頼朝挙兵

2 源頼朝の挙兵と北条氏

 北条時政と牧の方

 

 源頼朝の岳父として挙兵に参加、やがて鎌倉幕府の初代執権となった北条時政の出身については、不明な点が多い。 平安時代末期の北条氏が、父祖代々北条介を名乗る伊豆国在庁宮人の家柄であったのは事実として認められようが、同じ介クラスの有力在庁といっても、武士団・領主の規模としては狩野・工藤一族には遠くおよばず、伊豆国内でもせいぜい二線級の存在だったと考えざるをえない。

 しかも時政には、北条氏本来の家督ではなかったふしがある。 彼が国衙に出仕していたのは確かだとしても、それは介などよりもっと下の、たぶん雑任(ぞうにん)の職としてであろう。

 たとえば挙兵直前、時政は43歳の壮年に達しており、北条氏の家督であれば当然「北条介」と称しておかしくないのに、単に「北条四郎」とだけ史料にみえる。 いまだ名乗るに価する官位をおびていなかったからに相違ない。

 加えて、鎌倉幕府の正史ともいうべき『吾妻鏡』の本文は、時政の父親にはまったくふれるところがないのに、どういうわけか北条時定なる人物については、その父を「北条介時兼(ときかね)」と明記している。 時兼が北条介であれば、同時に彼は北条氏の惣領であったに違いない。 子息の時定は、時政からみると七つ年下の、おそらくは従弟にあたるが、官位昇進において、はるかに時政に先行した。

 結局、これらの事象から導かれる結論は、北条氏本来の家督は時兼---時定の系統に属し、時政は庶流の立場に甘んじていたということだ。 この時期の彼に約束されていたのは、伊豆でも第二線級の武士団の、しかも家督の地位さえおぼつかない生涯にすぎなかった。

 ここに伊東祐親が、娘と頼朝との結婚を否定し、彼の殺害さえ企てたのに対し、時政が頼朝を婿として容認した分岐の淵源がある。 すなわち、平氏政権下に順調に発展をとげるものとそうでないものとの差でもあった。

 時政は、流人とはいえ「貴種」頼朝を擁して、当面の家督争いを有利に導く方策を考えたであろうし、さらに進んで頼朝の挙兵に協力したのは、みずからの閉塞状況を一挙に打開し、東国に雄飛しょうとする大博打だったと解される。

 こうした一連の流れのなかで、・時政の後妻牧の方が果たした役割は小さくなかった。 従来、牧の方については、駿河国の在地武士の娘と考えられてきたが、実は、れっきとした中央院近臣家の出身であり、池禅尼の姪、平頼盛の従妹にあたる事実があさらかになった。



 上掲系図のように、この家の近親者には院と深い関係を有する人物が多い。 牧の方の祖父宗兼は白河法皇の侍臣であり、伯母の宗子(そうし)(池禅尼)は鳥羽天皇の中宮璋子(しょうし)(待賢門院(たいけんもんいん))につかえて顕仁(あきひと)親王(崇徳天皇)の乳母になった。

 また姻戚・縁者には、鳥羽・後白河法皇の寵臣(ちょうしん)藤原家成・成親(なりちか)父子、後白河側近の高階泰経(たかしなやすつね)などがみられ、尼や頼盛をつうじて鹿ヶ谷(ししがたに)事件(1177年)の中心人物俊寛(しゅんかん)、そして八条院(はちじょういん)(鳥羽天皇の娘ワ子(しょうし)内親王)の乳母・女房たちと結びつく。

 要するに牧の方の実家は、院近臣グループの有力な一角を構成していたのである。

 このように牧の方は、京都に政治的基盤を有する家柄の出身であり、伊豆下向後もその緑を維持しっづけたことは、「氏神奉幣」のために上洛したり、のちに将軍実朝暗殺未遂事件をおこしながら無事都に戻り、以前にもましてはぶりのよい生活を送った事実からあさらかである(『吾妻鏡』『明月記(めいげつき)』)。

 牧の方の政治的辣腕ぶりは有名だが、それも「夫ノ忠盛ヲモモタへタル(支えた)者ナリ」と評された(『愚管抄』(ぐかんしょう))池禅尼の姪であってみれば、むべなるかなとうなずかれる。

 前述の伊東と北条との政治的立場の相異は、より具体的には、祐親が清盛の嫡男垂盛につかえ、時政が牧の方を介して、清盛と対立する頼盛に密着したのに起因すると評されよう。



曽我の仇討ち事件の発端

 日本三大敵討ちの一つとして著名な、曽我十郎・五郎兄弟による復讐劇は、所領争いが高じて、兄弟の父河津祐通(すぇみち)(祐泰(すけやす)とも、伊東祐親(すけちか)の嫡男)が同族の工藤祐経(すけつね)のために暗殺された事件から幕が開く。

 ときは安元二(1176)年十月、「伊豆の奥野」でもよおされた巻狩(まきがり)の帰路での惨劇だった。

 この一統の直接の先祖は、兄弟の高祖父にあたる工藤祐隆(すけたか)であり、中伊豆の狩野荘(田方郡修善寺町・天城湯ヶ島町一帯)を本拠とする大豪族、狩野・工藤一族からでて、宇佐美(伊東市北部)・伊東(同中心部)・河津(賀茂郡河津町)の各荘を総称する久須美(くすみ)荘の開発領主になった。

 ところが祐隆の子息はみな若死にをし、複雑な後継問題が生じた。 結局それは、伊東祐親と工藤祐経の争いに帰結し、祐経が久須美荘の領家平重盛や本家の大宮(太皇太后藤原多子(たし))につかえているあいだに、祐親は中央の要路に賄賂をばらまき、やがて荘園全体を押領してしまった。

 深い恨みを含んだ祐経は、古くからの郎従である大兄小藤太(おおみことうた)と八幡(やはた)三郎に、伊東父子殺害の密命をくだしたのだった。
 祐通を射殺し、祐親に矢傷をおわせた大兄と八幡は狩野荘に潜伏した。 それを知った祐親は、300余騎をもって生捕りにむかわせ、八幡をどうにか自殺に追い込んだものの、大兄を取り逃がした。 二人の強固な反撃の背後には、狩野・工藤一族の援護があったとみてよかろう。

 所領をめぐる一族同士の争いや武士団相互の紛争、伊東氏のように中央平氏に取りいってめきめきと頭角をあらわす新興勢力と、それを快く思わない本宗(ほんそう)狩野・工藤一族など、この事件には、平氏全盛時代に東国武士がおかれた状況が凝縮されている。




 伊豆の頼朝

 伊豆における頼朝の配所は「蛭ケ小島(ひるがこじま)」と伝えられる。同所は、伊豆国府(三島市)からそう遠くない北条氏の所領内に位置し(田方郡韮山町)、当時いくつかに分流していた狩野川の旧河道内の中洲の一つではなかったかと思われる。

  

 もっとも、現在の伝承地に「蛭島碑(ひるがしまひ)」が建てられたのは寛政二(1790)年であり、しかも場所を選定するさい、歴史的な考証結果よりも土地取得上の便宜が優先されたというから、もとより特定はしかねるものの、おおむねこの付近に措定することは可能である。




 蛭ケ小島での頼朝の生活は、当初「平家の権威を恐れ、国人一食を与えず」という状態であり(「吉見系図」)、監視の目もそうとうきびしかったに違いない。 しかしのちには、行動の自由がかなり認められたようだ。 そうした状況下に生じた頼朝の結婚譚(たん)についても、少々ふれておきたい。

 はじめ頼朝は、美人の聞えが高い、伊東祐親の三女にかよい、千鶴(せんずる)という男子をもうけた。 おりから祐親は上京中であり、帰国してこの事実を知るや、三歳になる千鶴を松川の奥の淵に沈めて殺し、自分の娘は西伊豆の武士江馬(えま)(間)次郎に強引に嫁がせてしまった。

 そのうえ頼朝には夜討ちをしかけて殺害をはかったが、祐親の子息九郎祐清(すけきよ)(頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の娘婿)の機転により、からくも頼朝は伊東の地を脱出し、北条時政のもとにのがれた。 この事件がおきたのは安元元(1175)年、頼朝29歳の秋のことだった。

 ついで頼朝は、時政の先妻(一説に伊東氏の女)の娘政子とちぎりを結んだ。 またしても父親が京都の大番役をつとめていて、不在のあいだの出来事だった。

 時政も帰国の途中これを開いておどろき、そしらぬていで娘を目代山木兼隆にやろうとした。 だが政子は祐親の娘と違って、気丈で情熱的だ。 父の処置を断固拒否し、暗夜を迷い篠突く雨にうたれながら、頼朝の避難先に走ってしまった。

 やがて時政もこの結婚を承認し、頼朝夫妻は北条の館に戻ったのである。両者の婚姻の成立は、ふつう治承元(1177)年、頼朝31歳、政子21歳のころと推定されている。

 こうして伊豆に長年をすごすうち、頼朝の身辺につかえ、援助する人びとの数もしだいに増していった。

 そもそも、頼朝の親類・縁者のなかには、配流の当初から援助をおしまぬものが、わずかながらも存在した。 母方の叔父祐範(園城寺法橋)や、乳母の甥で京都にあった三善康信(みよしやすのぶ)は、頻繁に使者を配所につかわし続けた。 同じく乳母の一人である此企尼の場合は、もっと徹底しており、頼朝の配流にあわせて武蔵国比企郡(埼玉県)を請所(うけしょ)(年貢の上納を請けおうかわりに管理を委託された土地)となし、夫の掃部允(かもんのじょう)をともなって現地に下向、以来挙兵までの20年間、比企郡からの糧送をおこたらなかった。

 そのうえ、安達(あだち)(足立)盛長(もりなが)・河越重頼(かわごえしげより)、前述の伊東祐清ら三人の娘婿に頼朝の扶持(ふち)を命じたのである。

 伊豆の武士では、祐清のほか、安元二年の晩秋、「伊豆の奥野」の狩場(伊東市西南部一帯の山地)にあらわれた頼朝に、南条・探堀(ふかほり)の二人がしたがっていたし、頼朝を婿に迎えた時政と子息たちが、奉仕するようになったのはいうまでもない。

 また宇佐美助(祐)茂や天野遠景、隣国相模の土肥実平(とひさねひら)・岡崎義実(おかぎきよしざね)も、かなりはやくから随身していたようだ。

 遠隔地から身をよせるものもいた。 近江の佐々木氏は、源義朝の家人として平治の乱に従軍しやぶれた結果、平氏のために本国を追われ、定綱(さだつな)・盛綱(もりつな)兄弟が長年頼朝に奉公した。

 加藤景廉も平氏の圧力に屈して伊勢国をで、流浪の果てに工藤茂光をたよって伊豆に落ちつき、やがて頼朝につかえるようになった。

 大和国住人土佐房昌俊 (とさのぼうしょうしゅん)(昌春)も本国における対立勢力を恐れ、伊豆にきて頼朝に祇候(しこう)した。 そのほか、他所にありながら密かに心をよせるものもふえてきた。 彼らのほとんどは平氏の迫害をうけ、あるいは平氏が支配する現状に不満をいだく人びとであった。 現状打破を願う気特は、しだいに現実的な希望を頼朝に託するようになる。 その起爆剤の役割を果たしたのが、やはり伊豆の流人文覚(もんがく)だったのである。

   


 頼朝の挙兵

 京都高尾(たかお)の文覚上人は、後日河院中に推参し、神護寺(じんごじ)復興のため荘園の寄進を強要した咎(とが)により、伊豆に流罪となった。『平家物語』などは、この文覚こそが頼朝に決起するよう煽動した張本人だとする。 すなわち、奈古屋(なごや)(韮山町奈古谷)の山中に庵を結んだ文覚は、足繁く頼朝を訪れ、盛んに謀叛をそそのかすものの、相手は言を左右に応じない。

 ついに彼は、懐から義朝の髑髏(どくろ)なるものを取りだしてみせ、さらには平氏討伐を命じる後白河法皇の院宣(いんぜん)を手にいれ、とうとう頼朝の同意を取りつけた、というのがその筋書きだ。

 これは多くの場合、物語上の創作だと考えられている。 しかし一方、史料的信頼度が高いとされる『愚管抄』も『吾妻鏡』も、髑髏や院宣の話は別にして、伊豆で文覚が頼朝に挙兵を説いた事実は認めており、その点までは疑えない。

 もとより文覚とは、在俗のときは摂津渡辺党の武士で遠藤武者盛遠(もりとお)と称し、後白河法皇の同母姉上西門(じょうさいもん)院(統子(とうし)内親王)の所衆(ところのしゅう)(御所詰めの侍)だった。

 頼朝もまた平治の乱以前、蔵人として上西門院につかえており、頼朝と文覚は旧知の間柄であった可能性が高い。 他方源頼政は、文覚の同族渡辺党を郎従にしていたし、文覚自身は伊豆知行国主頼政にあずけられて同国に配流(はいる)された。

 以前の政治的立場はともかく、ついに治承四(1180)年四・五月、以仁王(もちひとおう)に与(くみ)して頼政が平氏討減の兵をあげたことは、頼政や子息伊豆守仲綱と深い交わりを結んだ伊豆国内の武士、そして文覚に強い衝撃をあたえたに違いない。

 平氏討伐を諸国源氏らに命じる以仁王令旨(りょうじ)は、ほかでもない前伊豆守仲綱を奉者(ほうじや)として発せられた。 頼政・頼朝双方に面識があり、法皇とも浅からぬ因縁を有する文覚は、いよいよ反平氏の機が熟したのを察知し、関係諸方面に働きかけたのだと思われる。

 一方『吾妻鏡』は、以仁王令旨が四月二十七日に伊豆の頼朝館にもたらされたところから筆をおこし、令旨をみた頼朝はただちに挙兵を決意したと述べている。

 だとすれば、実際に挙兵するまで三カ月以上を無為(むい)にすごしたのは不自然である。 幕府の公式記録たる立場をとる『吾妻鏡』としては、法皇が「密使」文覚に「密命」を託するなどという「裏面史」を、あからさまに語るわけにはいかなかったのだろう。

 五月二十六日、王と頼政は宇治平等院のあたりであえなく戦死、反平氏の蜂火はいったん鎮静したかにみえた。 頼朝が挙兵にふみきれないでいるうちに、六月十九日、王の令旨をうけとった諸国源氏を平氏が追討しょうとしているとの情報が、京都の三善康信から伝えられた。

 源氏の正嫡を自任する頼朝は、まっさきに攻撃されるに違いない。 実際、相模の大庭景親は、すでに頼朝追討の準備を進めていた。 六月末、予想される攻撃にそなえるため、頼朝側では安達盛長・中原光家を使者として、源氏累代の家人を招集しはじめ、頼朝になにごとかを訴えに訪れる武士たちもあらわれた。 文覚が法皇の内諾を取りつけたのも、このころであろうか。

 頼朝も秋(とき)の到来をさとったらしい。 七月五日、かねて帰依する走湯山(そうとうざん)(熱海市伊豆山)の覚淵(かくえん)を招いて「素顧」をうちあけ、志をかためた。

 だがそうした動きは、いちはやく隣国駿河の長田入道に察知され、平氏に注進された。 こうなると決起を急がねばならない。 七月末、戦時の祈祷を開始、八月初旬には第一の攻撃目標と定めた目代山木兼隆の館と付近の絵図を入手して時政と作戦を練り、襲撃の日を十七日と卜足(ぼくじょう)した。




 治承四年八月十七日深夜、こうこうたる月影のもと、佐々木経高(つねたか)が放った第一矢を、「これ源家、平氏を征する最前の一箭(いっせん)なり」と『吾妻鏡』は記している。 この日「中伊豆の夜空は、日本中世の幕明けを告げる蜂火に赤々とそまったのである。




 甲駿路の戦い

 ちょうどこの日は、伊豆国一宮である三島社の祭礼の日にあたっており、手薄になった警備が、たかだか三、四十人程度の襲撃をささえきれず、未明、ついに兼隆の首があげられた。

 早速十九日、頼朝は蒲屋(かばや)御厨(下田市・賀茂郡南伊豆町)にあてて下文(くだしぶみ)を発し、以仁王の委任により、東国全体に対する支配権は自分にある旨を宣言した。 『吾妻鏡』いわく「これ関東施行の始めなり」。

 首尾よく緒戦に勝利をおさめたものの兵力に不安がある頼朝軍は、源氏累代の家人にして有勢者の三浦一族と合流するため、相模にむけて進発した。 『吾妻鏡』には、このとき頼朝にしたがった武士46人が列挙されているが、ほとんどが伊豆・相模の住人か縁者で占められている。 駿河武士としては、鮫島四郎宗家(さめじましろうむねいえ)(富士郡出身カ)が唯一であろうか。

 行軍中の参加者もあったと思われ、頼朝軍はまもなく総勢300騎に達したというが、相模における平氏方の有力武将大庭景親が率いる3000余騎が行く手をはばみ、伊豆の伊東祐親の兵300余騎が後方を追尾した。



 多勢をたのむ大庭軍は、三浦の援軍が到着しないうちにと、八月二十三日夜、相模国石橋山(神奈川県小田原市)に頼朝勢を急襲。 頼朝主従は四散し、風雨のなかをかろうじて箱根山系の椙山(すぎやま)にのがれた。

 大庭軍は包囲網を縮める一方、景観の弟俣野景久(またのかげひさ)が駿河国目代橘遠茂の軍勢と合流し、敗軍の頼朝勢がたよりとする武田・一条など、甲斐源氏の攻撃に兵を進めた。

 


 甲斐国の源氏諸族も以仁王令旨をうけとっていた。 ひそかに挙兵の準備にかかっていたであろう彼らは、石橋山の合戦を伝え聞くや、ただちに一族の安田義定(よしさだ)が工藤・市河(川)ら同国武士団と合同し進軍を開始した。

 南下する安田らの軍と北上する景久・遠茂連合軍とは、八月二十五日に富士北麓の「波志太山(はしだやま)」で遭遇した(波志太山の位置については諸説があるが、当時の甲駿路のありようなどからみて、現山梨県足和田(あしわだ)・鳴沢(なるさわ)両村境にそびえる足和田山に比定するのが妥当だろう)。

 戦闘数刻、安田方の被害も大きかったが、結局景久は逃亡し遠茂も兵を戻した。 甲斐勢の決定的勝利とはいえず、追撃はなかった。

 同じ日、頼朝は箱根山中を脱出して海上を安房国にのがれ、三浦氏一族と会同、勢力を挽回した。 陸上戦に大勝したけれども、三浦氏らの水上兵力を取りにがしたのが大庭軍の不覚だった。 九月十三日、頼朝は鎌倉にむけて進撃を開始した。

 そのころ、武田信義(のぶよし)二条忠頼(ただより)らの甲斐源氏は、信濃国の平氏方武士の討伐にあたっていた。 まず後方をかためてから、再度駿河進出をはかるように作戦を転じたらしい。 信濃から凱旋の途上、頼朝の使者北条時政、ついで土屋宗達(むねとお)を迎え、ここに駿河進攻作戦が具体的に協議されることとなった。




 甲斐源氏の来襲近しとの情報は、駿河国内にも聞こえていた。 目代遠茂は、十月十日、駿河・遠江の軍兵を興津(清水市)のあたりに集結させ事態にそなえた。

 遠茂らがたのみとするのは中央平氏軍の東国下向だったが、平氏の反応はまことににぶかった。 頼朝追討軍の派遣こそはやくに決定されたものの、平維盛(これもり)を総大将とする征東軍が、実際に京都をたったのは九月二十九日というありさまだった。

 維盛軍の到着を待ちかねた遠茂は長田入道の進言をいれ、先制攻撃をしかけることにした。 十月十四日、駿河・遠江連合軍と甲斐源氏の軍とが、ふたたび富士山麓で激突した。 今回の衝突地点は『吾妻鏡』の記述から、駿河国内の「鉢田(はちだ)」と知られ、両軍の進軍ルートや速度を勘案すると、それは現富士宮市城北部のいずれかの場所と想定される。

 とにかくこの一戦によって、駿河武士の多くが殺傷され、在地の平氏方勢力は壊滅した。その中心勢力であった「長田入道子息二人」は早々と廾梟首(きょうしゅ)され、橘遠茂は傷つきとらえられたのち斬殺された。 鉢田の戦いは有名ではないが、数日後におこる富士川合戦の帰趨(きすう)を事前に決定づける、まことに重大な意味をもったのである。


 富士川の合戦

 橘遠茂が待ちこがれた平氏の遠征軍は、ようやく十月十六日、高橋宿(清水市)にはいった。 翌朝、鉢田の戦勝で意気のあがる甲斐源氏からは、不敵な挑戦状が送りつけられてきたが、目前で3000余騎の現地軍を失った維盛勢の戦意は萎縮するばかりだった。



 十八日、征東軍は富士川西岸に陣をかまえ、翌晩を攻撃の日時と定めたが、夜にはいって敵方への投降者があいついだ。 一方、頼朝も入部してまもない鎌倉を大軍を率いて進発、足柄峠を越えて十八日晩、黄瀬川宿(沼津市)に着いた。 ここで甲斐源氏の一族と会見し、北条時政らと再会したとされる。

 世にいう富士川の合戦が行われたのは、頼朝が富士川近くの賀島(かしま)(富士市)まで兵を西進させた二十日夜半である。 この夜、武田信義が平氏の軍陣の背後をつこうとしたところ、おりから富士沼(富士川の東岸に広がる一大沼沢地帯)に集まっていた数万羽の水鳥が、いっせいに舞いあがった。 もとより浮足だっていた平氏軍は、水鳥の羽音を源氏の大軍の来襲と聞き違え、たちまち西を指して潰走していった。 途中、手越宿(静岡市) で再結集しょうとしたが、源氏に内応するものが放火するなど、さんざんなていで逃げ帰った。

 こうして富士川の「合戦」は、その実、合戦らしい合戦もないまま、源氏側の圧倒的勝利におわった。

中央平氏軍の敗走は、今まで「官軍」にはむかうことへの恐れから、意ならずも平氏についたり、向背をあさらかにしなかった東国武士をも、いっせいに源氏方に走らせた。「およそ遠江以東十五ヶ国、(源氏に)与力し、草木に至るまで靡(なび)かざるなし」と評される状況を現出したのである (『玉葉(ぎょくよう)』)。

 しかし、この合戦の主役は、なんといっても甲斐源氏の一族だ。 事前に駿河目代を滅ぼして勝敗を方向づけたのも、宣戦布告をしたのも彼らであった。 したがって戦後、駿河国に勢力を扶植したのは武田信義であり、遠江国を手にいれたのは安田義足だった。

 『吾妻鏡』は、甲斐源氏が初めから頼朝の命令で動き、このとき二人を駿河・遠江の「守護」に任命したように書いているが、それは、のちに頼朝の覇権が確立してからの事態にあわせて曲筆しているのであって、当時から、彼らが頼朝に臣従していたわけではないし、守護制度が正式に発足するのも、もう少しあとのことなのである。

 この時点で、駿・遠のあらたな支配者になったのは、武田・安田の両氏であり、頼朝とはゆるい同盟関係で結ばれていたにすぎない、とみるのが適当だろう。

 頼朝は敗走する平氏軍を追って、一挙に上洛しようとしたが、結局思いとどまった。関東の有力武士たちがこぞって制止したからだが、彼自身もこのような状態に不安をいだいていた。 頼朝はただちに鎌倉に引き返し、関東の地固めを急ぎ、軍政の組織をととの、え、都市の建設にはげんだ。そうして十二月十二日、かねて新築中の頼朝の屋敷(大倉)幕府)が完成し、頼朝政権の誕生を視うセレモニーが挙行されたのである。



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