今川文化

 今川文化の開花

 駿河の今川氏は、周防(すおう)の大内氏や越前の朝倉氏とともに、とくに文化面で力をいれていた戦国大名として知られている。 応仁・文明の乱以降、戦火に見舞われることの多かった京都をさけ、有力な大名をたよって地方に下向(げこう)する公家たちも多かった。



 今川氏の場合は、氏親の正室寿桂尼が中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘だったこともあり、早くから公家たちが下向していた。 また、義元自身もまだ栴岳承芳と名乗っていたころ、一時期京都の建仁寺にはいって修行し、京文化・五山文化につうじていたのである。



 このため、氏親から義元期に駿河に下向した公家は10人を超えていて、いわゆる今川文化は、まずはこのような公家たちによってささえられたものであった。

 なかには、氏親の姉を妻としていた正親町三条実望(おおぎまちさんじょうさねもち)のように、長期間下向したままで、享禄三(1530)年に駿府で没したものもいた。

 ただ、実望の場合も、永正五(1508)年に下向し、永正十一年末から二年間は上洛していたというように、他の公家についても上り下りはかなりあった。

 これら公家たちの役割として大きかったのは、冷泉為和(れいぜいためかず)に代表されるように、和歌の指導があった。 年始の歌会、各所の月次(つきなみ)歌会など、たびたび歌会が開かれている。 また、連歌も盛んで、今川氏との関係でとくに活躍したのは、連歌師宗長(そうちょう)であった。



 宗長は駿河島田の鍛冶職に生まれ、今川義忠につかえたが、その死後上洛して宗祇(そうぎ)に師事し、やがて氏親の庇護を得るようになった。 永正元年には、今川氏の家臣斎藤安元の援助により、丸子の里に柴屋軒(さいおくけん)という草庵を結んでおり、現在の吐月峯柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)(静岡市丸子)はこれをうけついでいる。



 宗長はここを本拠としながらも、その後も各地への旅を続けたのであった。

 

 駿府へ下向した公家のなかでも、山科言継(ときつぐ)の場合は『言継卿記(きょうき)』とよばれる詳細な日記を残しているので、当時の駿府のようすがあさらかにされていて貴重である。



 弘治二(1556)年九月二十四日に駿府の新光明寺(しんこうみょうじ)に到着してから、翌年三月一日に駿府を出発するまで、わずか五カ月あまりであったとはいえ、まさに今川氏の全盛期であり、当時の今川文化がうかがわれるのである。



 すなわち、この時期もまた、歌会が盛んであった。 義元邸に言継(ときつぐ)が招かれたり、氏真邸の歌会には、義元も出席したりしている。 言継が主催したものとしては、とくに十しゅう香(じゅっしゅうこう)とよばれた香が注目される。

 また、言継は囲碁や音曲・楊弓 (おんぎょく・ようきゆう)(遊戯用の小弓)を楽しんでおり、将棋を見物したりした。 二月十二・十三日の新光明寺の女房狂言には、1500人ほどの見物衆が集まり、十四・十五日の狂言にはそれ以上の群衆が押しかけたという。



 言継は二月十八日には建穂寺(たきょうじ)で舞楽を、二十二日には雨で延期された駿府浅間社の廿日会祭(はつかえさい)をそれぞれ観賞している。



 さらに、この間の十四・十五日には、義元の世話で名所見物にでかけ、久能観音・羽衣松・三浦大明神・貝嶋(かいしま)・清見寺・清見関(きよみがせき)・江尻などをまわった。



 先年駿府城跡内の発掘調査で、今川氏の居館とみられる遺構が発見されたため、今川氏の城下町もその後の駿府城を中心とする城下町とくらべ、規模は小さくても同様の広がりをもっていた可能性が高まった。



 三条西実隆(にしさねたか)の『実隆公記』によると、享禄三年に駿府で火災があり、2000余軒が焼失したといわれている。 正確な軒数はともかく、すでに氏輝のころにかなり城下町が繁栄していたことが知られるのである。

 言継が滞在したころはそれから30年近くたっており、しかも今川氏のまさに全盛期であったため、城下町の整備もかなり進んでいたであろう。 いつの時代でも、またどの国においても、国力が充実しているときに文化も花開くものである。 『言継卿記』には、ここではその一端をみたにすぎないが、今川氏の繁栄と今川文化の充実ぶりをみてとることができるのである。


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