承久の乱

 承久の乱と執権政治

北条時政は正治二(1200)年四月、従五位下遠江守に任じられ、一般御家人の上にある立場をあきらかにし、将来、幕府の高い公職から政治を指導するための必要条件をととのえた。



 建仁三(1203)年五月、駿河国阿野郡(沼津市根小屋付近)に所領を有する阿野全成(ぜんじょう)(妻は阿波局)が、謀叛の咎でとらえられ殺害された。

 全成は頼朝の弟たちのうち、ただ一人生き残っていた人物であり、この事件は、権力掌握をあせる時政と将軍権力との抗争が、そうとう深刻化した状況をうかがわせる。

 はたして九月、時政・義時父子は頼家を廃立、伊豆修禅寺に幽閉して殺し、弟の実朝を新将軍に擁立した。 翌月、時政は待望の初代執権職に就任し、元久二(1205)年閏七月に彼が失脚してからは、義時がその地位をおそった。

 この間、そして以後も、北条氏の所職・所領の拡大には著しいものがあった。 まず守護職に関しては、以前からの駿・遠・豆三国に加えて信濃・大隅(おおすみ)を獲得、さらに武蔵・越後・美作(みまさか)各国をあわせ、承久の乱以前に計8力国の守護を兼帯した。

 地頭職も当然増加し、北は陸奥国から南は大隅国内まで全国的に分布した (下表参照)。

 

 承久元(1219)年正月、実朝が暗殺され、源氏将軍は三代で途絶した。 翌月、阿野全成の遺児時元が東国の支配をねらい、やはり駿河国阿野郡で挙兵したが、失敗して自殺した。

 こうした幕府の内紛は、後鳥羽上皇の目にはその弱体化を示すものとうつり、幕府への攻勢を強めた。

 

 上皇は、実朝の後継者として幕府が奏請した宮将軍(みやしょうぐん)の東下を拒否する一方で、寵姫伊賀局(いがのつぼね)の所領摂津国長江荘(ながえのしょう)(大阪府豊中市)の地頭更迭を幕府に要求した。 長江荘地頭とは執権義時その人であり、あらわな挑発といえる。 執権政治が掲げてきた御家人所領の保護政策に照らしても、幕府に妥協の余地はなかった。

 かくして承久三年五月十五日、上皇は執権北条義時追討の宣旨(せんじ)・院宣(いんぜん)を発した。

 幕府は、北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)を上級指揮官とする主力東海道軍10万余騎、その他東山道軍・北陸道軍をあわせて、総計19万余騎の大軍をせめのぼらせ、すでに六月十五日には、京都は幕府軍の占領するところとなった。

 はやくから北条氏の支配が浸透してきた県下三国の武士の大部分が東海道軍に加わり、戦功をあげたのはいうまでもない。 わけても、宇治川の戦いにおける駿河国御家人の活躍はめざましかった。 吉川経景(つねかげ)・義景(よしかげ)兄弟は川をわたって交戦し、負傷しながらも敵三人をうちとった。

 戦後の恩賞には、経景に安芸国佐東(さとう)郡八木(広島市)の地頭職が、義景には同国山県郡戸谷(とや)(広島県山原郡豊平町)の地頭職が、それぞれあたえられたという。

 乱後、幕府は後鳥羽以下三上皇を配流(はいる)し、京方の貴族・社寺・武士たちの所領3000余力所を没収、そこに東国武士を中心とする大量の新地頭を送り込んだ。

 前任者の得分が明確でない場合は、11町に一町の給田(きゆうでん)と段別五升の加徴米(かちょうまい)を保証する新補率法(しんぼりっぽう)
が適用された。

 承久新地頭として確実な史料で裏づけられるのは、没収地全体の約5%、140カ所程度にすぎないが、うち16カ所は県域出身の御家人にあたえられている。

 出身国は伊豆2、駿河4、遠江1。 個人では北条時房が6カ所と、圧倒的多数の地頭職を得ている。 新地頭職の所在国は、河内・和泉・伊勢・伊豆・石見・安芸・紀伊・淡路に分布、畿内・西国が多いのは当然だが、なかに伊豆が含まれているのは、同国狩野荘内の牧郷(田方郡修善寺町)の領主加藤光員(みつかず)が京方についたので、弟の景廉が牧郷を拝領したためである。

 ほかに伊豆国出身者では、天野四郎左衛門尉(さえもんのじょう)が乱後、京方張本の一人として処刑されている。 当然その所領も没収されたに違いないが、だれにあたえられたのかを示す史料上の明微はない。

 


 得宗政権と駿・遠・豆武士の西遷

 承久の乱における大勝利は、幕府内部に執権政治の確立を促した。 さらに進んでは北条氏の嫡流(得宗)に権力が集中し、鎌倉時代後期には得宗専制とよばれる政治形態に移行した。



 北条氏の政権をささえたのがその所領であり、従者たち(とくに得宗のそれを得宗被官(ひかん)・御内人(みうちぴと)などと称す)であった。



 出身地の伊豆国に北条氏の所領や被官が多く出現したのは当然として、駿河国も国守・守護を北条氏が兼帯したので、伊豆とならんでその所領が濃密に分布した。



 上の地図を一見して気づくように、北条氏の所領(得宗・一門・被官領)は、主要道(東海道・甲駿路)にほぼ沿うかたちで展開している。 北条氏が、全国の軍事・交通・流通上の要衝を掌握しょうとしたことは、よく知られているが、駿河国においても同様の傾向が具体的に確認できるわけである。

 また、得宗被官としてもっとも著名な安東氏は、どうやら駿河国安倍郡安東荘(静岡市)を本貫(ほんがん)とする武士だったらしい。 というのは、北条義時の股肱(ここう)の臣であった安東忠家は、あるとき主人の勘気をこうむって駿河国に籠居していたが、承久の乱に際して義時の嫡男泰時の軍勢が駿河国にはいったところで、「駕を廻してらして来たり加わ」った(『吾妻鏡』)。 すなわち忠家が籠居していたのは、駿河国東部より西方にあたる。

 さらに鎌倉末期〜南北朝期、『米艮(めら)文書』・浅羽本『佐原系図』などの記載から、安東氏が同荘に所職を有していたことが知られる。 これらを結合して考えれば、得宗被官安東氏の本領は駿河国安東荘だとしてさしつかえあるまい。

 一方、県城の御家人たちにとって、先祖相伝の本領を拠点に勢力を拡大するのが望ましかったのであろうが、なかには畿内・西国に移住して名をあげたものも少なくない。 その代表例が駿河の吉川氏だ。

 吉川氏は入江氏の同族で、入江荘内の吉河郷(清水市)を本領とした。 同地はもともと狭小であり、そのためもあってか吉川氏は、幕初以来たびたびの合戦に戦功をたて、梶原景時追討の賞として播磨国福井荘(兵庫県姫路市)を獲得、安芸国大朝本荘(広島県山県郡大朝町)には承久新地頭職をあたえられた。

 しかし入江本宗家は、鎌倉末期に至り、本領の入江荘地頭職を得宗北条高時に奪われてしまった。 そうなると、荘内の一領主にすぎない吉川氏の立場はさびしい。 大朝本荘を相続した経高は同地に移住し、館を出身地にちなんで駿河丸と名づけた。 安芸吉川氏は南北朝期に大きく発展し、戦国時代には吉川水軍の名を天下にとどろかせた。

 遠江国相良荘(榛原郡相良町)を本貫とする相良氏が、肥後国人吉荘(熊本県人吉市)の地頭職に任じられたのは元久二(1205)年だが、のちに同荘に本拠を移した。 九州相良氏は、やがて戦国大名へと発展していく。

 伊豆の田代氏は、工藤茂光の娘が、平安末期に伊豆国司として来任した源為綱(ためつな)とのあいだに成した子信綱を祖とし、同人が茂光の所領である狩野荘内の田代郷(修善寺町)に住したのに由来する。

 信綱も承久の乱に戦功があり、貞応三(1224)年、和泉国大鳥郷(おおとりごう)(大阪府堺市・高石市)の新補率地頭に任命された。 その子孫は大鳥郷に移って現地の支配を強め、周辺の領主と激しい抗争を続けながら、南北朝・室町の時代を生き抜いた。


 聖一・大応国師と日蓮・日興

 源頼朝は幕府創設以後、積極的な寺社振興策をとり、関東独自の宗教圏の形勢につとめた。 その中心に位置したのは鎌倉の鶴岡八幡宮だが、彼が挙兵以前から信仰した伊豆走湯山(そうとうさん)(熱海市)もとくに手厚く保護された。 箱根山(神奈川県足柄下郡箱根町)とあわせた二所詣(途次、三島社にも参詣)は、歴代将軍の正月恒例行事となった。

 北条時政が出身の地に建立した願成就院(がんじょうじゆいん)(田方郡韮山町)も、北条一門の氏寺にとどまらない機能を有し、幕府の援助があっただけでなく、やがては朝廷の御願寺にも列せられた。

 鎌倉時代の県域三国における仏教宗派としては、天台宗と真言宗とが圧倒的優位をほこった。 しかし他方、新仏教臨済宗の高僧、聖一国師と大応国師をうんだのが駿河国であったことも忘れてはならない。

 聖一国師円爾(えんに)(弁円(べんえん))は建仁二(1202)年、安倍郡栃沢(とちざわ)(静岡市)に誕生した。はじめ園城寺(おんじょうじ)末の久能寺で学び、ついで園城寺にはいって天台僧となり、さらに東大寺で受戒した。 だが、これにあきたらない円爾は、下野国長楽寺(群馬県新田郡尾島町)や鎌倉の寿福寺に行き、栄西(ようさい)の高弟から臨済禅を学んだ。

 そして嘉禎元(1235)年、ついに入宋(にっそう)、中国随一の禅僧といわれた無準師範(ぶじゅんしぼん)に参禅し、その印可(いんか)を得て仁治二(1241)年に帰国した。 やがて九条道家に招かれ京都に東福寺を開創、東福寺派あるいは聖一派とよばれる法流をおこした。 円爾は皇室・公家社会に弘法(ぐほう)しただけでなく、鎌倉の執権北条時頼との親交も深めた。

 大応国師南浦紹明(なんぼじょうみん)も嘉禎元年、やはり安倍郡井宮(いのみや)(静岡市)で生まれ、天台宗の建穂寺(たきょうじ)に入室、15歳で剃髪した。 その後、鎌倉建長寺で臨済宗の蘭溪道隆(らんけいどうりゆう)に学んで入宋、南宋仏教界の最高峰とされる虚(き)堂知愚(どうちぐ)から印可をきずけられ、文永四(1267)年帰朝して建長寺に戻った。

 

 ところが三年ほどして、突然博多に赴き、ことに崇福寺(すうふくじ)(福岡市)には、文永・弘安の役をはさんで30年以上も住んだ。 この背景には、緊迫した国際情勢に対処するための幕府の方針があったとも考えられている。 以後は京都で禅を説き、鎌倉にはいって建長寺の第12世住持となった。 この法系を大応派といい、臨済宗の主流を形成した。

 県域諸国にはじめて広まった鎌倉新仏教は日蓮宗である。 開祖日蓮が最初に駿河国にきたのは、文応元二(1260)年ごろ、実相寺(じっそうじ)(富士市)に『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』執筆のためにこもったときだとする史料があるか、これを信じない立場もある。 とすると、県下地域と関わりを生じたのは、その直後二年間ほどの伊豆国伊東流罪と、同地での布教だったことになる。



 さらに佐渡流罪を経た文永十一(1274)年五月、日蓮は鎌倉をでて駿河国竹ノ下(駿東郡小山町)にはいった。 そこから車返(沼津市)・大宮(富士富市)などをめぐり、途中信者と交流しながら甲斐国身延山にたどりついた。

 弘安五(1282)年、日蓮は没したが、日蓮の弟子たちのうちで、駿河・伊豆の門徒拡大にとりわけ強い影響をあたえたのが日興だ。 日興は甲斐国鰍沢(かじざわ)(山梨県南巨摩郡鰍沢町)の生まれで、幼いころ実相寺にいたことがある。 まだ日蓮が身延山に健在であった弘安二年、のちに「熱原の法難(ほうなん)」とよばれる事件がおこった。

 すなわち、日興の弟子日弁・日秀(にちべんにっしゅう)や富士郡熱原郷(富士市)の信徒が、同地の天台宗滝泉寺(りゆうせんじ)院主から訴えられ、鎌倉に連行された信徒らのうち三人が、日蓮らの助命嘆願にもかかわらず処刑されてしまったのである。

 しかしこの事件は、かえって信者の結束を強める結果になった。 日興は弟子で得宗被官の南条時光に招かれ、正応三(1290)年に大石寺(たいせきじ)(富士富市)を開き、また北山本門寺(富士市)以下の諸寺をつぎつぎと創建、岳南地域における宗勢の拡張と教団の形成に成功をおさめた。


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