竹田・徳川

2 武田氏と徳川氏

 今川氏の滅亡

 氏親以来、戦国大名として順調に発展してきた今川氏は、永禄三(1560)年五月の桶狭間の合戦で義元が討たれたことにより、滅亡への道をたどりはじめることになった。 それに対して、あらたに台頭してきたのが、松平元康(徳川家康)であった。

  

 義元が討たれたとき、今川方の一武将として参戦していた元康(当時は元信)は、わずか四キロほどはなれた大高城でこの知らせをうけとった。 元康はその夜三河大樹寺(だいじゅじ)へとむかい、やがて今川勢が引きあげるのを待って、岡崎城へはいった。







 父広忠が非業の最期をとげ、岡崎城が今川氏に接収されてから、実に11年目の帰城であった。

 その後、元康はいわゆる三河一向一揆などの危機に直面しながらも、これを鎮圧して西三河を押さえた。

 その間に、今川氏と断交し、義元からもらった「元」 の字をすて、家康と改名するというようなこともあった。 ついで、当時なお今川氏の勢力下にあった東三河の制圧にむかい、永禄八年に吉田城(愛知県豊橋市)と田原城(同渥美郡田原町)とを攻略することにより、一応三河一国を平定したのである。







 翌年十二月には、朝廷に奏請して従五位下・三河守に叙任され、徳川に改姓する勅許をも得て、名実ともに三河の新興大名としての地位を固めたのであった。

 この間、今川氏はほとんどなすすべもないままに、三河を押さえられてしまった。 それは氏真の無能ぶりもさることながら、永禄六年末ごろから、「遠州そう劇(げき)」「遠州錯乱」などとよばれるような反乱事件が勃発していたからである。

 反乱の中心人物は引間城(浜松市)主飯尾(いのお)氏で、これに犬居(いぬい)城(周智郡春野町)主天野氏や、二俣城(天竜市)主松井氏などが荷担したものであった。



 そして、この反乱は永禄八年末に飯尾氏が駿府で成敗されて、やっとおさまったのである。

 このような状態であったから、今川氏の勢力は急速に衰えていった。 それが決定的になったのは、永禄十一年のことであった。 この年九月に織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことが、戦国諸大名に大きな衝撃をあたえ、まず甲斐の武田信玄が立ちあがったからである。

 すなわち、信玄は同年十二月に軍勢を率いて駿河侵攻を開始し、たちまちのうちに駿府を押さえて、氏真を遠州掛川城へと追いやった。

 家康もこれに呼応して遠州に攻め入り、井伊谷(いいのや)(引佐郡引佐町)を押さえるとともに引間城にはいった。 そのさい、武田・徳川両氏のあいだでは、信玄からの申し入れで、大井川を境として、信玄は駿河、家康は遠江との約束があったといわれている。

 この家康の遠州侵攻にいち早く呼応して、その先導役をつとめたのが、菅沼・近藤・鈴木のいわゆる井伊谷三人衆であった。

 家康は十二月十二目付けで「今度遠州入りについて、最前両三人忠節を以て井伊谷筋を案内せしめ、引き出すべきのよし感悦の至りなり。 その上彼の忠節について、出し置く知行の事」として、遠州の諸所2500貰文をあてがっている。

 ほかにもこの時期今川氏を見限って家康にしたがった遠州の諸氏は多く、久野城(袋井市)の久野宗能(くのむねよし)を始め、匂坂・中山・大村・加々爪(かがつめ)・小笠原・江馬・松下・都筑(つづき)氏などが、翌年初めにかけて家康から所領を安堵されている。

 

 掛川城にはいった氏真は、このような状況にもかかわらず、当初はよくささえて、一進一退の攻防戦が続いた。 しかしながら、勢いの違いはおおいがたく、今川方はしだいに追いつめられ、五月になって和議が成立した。

 氏真は掛川城を家康に明けわたし、小田原の北条氏をたよって、掛塚湊(かけづかみなと)から駿東郡戸倉城(清水町)へと去っていった。

 こうして、一時は駿河・遠江・三河の三国を押さえた今川氏も、義元亡き後わずか10年足らずで事実上滅亡したのである。

 家康は、氏真退去後の掛川城を石川家成にまもらせるとともに、引きつづき遠州の平定を進めていった。

 そして、翌元亀元(1570)年六月には、祖父清康(きよやす)以来の居城岡崎を去り、引間を浜松と改め、修築なった浜松城にはいったのである。





 三方ケ原の合戦

 こうして、家康の遠州平定は順調に進むかにみえたが、決してそうではなかった。 その行く手に大きく立ちはだかったのは、武田信玄であり、その死後は勝頼であった。

 武田氏は、今川氏滅亡後の駿河をいち早く押さえ、永禄十二(1569)年末には、蒲原城(庵原郡蒲原町)を攻略して、小田原北条氏の勢力を東に追いやった。

   

 駿河については、主として一族の穴山信君(梅雪(あなやまのぶきみばいせつ))が支配にあたった。 信君は天正三(1575)年には、江尻城(清水市) にはいっている。

 ところが、他方では大井川を境としてとの約束があったといわれているにもかかわらず、武田氏は当初から遠江へも介入していった。 そのため、遠州の諸氏のなかには、犬居城主天野氏、二俣城主松井氏、あるいは孕石氏など、信玄の軍門にくだるものもかなりあり、これ以後武田・徳川両氏の抗争が、天正十年の武田氏の滅亡まで続くことになったのである。



 元亀二(1571)年になると、信玄は遠州侵攻の兵をおこした。 二月に駿河の田中城(藤枝市)に至り、大井川を越えて能満寺(のうまんじ)城(榛原郡吉田町)をきずいた。

 







 ついで三月には高天神城(小笠郡大東町)を攻めたが、これは小笠原貞頼(さだより)らがよくささえたため、信玄は攻略をあきらめて天竜川沿いに信州伊那方面へ去っていった。







 家康は「高天神において甲斐方人数寄せ来る所、各々加勢比類なき故、敵相違なく追い出し、感じせしめ候」と、小笠原氏らの戦功を賞している。 信玄は四月から五月にかけて、さらに三河の各地に侵入したが、やがて甲州へと引きあげていった。

 信玄の本格的な軍事行動は、翌元亀三年十月からはじまった。前年末に、北条氏康をついだ氏政が、上杉謙信と絶ち信玄と同盟を結んだことは、信玄にとって背後の脅威がのぞかれたことを意味した。

 かくして、一切の準備をととのえた信玄は、大軍を率いて西上の途についたのである。

 信玄が率いる本隊は、信州伊那より天竜川をくだって遠州周智郡にはいり、山県昌景(まさかげ)の別働隊は東三河にむかい、浜松にいる家康の背後をおびやかした。

 他方、家康は三・遠の兵を集めてこれを迎え撃つ態勢をとり、十一月下旬には信長からの援軍も浜松に着いた。 信玄は十二月十九日に二俣城(天竜市)を攻略し、久野城(袋井市)にせまった。

 そして、二十二日に三方ケ原(浜松市)で両軍主力が激突するが、衆寡(しゅうか)敵せず、かつ信玄の巧みな戦法もあり、家康はまさに一蹴され、かろうじて浜松城に逃げ帰ったのである。



 信玄はきっそく越前の朝倉義景に、「よって去る廿、遠州見方原において一戦を遂げ、三・遠両国の凶徒並びに岐阜の加勢の衆悉く討ち捕り、存分の如く本意を達し候」と戦勝を報じている。

 きたえぬかれた騎馬隊を中心とする武田氏の軍団は、円熟した信玄の指揮のもと、おそらく野戦では当時最強であったといってよい。

 家康にとっては生涯に二度とない大敗北ではあったが、この敗戦から学ぶことは多かったであろう。 また、やぶれたとはいえ、敢然として信玄にいどんだ家康の名は高まり、「海道一番の弓取り」といわれるようになるのも、このころからのことであった。

 ところで、信玄はその後東三河にはいり、菅沼定盈(さだみつ)が守備する野田城(愛知県新城市)を攻めたが、陣中で持病の肺患がおこったという。 そして、三月にふたたび行動を開始したところ病状が悪化し、やむなく帰国する途中、四月に信州伊那郡駒場で没してしまった。 享年五三歳であった。



 高天神城の攻防

この武田信玄の死は、各方面に大きな影響をあたえたが、とりわけ将軍足利義昭本願寺光佐(こうさ)、朝倉義景浅井長政など、畿内を中心とする反信長勢力を落胆させた。

逆に信長にとっては、当面する最大の脅威がのぞかれたということであり、これ以後その統一事業は急速に進んだ。

七月に改元があって天正元(1573)年となるが、同月に、将軍義昭が宇治槇島(まきしま)に挙兵し、信長に追放されて室町幕府は名実ともに滅亡した。 翌八月には、朝倉・浅井の両氏も滅ぼされてしまった。

 他方、家康は三方ケ原の敗戦にもかかわらず、信玄の死を知るとただちに行動を開始し、五月には駿河に侵攻し、駿府城外にまでせまったという。

 六月以降は北遠から三河にむかい、七月になると長篠城への攻撃を開始した。 そして、作手(つくで)城の奥平氏が帰服してきたこともあり、九月には長篠城を落としたのである。



 長篠は東三河北辺の要衝であり、これを攻略したことは家康にとって大きな収穫であった。





 ところが、信玄の跡をついだ勝頼はなかなかの勇将で、翌天正二年になると、遠州への攻勢が激しくなった。 五月には高天神城を囲み、一カ月でこれをくだしたのである。

 高天神城の守将は小笠原与八郎氏助(うじすけ)(のち弾正少弼信輿(しょうひつのぶおき))であったが、家康の援軍を待ちきれずに、武田方にくだったのであった。 家康を支援するため六月十七日に吉田城まで来ていた信長・信忠父子も帰陣を余儀なくされ、信忠は某氏に、「高天神城今少し相抱えざるによりて、行(てだて)及ぼす候、無念に候」と伝えている。

 高天神城は中遠地方の戦略上の要地であり、家康にとっては、遠州経略の障害になったというだけでなく、浜松をおびやかされる拠点をきずかれたに等しい結果となった。

 はたせるかな、勝頼は同年九月に浜松城をせめるべく、二万の軍勢を率いて天竜川にまで至った。 家康もこれに対峙したが、連日の大雨で水かさが増していたこともあり、勝頼がそれ以上の進撃をあきらめたので、やっと愁眉を開くことができた。

 明けて天正三年は、家康と勝頼とのまさに明暗を分ける年となった。 この年五月、勝頼は15000の軍勢をもって、長篠城を奪還すべく三河にはいった。

 家康は8000の兵を率いて救援にむかい、信長も30000の大軍をもって来援した。そして、六月二十一日に長篠城の西方約4Kmにある設楽原(したらがはら)で、織田・徳川両軍と武田勢との決戦、いわゆる長篠の合戦が行われたのである。







 よく知られているように、この合戦では3000挺ともいわれた鉄砲隊の威力がめざましく、突撃を繰り返す武田の騎馬隊を庄倒した。 武田勢は山県昌景馬場信春ら歴戦の勇将多数が討ち死にし、信玄以来勇名を馳せた武田軍団は、まさに壊滅的な打撃をうけたのである。

 勝頼はこの大敗にもかかわらずなおよくささえたが、家康方の優位はしだいに決定的となっていった。



 同年八月に諏訪原城(榛原郡金谷町)を落として、これを牧野城と改称した。 十二月には二俣城、翌天正四年には天野氏の犬居城も攻略し、遠州における武田氏の主要な拠点は高天神城のみとなった。

 高天神城をめぐる両者の攻防はこのあとも続いたが、天正九年三月になって、孤立無援の状況の下でついに陥落した。 そして翌天正十年三月には、織田・徳川連合軍の甲斐への侵攻により、武田氏も滅亡した。



高天神城



 高天神(たかてんじん)城は中遠地方の戦略上の要地であり、標高132m鶴翁山(かくおうざん)とよばれる山を中心にして、いくつかの尾根や急斜面を巧みに利用して構築された山城である。

 この高天神城址は、現在の小笠郡大東町土方にあり、昭和五十(1975)年に国指定史跡となり、近年整備が進んでおり、あらたな発掘調査も始まっている。

 比高は104m、東西550m・南北360mといわれ、東の峰に本郭・二の曲輪・三の丸、西の峰に西の丸・二の丸を配した連郭式の山城であった。

 東の峰は本郭北から南にかけて険しい渓谷が連なり、とくに本郭東側は絶壁となっていた。 的場(まとぼ)曲輪は搦手(からめて)から侵入する敵にそなえたものであった。

 西の丸を主郭とする西の峰は、東の峰よりやや高く、高天神社がまつられている。 ここでも堂の尾曲輪の東側は絶壁となり、天然の要害であった。 ただ、全体としてみると西の峰が弱く、二度にわたる攻防戦で、西の丸の敗退が落城につながったといわれている(『日本城郭大系』 9)。

 本文でも述べたように、高天神城は天正年間(1573〜92)に、遠州の支配をめぐる徳川・武田両氏の攻防の象徴ともなった。

 まず天正二(1574)年に武田勝頼がこれを囲んで猛攻し、守将小笠原与八郎氏助(はちろううじすけ)(のち弾正少弼信興(だんじょうしょうひつのぶおき))は家康の援軍が遅れたため降伏してしまった。

 小笠原氏助はそのまま勝頼から高天神城をあずけられたが、やがて横田平松に変わり、さらに岡部丹波守長教(ながのり)となった。

 ところで、浜松に居城をおく徳川氏に対抗して、遠く甲斐に本拠をおく武田氏が、どうして七年ものあいだ敵地にある高天神城をもちこたえたのであろうか。

 高天神城自体は、天然の要害ともいわれているが、さして高い山城でもなく、広大な城城をもっていたわけでもなかった。

 それはひとえに、甲州からの支援、それもたびたびにわたる勝頼自身の遠州出陣があったからこそである。

 天正九年には、勝頼は北条氏と対決していて、その頼みの援軍は来なかった。 まさに孤立無援の状況になり、守将岡部長教始め城兵らがいっせいに討ってでて、700人あまりが討たれて落城したのであった。







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