久重も当国の武士かと考えられる。





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