戦国動乱

1 戦国大名今川氏の台頭

 今川氏親の遠州平定

南北朝内乱期の範国以降、駿河・遠江の守護として活躍してきた今川氏が、戦国大名へと発展したのは、七代氏親のときであった。 しかし、それは決して順調に行われたのではなく、幾多の困難を経てのものであった。

 そもそも、氏親の家督継承自体が、父義忠が遠州の反今川勢力掃討の帰路、不慮の戦死をとげたことでもたらされたものであった。 幼少の竜王丸(氏親の幼名)はすぐには家督をつげず、内紛がらみで一族の小鹿範満(のりみつ)が家督を代行することになり、竜王丸は危険を感じて、一時母北川殿と駿府をはなれるということさえあった。

やがて、母の兄にあたる伊勢盛時(もりとき)(のちの北条早雲)の助力を得て、範満を討つことによってやっと駿府に戻ったのである。 長享元(1487)年のことといわれている。

 

 伊勢盛時はこの功により、富士下方12郷をあてがわれ、善得寺城(富士市)にはいった。 やがて明応二(1493)年になると、盛時は伊豆の堀越公方足利政知(まさとも)の死後、これをついだ茶々丸(ちゃちゃまる)のもとで混乱が続いているのを好機に、伊豆国に侵攻した。


 
 

 そして、韮山城(田方郡韮山町)にはいることによって、こののち関東に雄飛する小田原北条氏の基礎をきずいたのである。



 ところで、今川氏の家督をついだ氏親は、明応三年以降遠江への侵攻を開始した。 これが本格的になるのは文亀元(1501)年のことであり、室町期には遠江の守護は斯波(しば)氏であったため、これ以後遠江の支配をめぐる斯波氏との抗争となった。 そのおもなものは三次におよぶが (秋本太二「今川氏親の遠江経略」『信濃』二六巻一号)、以下、遠州平定に至る主要な過程を追ってみよう。

 まず第一次の抗争は文亀元年で、当時の遠江守護斯波義寛(よしひろ)、その弟義雄・寛元(ひろもと)らとの対決となった。 このとき、斯波氏側は信濃の小笠原氏に対して合力を要請し、府中(長野県松本市)系の小笠原貞朝(さだとも)の援軍は七月の書状で「当国御逗留の儀」(『静岡県史』資料編7)とあるので、それまでには遠州に到着していたことが知られる。

 八月十二日付けで斯波義雄が松尾(長野県飯田市)系の小笠原是基(さだもと)・貞忠(さだただ)父子にあてたほぼ同内容の書状では、「右馬助方二俣(うまのすけかたふたまた)に在庄す。 まことに以て祝着に候。 よって、この時別して合力に預かるべき事、本望に候」(同前)と、右馬助貞朝の軍勢が二俣(天竜市)までやってきていることを伝え、重ねて合力を要請している。

 この文亀年間(1501〜04)の攻防戦はかなり激しかったようで、今川方の本間宗李(むねすえ)の軍忠状によれば、中遠地方の座王御城(ざおうごじょう)=久野城(袋井市)・天方城(周智郡森町)・馬伏塚城(まむしづかじょう)(磐田郡浅羽町)などでも激戦があった。





 このように、斯波方は信濃小笠原氏の加勢を得て善戦したが、やがて小笠原氏が帰国するにおよび、戦況はしだいに今川方優位に推移していったのである。

 その後、永正元(1504)年には、氏親は、すでに早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)と名乗っていた早雲らと関東に出陣するというようなこともあったが、永正三年には一転して三河に出陣し、今橋城(愛知県豊橋市)を攻撃した。

 これにもまた早雲が加わっており、これがいわば第二次の抗争で、この間、遠州打諸氏で今川方に降り、所領の安堵・宛行(あてがい)をうけるものも多かった。 また、氏親は永正五年には遠江の守護に任ぜられて、遠州支配の公的な権限を取得したのである。

 こうして、今川氏は遠州一帯をほぼ制圧することになるが、なお斯波氏や隣国三河の吉良氏の勢力も残されていた。 それらの勢力を一掃するには、永正七年以降の第三次抗争を経なければならなかった。

 氏親が最終的に遠州を平定したのは、吉良氏の代官大河内氏を引間城(ひきま)(浜松市)に破り、斯波義寛の忠義達(よしみち)を尾張に追放した永正十四年のことであった。

       


 今川義元の活躍

 氏親が大永六(1526)年六月に没すると、嫡子氏輝(うじてる)がこれをついだ。 しかし、氏輝は10年後の天文五(1536)年三月に、わずか24歳の若さで、嗣子もなく没した。 しかも、弟彦五郎と同日の死去ということで、氏輝の死には疑惑ももたれている。



 このため、今川氏の家督をめぐって、氏親のさいと同じく、ふたたび内紛がおこった。 すなわち、いずれも出家していた氏輝の弟であるが、氏親の正室寿桂尼(じゅけいに)を母とする栴岳承芳(せんがくじょうほう)(義元)と、側室福島(くしま)氏の娘を母とする玄広恵探(げんこうえたん)(良真(よしまさ))との争いとなった。

    

 一カ月あまりの抗争の結果、六月八日に承芳方の勝利となり、承芳は還俗(げんぞく)して義元と名乗り、九代目の当主となったのである。 なお、義元の出家名はこれまで「梅岳(ばいがく)」とされてきたが、最近では「栴岳」であったといわれている(今枝愛真「禅宗史料の活用について」『仏教史学研究』三七巻一号)。

 この両者の抗争は、恵探=花蔵殿(はなくらどの)(藤枝市花倉の遍照光院(へんじょうこういん)にいたため)の反乱ということで、最近では「花蔵の乱」とよばれている(前田利久「″花蔵の乱″の再評価」『地方史静岡』一九号)。



 そして花倉地域の局地的な合戦ではなく、承芳派と恵探派に分かれて、駿府をはさんだ駿河の東西に展開しており、かなりの規模でたたかわれたことがあきらかにされている。

 また、『高白斎記』で「氏照の老母、福嶋越前守宿所へ行く。

 花蔵と同心して、翌廿五日未明より駿府において戦い、夜中福嶋党久能へ引き龍もる」とあるところから、寿桂尼がどういうわけか花蔵=恵探に荷担していたことが注目されている(有光友学「今川義元の生涯」『静岡県史研究』九号)。

 このように、義元の家督継承もなかなか苦難に満ちたものであったが、翌天文六年にはまた、駿河東部を北条氏綱(うじつな)に侵攻されるという試練をうけた。

 今川氏は、氏親・早雲との関係もあり、小田原北条氏と同盟関係にあった。 ところが、この年二月に義元が、北条氏と対立関係にあった甲斐の武田信虎の娘を娶ったため、これに反発した北条氏綱が駿河に出陣したのである。 そして、翌月には今川軍を破り、富士川以東の駿河国は氏綱に押さえられてしまった。 これは「河東一乱」とよばれており、こののち河東をめぐる今川・北条両氏の抗争が続いた。



 天文十四年には、義元は河東に進出して氏綱とたたかい、吉原から三島、さらに長久保城(駿東郡長泉町)にまで至った。 しかし、今川方が最終的にこの地を回復するには、のちに再度同盟を結ぶ時期まで待たなければならなかった。

 

 このころから、義元は他方で三河への侵攻をはかっていた。 そのような義元の活躍の陰に、大原崇孚雪斎(たいげんそうふせつさい)の存在があったことを忘れてはならない。



 雪斎は庵原氏の出身で、臨済寺(りんざいじ)(静岡市)の事実上の開祖であり、義元は幼少のおり、この雪斎(九英承菊(きゆうえいじょうぎく))について善得寺(富士市)で得度している。 そのため義元の信頼は厚く、とくに三河の経略におおいに力を発揮した(平野明夫「大原崇孚雪斎の地位と権限」『駿河の今川氏』第一〇集)。



 今川義元による三河侵攻は、天文十年代から本格的になった。 天文十一年八月には、安祥(あんじょう)城(愛知県安城市)を押さえて西三河に侵攻してきた尾張の織田信秀に対抗し、第一次小豆坂(あずきぎか)(愛知県岡崎市)合戦となるが、これは織田方優位でおわった。 天文十五年になると、今川方は十一月に今橋(いまはし)城を攻略した。



 この間、岡崎城主松平広忠は、織田勢と対決して今川方と行動をともにしていた。 そして、翌天文十六年織田軍が岡崎に来攻すると聞き、今川氏に援助を求めたところ、義元は人質として嫡子竹千代(のちの徳川家康)を差し出すよう要求した。



 広忠はやむなくこれに応じ、竹千代を駿府に送ったところ、途中田原の戸田氏にあざむかれ、織田信秀のもとに送られてしまった。 織田方はこれを好機として、きっそく織田方への帰順をうながしたが、広忠は竹千代を人質にとられながらも、これには応じなかった。



 戸田氏の行動は今川方からみればまさに反逆であり、義元はさっそく同年九月に太原雪斉を派遣し、田原城を落として戸田氏を滅亡させた。 そして翌天文十七年三月には、義元は太原雪斉を将として大軍を送り、織田信秀の軍勢といわゆる第二次小豆坂合戦となり、織田軍を破ったのである。

 天文十八年は、今川氏の領国支配にとっては、画期的な年となった。 この年三月に広忠が家臣に斬殺されるという悲運に見舞われた。 義元はさっそく雪斎らを派遣して岡崎城を接収した。



 ついで十一月には織田方の西三河の拠点安祥城を落とし、守将織田信広をとらえて、これと竹千代との交換が成立した。 竹千代は駿府に送られて、改めて今川氏のもとで人質の身になったのである。 こうして、義元は西三河をも支配下におさめ、駿河・遠江・三河の三国を領有することになったのである。

 他方、武田氏や北条氏との関係でも、それぞれの利害が一致して、あらたな同盟関係が成立した。 まず、天文二十一年十一月に、義元の娘が信玄の嫡子義信に嫁いだ。 ついで天文二十三年には、七月に北条氏康の娘が義元の嫡子氏真(うじざね)に、十二月に信玄の娘が氏康の嫡子氏政(うじまさ)に嫁ぐことによって、いわゆる駿・甲・相の三国同盟が成立したのである。



 こうして、今川氏は天文末年から、永禄三(1560)年五月に義元が桶狭間で討たれる10年足らずのあいだに、最盛期を迎えることになった。


 今川氏の領国支配

 今川氏が氏親の代に戦国大名へと発展したといわれるのは、単に領土が拡大したというだけではなく、領国支配にあらたな方式がもちこまれたからである。 ここでは、氏親から氏真に至る戦国大名今川氏をつうじて、その主要な点をみておこう。

 その代表的な事例としては、まず検地があげられる。 現在知られている今川検地の初見例は、遠州平定の翌年、永正十五(1518)年に相良庄般若寺(はんにゃじ)領で行われたものである。 それ以後、今川氏が滅亡するまでの三国にわたる検地事例は、81件にのぼるといわれている。 もとより、今川氏の検地はのちの太閤検地などのように厳密なものではなく、紛争や隠田摘発などを契機として訴人があらわれ、局地的に検地が行われるケースが多いとして、有光友学氏はこれを公事(くじ)検地と名付けられた(有光友学『戦国大名今川氏の研究』)。

  

 もっとも、筆者は義元の代になると、征服地三河などに対しては、郡規模にもわたる政策的な意味をもった検地が行われた可能性もあると考えている。

 また、検地によって部分的ではあれ加地子得分(かじしとくぶん)(農民的剰余・地主得分)が把握された意義も大きい。 さらに、最近発見された史料によれば、天文十二(1543)年の孕石(はらみいし)氏の知行目録で、「遠州知行社山(やしろやま)田島年貢足留帳」の孕石氏の所領九町一反に、「壱反五百文代に、公方より御検地の時相定めらる」といわれていて、反別五〇〇文の年貢がかけられ、その収益は四五貫五〇〇文であった。

 つまり、今川検地で反別五〇〇文という、統一した反別貫文高の設定がみられたことが注目されるのである。

 つぎに家臣団編成ということであるが、典型的な事例として、二俣城主松井氏の場合をあげておこう。



 永禄三(1560)年十二月九日付けで、氏真から松井宗恒(むねつね)に対して二通の文書がだされている。 一通は父宗信(むねのぶ)が五月の桶狭間の合戦で抜群の働きをして討ち死にしたため、嫡子宗恒に遠州所々の知行を安堵したものである。 もう一通は「松井八郎奏者人数」として、若干の例をのぞいて、個人名で28氏50人が書きあげられている。

 

 これらの侍は、「奏者(そうじや)」である松井氏に付属せしめられた「同心」であり、このような関係は一般に寄親(よりおや)寄子(よりこ)制とよばれている。 すなわち、寄子(同心)は寄親(奏者)の家臣ではなく、ともに今川氏の家臣であった。 しかし、寄子は合戦に際して特定の寄親の軍事指揮権のもとにはいるものとされており、あるいは、なにか問題がおこって今川氏に訴えるときは、寄親をつうじて行うというような関係にあった(菊池武雄「戦国大名の権力構造」 『歴史学研究』一六六号)。

 このため、いざ合戦となると、寄子(同心)は寄親の軍団に属して出陣したのであり、桶狭間の合戦で「同心・親類・被官(ひかん)数人、宗信一所に討ち死に」とある同心は、まさに寄親宗信に付属した侍たちであった。

 また、親類とは松井氏の一族であり、被官とは松井氏のいわゆる家臣であった。 松井氏の戦時における家臣団は、このように親類・被官を中心にしながらも、その周囲に同心を擁して構成されていた。

 しかも、上表にみられる姓からすれば、中遠地方の在地領主のみならず、土豪(どごう)・小領主とみられるものも多い。 今川氏の家臣団は、その末端には有力農民で武士化したものをも取りこんでいたのである。

 戦国大名はみずからの領国内で公権力としての立場を確立し、新しい状況に対応した独自の法と裁判基準を定立しょうとした。 いわゆる分国法(ぶんこくほう)とよばれるもので、今川氏の場合は氏親の晩年大永六(1526)年に、「今川仮名目録」33ヵ条が制定された。

 のちの義元段階での「仮名目録追加」21ヵ条、訴訟条目である「足し13ヵ条も含めて、他の東国の戦国大名にあたえた影響は大きい。 その内容については、コラムにゆずることとしよう。

        

 そのほか、たとえば交通制度の面では、今川氏も武田氏や北条氏と同様に、いわゆる伝馬(てんま)制度を確立していた。 とくに、三河一国を押さえた天文二十年ごろから整備が進んだようで、領国の拡大とともに情報の伝達や公用荷物のすみやかな搬送が必要になったからであろう。

 三河の「御油(ごゆ)二郎兵衛尉」や駿河の「丸子宿中」宛の文書も残されていて、領国内各宿に求められた伝馬の内容の一端を具体的に知ることができる。

 また、領国内の流通経済に関しては、今川氏の場合は松木・友野などの御用商人に種々の特権をあたえて育成し、彼らをつうじて統制しょうとした。

 友野は駿府今宿(いまじゆく)の商人頭として友野座を結成しており、天文二十二年に義元から五ヵ条にわたる掟書をくだされている。

 松木の場合も「度々京都を上下致し、奉公せしむるの間」(『静岡県史』資料編7)ということで、永禄四年に氏真より蔵役・酒役・諸商売の役を免除するとの特権をあたえられているのである。

 このような諸施策をつうじて、今川氏はまさに戦国大名として、領国内の支配・経営をはかっていったのであった。



今川仮名目録

 今川氏親が定めた「今川仮名目録」33ヵ条と、義元が定めた「仮名目録追加」21ヵ条とは、戦国大名の分国法の代表的な事例である。

 武田氏の「甲州法度之次第」のかなりの条文が仮名目録を参考にして作られているように、のちの時代の分国法に大きな影響をあたえている。

 仮名目録の第一条が、年貢増をめぐる本百姓・新百姓問題であることにもあらわれているように、在地の新しい状況に積極的に対応しょうとしており、まさに生きた法典として機能しているのである。

 以下、その内容は田畠・山野の堺相論(さかいそうろん)、相論なかばでの手出しの禁止、被官人問題、知行地の売却、用水問題、借米・借銭、不入地問題など、文字どおり多岐にわたっている。

 また第八条で、喧嘩を行ったものは両方共に死罪とされていて、いわゆる喧嘩両成敗法であることも注目される。

 義元段階の仮名目録追加になると、似かよった条文もあるが、いっそう内容がくわしくなっている。 あらたなものとしては、寄親と与力・同心の問題、嫡子・庶子の知行相続問題など、広く家臣団統制にかかわるものがみられる。

 その他、分国中諸商売の役のこと、奴脾(ぬひ)・雑人(ぞうにん)の子どもの所有権問題などが注目される。

 そしてなによりも、第二〇条の不入地の項で、「只今はおしなべて、自分の力量をもって国の法度(はっと)を申し付け、静謐(せいひつ)することなれば」といっていることは、義元の領国支配にかける並々ならぬ自信を示しているといえよう。





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