鎌倉幕府と駿・遠・豆

3 鎌倉幕府と駿・遠・豆

 鎌倉開府と三国武士団

     

 相模国鎌倉を本拠に着々と勢力を拡大した源頼朝は、当面のライバルとなった木曽義仲を倒し、文治元(1185)年三月には、長門壇ノ浦(山口県下関市)に平氏一門を滅亡させた。

 

 治承・寿永の内乱(源平争乱)から鎌倉幕府の成立・確立過程で、県下武士団のなかでは、とくに伊豆国出身の武士の活躍がめだつ。 北条時政の子義時を筆頭に、彼らは遠く西国・西海を転戦し、文治五年の奥州藤原氏征討戦にも出陣した。

 戦闘以外の分野でも、文治元年末に時政は、頼朝代官として上洛、朝廷と折衝して全国に守護・地頭をおく権限を認めさせた。 そして翌年帰東するまでの短期間ではあるが、初代の京都守護(六波羅探題(ろくはらたんだい)の前身)の任にあたった。



 天野遠景も最初の鎮西奉行(九州諸国を統括する職)になった。 また近藤国平は「鎌倉殿御便」の一人として、畿内近国・西国諸国に頼朝の命令を伝え、実行させて歩いた。

 彼らの戦功、諸分野での奉仕に対しては、当然、主君である鎌倉殿からの御恩が期待される。 鎌倉殿の御家人として身分保証を得ることや、平安時代以来の本領を安堵(公認)してもらうのも立派な御恩の一種だが、武士たちの最大の願いは、なんといっても新恩地の給付だろう。 本領・新恩所領に関する権限は、大方は地頭職と表現された。

 御家人たちの所領についても、伊豆国出身者のそれが幕初以来多数みいだされるのは、叙上の活躍に照らして当然の結果だ。 駿河・遠江出身者の場合は数が極端に少なく、初見の時期もそうとう遅くなる事実が認められる。
 さて、一国ごとの軍事・警察権を行使し、その面で管国内の御家人を指揮したのが守護だ。 伊豆国では北条時政・義時父子がこの職権を行使した。
 富士川の合戦直後における駿河・遠江両国の処置については、駿河は竹田信義、遠江は安田義定が、その後、源氏一門に対する頼朝の統制が強化されるにしたがって変化が生じた。

 木曽義仲が頼朝の弟範頼・義経の軍に討たれて半年もたたない元暦元(1184)年の六月、まず駿河国守護武田信義の子一条忠頼が鎌倉で謀殺され、信義自身も頼朝の勘気をこうむり、まもなく死んだ。 守護信義にかわったのは、やはり時政・義時親子であったと考えられる。

 遠江の安田義定は、かつて義仲入京のさいには独自の判断で東海道をせめのぼり、その功によって後白河法皇から直接遠江守に任じられた。 守護・国守を兼帯した義定の威勢はいやがうえにも高まり、「遠江国ニハ彼の郎従充満」する状況で(「仁和寺(にんなじ)文書」)、それだけ頼朝との疎隔が深まった。

 建久四(1193)年十一月、義定の子息の義資(よしすけ)が幕府の女房に付文をしたという、ほとんどいいがかりに等しい理由で梟首(きょうしゅ)され、父義足の所領遠江国浅羽荘地頭職は翌月没収、義資の首を打った加藤景廉(かげかど)にあたえられた。 そして翌年八月には、反逆の志ありとして義定自身も斬首されてしまう。

 こうして10年以上におよんだ義定の遠江支配はおわり、あらたな遠江国守護には、これまた北条時政が任じられたらしい。 時政は、正治二(1200)年には遠江守にも就任している。 叙上の過程は、一面、伊豆に加えて駿・遠両国が北条氏の勢力下に組み込まれていく道程でもあり、ことに伊豆・駿河は、あたかも北条得宗家(とくそうけ)(嫡流)の「分国(ぶんこく)」であるかのごとき観を呈するようになった。

 また駿河守や遠江守は、相模・武蔵両国司(おもに執権・連署(れんしょ)が任じられる)につぐ北条一門中の有力者が名乗る名跡として定着したのである。

 なお参考のため、鎌倉時代前半期における駿・遠・豆三国御家人の名字と本拠地とを、下掲の地図上に示しておく。




 富士の巻狩と曽我の仇討ち

 日本の狩猟史上に例をみない大規模な巻狩(まきがり)が挙行されたのは、建久四(1193)年のことだった。 前年の七月に念願の征夷大将軍に就任した頼朝は、後日河法皇の一周忌がすぎるのを待ちかねたかのように、三月・四月と、下野(しもつけ)国那須野・信濃国三原などで巻狩を行い、息つく暇もなく富士の裾野に進んだ。

 当時の武士たちにとって、狩猟は単なるリクリエーションではなく、まさに戦闘訓練・軍事演習そのものであり、かつ神聖・重要な行事と意識されていた。

 今や全国的軍事政権の首長としてゆるぎない地位を確立した頼朝は、大々的な巻狩をもよおすことによって神をまつり、統率者としての自己の資格、および嫡男頼家の後継者たるべき資質を神に問うたのだといわれる。

 建久四年五月、富士山麓に展開した巻狩は、そういう意味がこめられた行事のクライマックスに位置していた。

 富士の狩場の準備は北条時政・狩野宗茂(むねしげ)に命じられ、二人は駿河・伊豆の御家人を率いて旅館以下の設営にあたった。 まず富士の東麓藍沢(あいぎわ)での狩りをおえた頼朝一行は、五月十五日、西麓神野(かみの)の旅館(井出の館)にはいった。

 この宿館は南面五間(柱間が五つの意味)の規模を有し、現在の富士富市上井出狩宿にあったと伝えられる。 頼朝の宿所とそれを囲繞(いじょう)する諸国御家人の屋形のありさまは、真名本『曽我物語』の記述にくわしい。 下図にその復元図を掲げておく。



 図中、人名の下に(駿)・(遠)・(豆)とあるのは、当該各国の住人ないしは所縁の御家人をあらわす。

 狩りも終わりに近づいた五月二十八日深夜、ここ井出の館で一大事件が勃発した。 世にいう曽我兄弟の仇討ちである。

 

 この一件の発端については、以前のコラムでふれたが、河津祐通(すけみち)亡きあと、兄弟の母が曽我助信(すけのぶ)に再嫁したため、今は曽我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときむね)と名乗る兄弟は、頼朝の寵臣工(宮)藤祐経(くどうすけつね)をかねて父の敵とつけねらい、ついに復讐をとげたのである。

 暗さは暗し雷雨のなか、多数の御家人が殺傷され、ようやく祐成が伊豆国の新(仁)田忠常(たただつね)にうちとられたのちも、時致はなお頼朝の館をめがけて突進するところをいけどられた。

 結局、時致は祐経の子犬房丸に引きわたされ梟首されたが、兄弟は祐経のみならず、頼朝の命までねらったらしい。 そしてその煽動者こそ、北条時政だとする説がある。

 たしかに曽我兄弟は、以前から時政の家に出入りをしており、ことに時致は時政の烏帽子子(えぼしご)だった。 頼朝の舅でありながら、幕政上にほとんど姿をあらわさない時政の存在は不気味ですらある。 なにか複雑な事情が憶測され、その意味で時政黒幕説は、ことの一面をうがっているように思われる。

 また、兄弟二人だけの働きにしては、死傷者の数が多すぎる。 実は同時に相模と伊豆の武士団による大規模な衝突がおこったのだが、兄弟の仇討ちにことをよせ、真相が隠蔽されたのだとする推理もある。

 いずれにせよ、仇討ち成功の報が伝わって諸国騒然となり、頼朝死去の誤報までが鎌倉にもたらされた。

 頼朝の弟範頼が謀叛の咎により伊豆の修禅寺(田方郡修善寺町)に幽閉、まもなく殺されたのも、この事件と無関係ではない。 曽我兄弟の仇討ち事件の背後には、そうとう深刻で根深い事情がかくされていたとみてよかろう。

 時政の不穏な動きの根底には、彼の出身の脆弱さが伏在した。 正治元(1199)年正月、源頼朝が残した直後から、時政覇権への道が急速に顕在化する。

 四月には頼朝の跡をついだ頼家の親裁が停止され、北条時政・義時父子ら13人の合議に訴訟の裁定がゆだねられた。 そして翌年正月、鎌倉殿の側近中の側近梶原景時が失脚し、一族を率いて京都に急行する途中、駿河国狐が崎(静岡市清水区付近)で入江氏一統を主勢力とする駿河武士にうちとられた。 これを操作したのも駿河国守護時政だと推測されている。

   


 「悪女」牧の方と北条家の分裂

 近代の文豪坪内逍遥は、北条時政の後妻牧の方を、シェークスピアの 『マクベス』夫人になぞらえ、鎌倉三大罪悪史を描く循環劇(サイクリック・ドラマ)の第一作として史劇『牧の方』を書いた。 夫を指嗾(しそう)して主殺しをはかる悪女の典型とする理解は、鎌倉時代以来ほぼ一貫して認められる。

 牧の方は、源頼朝の愛人の存在を正妻の政子(A、時政の先妻の子)に密告して大騒動をしかけ、建仁三(1203)年九月、新将軍実朝を自邸に迎えたものの、「咲(わらう)の中に害心を挿むの間、傅母(ふぼ)と恃(たの)みがたし」と阿波局(A、実朝の乳母)から政子に通報され(『吾妻鏡』)、実朝はわずか数日で政子の屋敷につれ戻された。

 翌元久元(1204)年秋、実朝の正室として政子が推す足利義兼(妻はA)の娘をおさえ、京都貴族の坊門信清(ぼうもんのぶきよ)(子忠清の妻はB=牧の方の子)の息女との婚儀がととのえられたのは、牧の方の奔走によるところが大きかった。

        

 娘婿の平賀朝雅(ともまさ)(妻はB)と畠山重保(しげやす)(母はA)との口論を捉え、彼女は重忠・重保父子の討減を強硬に主張して時政を誘導、諌止する義時(A)をおさえつけて我意を達した。

 これらの事件のおもな関係者は、肉親・婚姻関係をつうじて、政子・義時を中心とするグループと時政・牧の方らの一派とに截然(せつぜん)と区別される。 いわば先妻派と後妻派の対立であった。

 そして元久二年閏七月、将軍実朝を殺し朝雅にかえようとする時政夫妻の陰謀は、政子・義時に阻止されて失敗。 時政は伊豆に幽閉、朝雅も京都でうたれた。 牧の方は主犯とされたにもかかわらず、京都に送還された程度ですみ、なお権勢を維持した。



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