南北朝動乱

4 南北朝動乱から今川治国へ

 中先代の乱と足利尊氏の反抗

 元弘三(正慶二(1333)年五月、得宗北条高時一門は鎌倉に自刃して果て、鎌倉幕府は滅亡した。 一方、隠岐(島根県隠岐郡)を脱出した後醍醐天皇は翌月帰京、「建武の新政」が開始された。



 後醍醐天皇の新政にかける意気込みは、あらゆる訴訟・申請の裁決をすべて綸旨(りんじ)で処理しょうとした点によくあらわれている。 しかも論旨は、本来、蔵人などの臣下が天皇の命令を奉じて書くのが決まりであるにもかかわらず、後醍醐は臣下の署名まで自分で書くようなことさえした。

 県下諸地域においても、旧来の所領安堵が綸旨でなされた例が確認できるが、前代に北条氏の支配が強くおよんだ同地域であってみれば、逆に没収、他人に拾与された土地も多い。

 たとえば、かつて日蓮宗の教線拡大に尽力した得宗被官南条時光は、幕末動乱期に鎌倉に赴き、高時らと運命をともにしたと伝えられ、彼の本拠駿河国富士郡上方(富士富市付近一帯)は、やはり後醍醐天皇の綸旨をもって同地の富士浅間宮に寄進された。

 

 建武政府の地方支配は、国司・守護を併置して行われた。 駿・遠・豆三国では駿河・伊豆の(知行)国主が討幕に大功のあった足利尊氏、遠江国主は弟の直義(ただよし)と推定され、固守や目代には、それぞれ足利氏の一門や縁者が起用された。

 守護は駿河・伊豆を尊氏が兼帯したと思われ、遠江国守護は一族の今川範国(のりくに)であった。 また所領としては、県城三国内に尊氏五カ所、直義四カ所、いずれも北条氏の旧領があたえられている。 総じて尊氏兄弟は、鎌倉北条氏にかわるかたちで県下に進出したといえよう。

 

 建武新政権を短命におわらせる契機となったのが中先代(なかせんだい)の乱だ。

 建武二(1335)年、信濃国に挙兵した北条時行(ときゆき)(高時の遺児)は、七月末に鎌倉を攻略、同所にあった足利直義を西走させた。 尊氏は後醍醐天皇の制止を振り切って八月二日に出京、三河国矢作(愛知県岡崎市)で直義軍と合体し、八月十九日には鎌倉を回復した。 この間、県下の何カ所かで、時行方との合戦が行われた。

 さて、鎌倉にはいった尊氏は、勅使を下向させてまでの京都召還をこばんで動かず、旧将軍御所跡に屋敷の新造を指示し、これを「柳営(りゅうえい)」 (幕府の意味)とよばせるなど、政府にしたがわない態度を強めていった。

 同年九月二十七日、富樫高家(とがしたかいえ)に加賀国守護職や遠江国西郷荘(掛川市)などをあてがった足利尊氏下文は、この段階における彼の政治姿勢を知るうえで、たいへん貴重な史料である。

      

 同じ日、尊氏は配下の諸将に行賞を専断し、三浦高継(たかつぐ)を相模国大介職に任命、その他の所職をあたえた。 ライバル新田義貞の上野(こうずけ)国守護職を奪い、上杉憲房(のりふさ)を任じたのもこのころだ。
 守護や国の介という公職を勝手に配下の武将にあたえ、自己の所領でもない土地を配分するなどは、建武政府に対する公然たる挑戦と評するほかない。

  

 また、前の尊氏下文中の西郷荘については、同地を高家に付すよう遠江国守護所(今川範国)に命ずる高師直(こうのもろなお)(のちの幕府執事(しつじ))の奉書が十一月五日付でだされており、軍政の組織も、かかる尊氏の立場に対応しつつ整えられたと思われる。

 義貞軍の東下は以前から予想されていたが、ついに十月十九日、後醍醐天皇は尊氏を朝敵と断じ、義貞に追討を命じた。 十二月五日の駿河国手越河原(静岡市)の合戦で直義はやぶれ箱根にしりぞいたが、尊氏みずから出陣した竹ノ下(駿東郡小山町)の決戦には義貞軍を撃破し、翌年正月にいったん入京をとげた。

 しかしまもなく、奥州から追尾してきた北畠顕家(あきいえ)の軍に追われて九州におちのび、同地で勢力を挽回、六月に京都を奪還した。 こうして同建武三(延元元=1336)年十一月、建武式目を制定し足利の幕府を京都に樹立したのである。


 宗良親王と今川範国

 だが同年暮れ、後醍醐天皇は京都を脱出して吉野(奈良県吉野郡吉野町)に移り、みずからの正統性を宣言した。 ここに、尊氏が擁する京都の北朝と吉野の南朝との、60年におよぶ南北朝対立の時代となったのである。

    

 後醍醐天皇は吉野還幸にさきだち、皇子たちに武将をつけて各地に派遣した。

   

 前天台座主尊澄法親王(ざすそんちょうほうしんのう)は、北畠親房(ちかふさ)に伴われて伊勢に赴き、翌延元二(建武四)年、還俗(げんぞく)して宗良(むねよし)と改名、やがて遠江国井伊谷(いいのや)(引佐郡引佐町)の井伊城(三嶽(みたけ)城)にはいった。



 同地は遠江国守護今川範国と対立する井伊氏の本拠であり、井伊氏は内田・横地・三和・八木氏など、範国の指揮下によせくる周辺の武士たちと、激しい攻防戦を繰り広げていた。



 延元三(暦応元=1338)年正月、南朝方が待望した奥州の北畠顕家軍が東海道を西上、これに合流した宗良親王は、ともに入京をめざしたものの、美濃国青野原(岐阜県不破郡垂井町付近一帯)で幕府軍に行く手をはばまれて果たさず、結局吉野に逃げ戻った。

 退勢挽回を策した後醍醐は、同年九月、宗良親王・義艮(のりよし)親王(のちの後村上天皇)と親房らを、伊勢の港から海路を東国にむかわせたが、天竜灘で大嵐にあって四散、宗良の乗船は遠江国の「しろわの湊(浜松市白羽町カ)といふ所」にうちあげられ(『李花集』)、ふたたび井伊谷にはいった。

 しかし井伊城周辺の支城は、尊氏方の軍勢につぎつぎと攻略され、ついに輿国元(暦応三=1340)年正月、本城もおち、まもなく宗良は、駿河国における南朝方勢力として知られた狩野貞長安倍城(静岡市)に移った。



 この間、前の青野原合戦の賞として駿河国守護職を(遠江にかえて?)拝領した今川範国の攻勢は熾烈で、そこにもいづらくなった。 興国二(暦応四)年、駿河をはなれてからの宗良は、富士の南麓・東麓をめぐり甲斐を経て信濃国に至った。

 親王の漂泊はなおも続くが、遠・駿地方における南朝方勢力の組織的反抗は、このあたりで終息したといえる。

 やがて信濃の山中での活動にも見切りをつけた宗良は、むなしく吉野に戻っていった。 親王死歿の地も享年も、定かにはわからないが、井伊谷では、明治初年に井伊家によって井伊谷宮が建てられ、親王の墓所に比定された。

   

 他の諸皇子のはなばなしい活躍にくらべると、宗良の場合は、軍事的にも政治的にも見劣りがする。 むしろその家集『李花集』に象徴されるように、流浪のなかによんだ歌の数々に心髄が示されている。

 しるやいかによを秋風の吹くからに露もとまらぬわが心かな

 【通釈】知っておられますかどうか。憂き世に秋風が吹くにつけ、私の心にも世を厭う思いが募り、露が草木からたやすく落ちるように、いささかも執着なく現世を離れようとする我が心ですことよ。

【補記】李花集に前歌「日にそへて…」に次いで掲載。「よを秋風の」に「世を飽き」を、「露も」に「いささかも」の意を掛けている。宗良親王の返歌は「草も木もなびくとぞ聞くこの比のよを秋かぜとなげかざらなん」。

 歌道界の大御所二条為世(にじょうためよ)の娘を母とした出生と、幼時の環境ゆえであろうか。 そして後醍醐天皇の皇子たちの多くが短命で、志をかばで倒れたのに対し、この親王は、70有余歳という抜群の天寿をまっとうしたのだった。

 遠・駿地域での南朝勢力の敗退は、一面、守護今川範国の成長の軌跡でもあり、のちに今川氏が、守護大名から戦国大名の雄に発展していく基礎がきずかれた時期でもあったと評しうる。

   

 守護今川氏と駿河伊達氏

 足利氏の幕府では、当初尊氏と直義が任務を分担する両頭政治が行われた。 しかし兄弟の関係は、しだいに破綻を生じ、対立は観応の擾乱(かんおうじょうらん)(1350年〜)へと発展した。

 擾乱はあざなえる縄のごとく乱れ、尊氏自身も一時南朝に降ってその年号「正平(しょうへい)」を用いるなど、混沌たるありさまを呈したが、重要な合戦は、中先代の乱や続く尊氏の反抗のときと同様、駿・遠地方を舞台に繰り広げられた。

      

 そして正平七(文和元=1352)年正月、直義が降伏、翌月鎌倉で毒殺され、幕府の内紛は一応おさまったものの、今度は南朝方が「和議」を破っていっせいに蜂起、内乱はあらたな段階に突入した。

 この間、駿河伊達氏の当主景宗(かげむね)は終始尊氏方に属し、奮迅の活躍をした。

 「駿河伊達家文書」によって景宗の戦歴を復元すると下図のようになり、尊氏の嫡子義詮(よしあきら)にしたがって美濃国垂井宿(岐阜県不破郡垂井町)から入京してもいる。



 文字どおり東奔西走の働きといってよい。

 入江荘(清水市)内の三沢小次郎跡は、勲功の賞として早々と景宗にあたえられ、以後、伊達氏のもっとも重要な所領と意識されつつ子孫に相伝されていった。

 伊達氏は実際の戦闘においては、駿河国守護今川範国の指揮下にあったが、正平七年二月に範国の嫡子範氏(のりうじ)が遠江国守護に任じられると、翌閏二月、景宗は、範氏の手に属して「遠江・駿河両国凶徒対治」に従事するよう、足利尊氏からの軍勢催促状をうけとっている(「駿河伊達家文書」)。

 範氏の遠江守護職補任は、今川氏にとって大きな意味をもった。 というのは、かの青野原会戦後、範国が駿河国守護に就任したためか、遠江守護の方は範国の手を離れていたからで、ここに今川氏は、親子で駿・遠両国の守護を兼ねることとなった。

 伊豆国では、直義党の石塔義房(いしどうよしふさ)や同党重鎮の上杉重能(しげよし)が守護をつとめたが、直義歿後は畠山国清(くにきよ)が起用された。



「内田家文書」「俣賀家文書」と「駿河伊達家文書」

 遠江国の御家人内田氏は、鎌倉時代、内田荘の地頭職を相伝し、同荘下郷(菊川市下内田)の地頭であった一族の致茂(むねしげ)が、承久の乱の 恩賞として石見国貞松名(さだまつみょう)(島根県浜田市)・豊田郷(同県益田市)の地頭職を獲得した。

 これらの所領は、以後子孫に分割相続され、致茂から豊田郷内の俣賀(またが)をゆずられた三男の致義(むねよし)に発する庶家が俣賀氏だ。

 元弘・建武の動乱期、内田宗家と俣賀氏は、それぞれ遠江・石見ではなばなしい活躍をしたが、やがて内田氏も石見に移った。

   

 内田家に伝わった「内田家文書」96点が、今日写本としてのこり、俣賀氏に伝来した「俣賀家文書」は120点の原本が、日本大学総合図書館や花園大学情報センター(図書館)ほかに分蔵されている。 内田氏の遠江における居館、高田大屋敷遺跡とかかる文書群とは、遺跡と鎌倉期以来の文献史料とが照応する希有な例だといえる。

 


 駿河伊達氏はかの独眼竜政宗をうんだ奥州の伊達氏と同族で、中世には駿河の国人、近世には美作(みまさか)国津山藩(藩庁は岡山県津山市に所在)の藩士であった。

 駿河伊達氏伝来の古文書群「駿河伊達家文書」118点は、黒漆塗りのりっぱな箱におさめられ、京都大学総合博物館に架蔵されている。

 こちらの方には、在地領主としての実態を示す内容の文書は少ないが、南北朝・室町期、将軍や守護今川氏からの発給文書、伊達氏自身が提出し承認を得て返された軍忠状など、上級権力との関係や戦闘の様相・軍事編制のありようなどが具体的に読みとれる史料を数多く含み、貴重な学術的価値を有している。

   



 今川の歴史 今川の歴史

 

 そもそも今川氏は足利の同族で、鎌倉時代中期、足利義氏(よしうじ)は執権北条泰時の娘とのあいだにもうけた子泰氏(やすうじ)を嫡子とし、長男の長氏(ながうじ)には三河国吉艮荘(愛知県西尾市・幡豆(はず)郡吉良町)を譲った。 そして長氏の子国氏(くにうじ)が、吉良荘今川(西尾市今川町)を名字の地としたのが今川氏の起こりだ。

 今川範国は、得宗高時の出家に殉じて23歳で出家し、法名心省を名乗り、五郎入道を通称としていた。

 範国の家督はすでに確立しており、範氏の遠江守護職とはいっても、実権は範国の掌中にあったものと思われる。

 遠江の守護は半年ほどで範国に交代し、逆にまた駿河の守護が範国から範氏に移るなど、そうとう複雑な動きをみせているが、要するに範国の意向にそった布石であろう。

 ともかく、以後南北朝内乱期をつうじて駿・遠守護は今川一門の手をはなれず、あまつさえ駿河では国務(国司権)をも兼帯した。

 範国の活躍は駿・遠地方にとどまらず、一時期鎌倉で軍政にたずさわり、延文三(正平十三=1358)年、尊氏の死後は二代将軍義詮を擁護し、京都で訴訟を担当する引付頭人(ひきつけとうにん)にも任命されている。

 範国は嫡男の範氏よりも、その弟の貞世(さだよ)(了俊)(りょうしゆん)の方を愛していた。 だから範氏の駿河国守護就任のさいも、範氏が貞治四(正平二十=1365)年に早世したときも、加えて以後も、再三再四駿河の守護権を貞世にあたえようとしたという。

 貞世は国辞し、結局、範氏の嫡子氏家へ、ついで泰範(やすのり)へと継承された。

 貞世はむしろ幕府中央に活動の場を求め、侍所(さむらいどころ)頭人・引付頭人を歴任し、応安四(建徳二=1371)年には、九州探題に任じられた。 そして至徳元(元中元=1384)年五月、いよいよ範国が歿すると、遠江国守護は遠く九州にあった了俊が継ぎ、本領今川の地を相続した。




 足利将軍の富士「遊覧」と今川氏

 嘉慶二(元小五=1388)年秋、三代将軍足利義満は富士山見物のため、駿河国に遊んだ。 守護の今川泰範が饗応にはげんだであろうことは想像にかたくないし、了俊に対する宗主権の主張にこれを利用する必要があった。

                    

 義満にとっても今回の「遊覧」は、もちろん単なる遊びではなく、将軍家に対抗心をいだく鎌倉公方足利氏満を威圧する目的がこめられていたと考えられる。

 明徳三(元中九=1392)年には、義満の手によりついに南北朝の合一がなり、義満の権威はいやがうえにも高まった。応永二(1395)年、今川了俊は九州探題を罷免され、京都に召還された。

 突然の解任劇は、四半世紀にもおよぶ了俊の存在がもたらす権限の強大化をこころよくおもわぬ、前将軍義満の意向によるとされる。

 実は了俊は、遠江守護を四年ほどで弟の仲秋(なかあき)にかえられており、それも不満だった。 幕府は、探題解任後、了俊に駿河・遠江各半国の守護職をあたえたが、長年の労にむくいるにはあまりにも少なく、駿河では泰範の守護権と軋轢(あつれき)を生じた。

 応永六年におこった応永の乱は、六カ国の守護を兼ねる大内義弘(よしひろ)を義満が挑発して滅ぼした事件だ。 今川泰範は駿・遠の兵を率いて義弘がこもる堺城(大阪府堺市)攻撃に参加、戦功により駿・遠全体の守護職を獲得した。 一方、了俊は義弘とつうじた疑いにより失脚、余生を和歌・連歌の指導と述作にすごした。

 ところで伊豆国守護は、かつて上杉重能が在任したことがあったが、応安二(正平二十四=1369)年に至り、重能の養子でもあった関東管領山内上杉能憲(よしのり)憲顕(のりあき)の実子)にあたえられ、以後山内上杉氏の家督が代々世襲した。

 義満の富士「遊覧」を先例として踏襲した将軍に、六代義教(よしのり)がいる。 将軍空位の果てにくじ引きで選ばれた還俗の将軍とあって、後継を期待した鎌倉公方持氏(もちうじ)には、はなはだ不本意だった。 持氏は将軍襲位を慶賀する使いを送らず、永享(えいきょう)の改元(1429年)も無視して旧来の年号、正長(しょうちょう)を用い続け、自立の姿勢を示した。

 これは義教のコンプレックスを逆撫でした。 永享四年、義教は相手を威圧し出方をさぐるため、富士山見物を名目に駿河国に赴いた。

 九月十日、公家・武家大勢を率いて京都をたち、十八日駿府到着、守護今川範政(のりまさ)は将軍の歓待に心をくだいた。 すぐさま富士見の亭にあがった義教の和歌、

  見ずばいかに 思い知るべき 言の葉も 及ばぬ富士と かねて開きしを

憲政の返歌、

  君が見む 今日のためにや 昔より 積もりは染めし 不二(富士) の白雪

                                            (『富士御覧日記』)

 一行は二十一日に帰還の途につき、二十八日には京都に戻った。 この間持氏は、病と称して出仕しなかった。 義教の心中に青白い報復の炎が灯ったのは、帰路を旅する途中のことであろう。


 今川氏の内証と堀越公方の誕生

 そのころ今川範政は、自分の後継問題に頭を悩ましていた。 範政には、嫡男彦五郎(のちの範息(のりただ))・次男弥五郎・末子千代秋丸があったが、彦五郎をしりぞけ、正室(扇谷上杉氏定の娘)が生んだ千代秋丸に相続させたい意向をもち、将軍義教の駿河来臨以前から、その旨を幕府に願いでていた。

 しかし義教は、駿河国が鎌倉府管轄の伊豆・相模・甲斐と接する幕府側の重要拠点であることに鑑み、鎌倉府所縁のものが今川の家督となるのを嫌い、許可をあたえなかった。

 相続人が決まらないまま永享五(1433)年を迎え、四月、範政が重体におちいると、地元では、国人矢部・朝比奈氏らに支持された弥五郎と、狩野・富士・興津氏らに擁された千代秋丸との二派の対立が激化し、それぞれがまた幕府管領細川持之(もちゆき)と宿老山名時煕(ときひろ)とに結びつき、問題はにわかに重大化した。

 この間、幕府の対応には一貫しないところもあり、それが混乱を助長したが、結局義教は、六月、彦五郎を正式に相続人と決定、京都にいた彦五郎範忠は駿河国守護(遠江守護は今川泰範のあとは斯波氏が相伝)に任じられ、国元にむかった。

 しかし現地では、鎌倉公方持氏の支援をうけた千代秋丸派の狩野・富士氏などが反乱をおこした。 戦闘は義教に援護された範忠方に有利に展開し、九月に狩野氏の湯島城(静岡市)が陥落、範忠の勝利が確定した。 一連の抗争を永享の内訌(えいきょうのないこう)という。

 かくして将軍に支持された範忠が勝利し、鎌倉公方が後援する勢力が敗退したことは、爾後(じご)の今川氏の親幕府的方向を決定づけ、安定した領国経営をもたらす契機となった。

 のち、さらに今川氏は、義忠(よしただ)の後継問題から文明の内訌(1476)を経験するが、そこでも堀越公方扇谷上杉氏ら関東勢の介入を排除して、幕府を背景とした氏親が勝利をおさめる。

 親幕・国境の重鎮たる立場は、今川氏の発展とともに強化され、存立の基盤となったのである。

 さて、将軍義教と鎌倉公方持氏との確執は、もはや抜きさしならぬ状況にせまっていた。 永享十年八月、それまで持氏の強硬策をいさめてきた穏健派の関東管領山内上杉憲実(のりざね)が、持氏との不和から鎌倉をでて領国の上野にむかった。

 持氏はこれを追って出陣、憲実は幕府に救援を求めた。 報に接した将軍義教は、ただちに持氏討伐を決意、諸方面に下命した。 今川憲忠は足柄路から進軍した。 部下の寝返りにより鎌倉を占拠された持氏は進退きわまり、出家・謹慎したが義教は許さず、翌年二月、憲実に命じて鎌倉の永安(ようあん)寺を攻めさせ、持氏主従を自殺においこんだ(以上、永享の乱)。 こうして鎌倉公方四代90年におよんだ関東支配はおわった。

 それから約20年後の長禄元(1457)年、京都では八代将軍義政の世になっていたが、関東では持氏の遺児成氏(しげうじ)が下総(しもうさ)国古河(茨城県古河市)に拠って古河公方(こがくぼう)を称し、東関東の豪族にささえられながら幕府に対抗していた。

 年号も従来からの享徳(きょうとく)を使い続け、父と同じく改元を無視した。 義政は同年、大規模な古河攻めを計画し、庶兄を還俗させて政知(まさとも)と名乗らせ、これを総大将、あらたな鎌倉府の主として下向させた。

 しかし政知は、古河はおろか鎌倉までも進出できず、旧鎌倉府所管の国々のなかでは西端の国、伊豆の堀越(田方郡韮山町)にとどまらざるをえなかった(享徳の乱)。

 以後、政知は堀越公方の名でよばれ、古河公方とあわせて二人の公方が併存することとなった。 堀越公方は鎌倉公方を継承したのだから、建前としては伊豆・相模・甲斐以東の12カ国を管轄したはずだが、実効支配圏はそれに遠くおよばず、伊豆・相模を中心に武蔵・上野を含む程度にすぎなかったようである。




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