徳川氏の5カ国支配
       

 徳川氏の五カ国支配

天正十(1582)年は、家康にとっては後年の飛躍につながる大きな画期になった年であった。 三月に長年の宿敵武田氏を滅亡させ、家康は信長からあらたに駿河一国をあたえられた。ついで六月にはいわゆる本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、当時泉州堺にあった家康は急遽伊賀越えで岡崎城に戻り、その後は甲斐・信濃両国の平定にむかった。

 こうして天正十年には、家康の領国はそれまでの三河・遠江に加えて、駿河・甲斐・南信濃へと大きく拡大し、五カ国を領有する有力大名にのしあがったのである。

 そして、それは単に領土が拡大したという以上に、家臣団の再編・充実という面でも意義が大きかった。 すなわち、徳川氏の家臣団は三河以来の譜代衆に加えて、遠州侵攻と今川氏の滅亡をつうじて今川旧臣が多数吸収された。 そして今回は、甲斐の武田旧臣が多数組み込まれたのである。

 この武田旧臣を吸収したことの意義は、第一に、武田旧臣の多くが井伊直政に付属させられたように、徳川氏の旗本軍団に編成されることによって、直轄軍事力の強化をもたらしたことである。

 第二に、武田旧臣のなかには武田蔵前衆もかなり含まれていて、これらいわゆる地方巧者は甲州系代官として、こののち近世をつうじて地方支配の面で重要な役割を果たすことになったのである。

 他方、秀吉は天正十一年四月に柴田勝家を討つことによって、名実ともに信長の後継者としての地位を確立した。 そして大坂城をきずいてこれを居城とし、天下統一の事業にのりだしたのである。



 家康と秀吉とは、当初は一応の友好関係を保っていたが、秀吉と織田信雄との対立から、翌天正十二年三月に秀吉と信雄・家康連合軍とが尾張平野で対決する、いわゆる小牧・長久手の会戦となった。これは両軍主力の激突には至らず、秀吉・信雄間に和議が成立して、年末にはそれぞれ兵をおさめた。



 その後は秀吉の政治力によって、両者の力関係はしだいに秀吉優位へと変わっていった。 秀吉は天正十三年七月に従一位関白に叙任され、天下人としての地位を固めていった。天正十四年になると、秀吉は家康に妹の朝日姫をすすめ、五月に浜松で祝言をあげた。

 それでもなお家康が服しなかったので、十月には朝日姫を見舞うという名目で、生母大政所を岡崎に送った。 ここに至って家康もついに折れ、二十七日に大坂城で対面し、臣従することになったのである。

 ところで、五カ国を領有することになった家康は、みずからの領国内でどのような支配を行っていたのであろうか。 ここで二、三の点についてみておきたい。

 第一に、交通政策であるが、家康は戦国大名の伝馬制度を踏襲し、とくに駿府から岡崎に至る街道沿いの宿中や問屋に対して、伝馬や人足を整備するよう命じている。

 第二に、領国内の諸職人については、特権をあたえて保護しながら、統制を強めていった。石切市右衛門に対しては、天正十一年に屋敷などを安堵しながら、「駿国中石切大工たるべく候」として、駿河の石切を統轄させている。 天正十五年には遠州森の七郎左衛門を、「駿・遠両国鋳物師惣大工職」に任命し、諸役を免除しながら、両国鋳物師を統轄させている。

 第三に、寺社の支配としては、可睡斎(袋井市)の事例のみをあげておこう。 家康は天正十一年に、「三河・遠江・駿河井伊豆国、右四箇国の僧録たるの上は、曹洞の寺院支配いたすべきものなり」(『静岡児史』資料編8)として、可睡斉の鳳山等膳(ほうざんとうぜん)を四カ国の僧録(そうろく)に任命したのである。

 この特権付与によって、可睡斎はこののち近世をつうじて、四カ国の曹洞宗寺院を統轄することになったのである。




 五カ国総検地の施行

 徳川氏の領国支配で最大の施策は、天正十七(1589)年から翌年にかけて行われた五カ国総検地であった。 これは臣従したとはいえ豊臣政権と緊張関係にあるという状況の下で、また小田原北条氏の動静をにらみながら、徳川氏がみずからの領国内の土地と人との全面的な掌握をはかろうとしたものであった (本多隆成『近世初期社会の基礎構造』)。

 この総検地と密接にかかわって、天正十七年七月七日から領国支配の統一基準として交布されたのが、「七ヵ条定書」であった。家康の「福徳」という朱印が捺され、20人におよぶ奉者によって各郷村に交布されたのである。『静岡県史』資料編8には、遠江・駿河にだされたものが158点収録されているが、それ以外のものも含めて、これを奉者別に集計したのが下表である。そのほかでは、三河が25点、甲斐が14点で、信濃からはいまだ一点も発見されていないので、交布されなかった可能性が高い。

 内容についてみると、年貢に関するものが第一条・第六条、夫役に関するものが第二条・第四条・第五条となっており、小田原攻めという非常事態を迎える可能性が強まるなかで、夫役にかかわる条項の比重が高い。

 第二条では、「陣夫は、百俵に壱疋一人充これを出すべし」とあり、端的に陣夫の規定がみられるのである。







 さて、五カ国総検地であるが、第一に、この総検地はともかくも五カ国にわたる徳川氏の領国検地であったことが評価される。 しかも、それは原則として、「七ヵ条定書」の奉者でもあった徳川氏の直属奉行衆によって、郷村単位で行われたものであった。

 たとえば、遠州三岳村(引佐郡引佐町)の場合、上表によれば、鈴木・近藤・菅沼の三給人(きゆうにん)の給地ごとに検地が行われたようにみえるが、実際は原田種雄が検地奉行となり、三岳村の一村検地として実施されたと考えられる。

 第二に、この総検地では、村単位で一筆ごとに品位・地積・田畑の別・名請人(耕作者)が確定されたのであるから、給人知行地・寺社領を始め、領国内の全所領・諸得分の把握が格段に進んだ。

 また、知行制の統一基準として俵高制が採用され、それに基づいて、改めて知行地や寺社領の安堵・宛行・寄進が行われた。 さらに、各郷村に対しては、総検地をふまえて年貢目録が交付され、年貢目録の内訳を示した上表の各郷村の末尾にある「此取俵合」にみられるように、俵高による年貢高が確定された。

 第三に、名請人の性格についていえば、彼らはみずからの屋敷地の周辺に集中して耕地を保有していて、基本的にこれを直接耕作農民としてとらえることが可能である。

 他方、給人についてみると、経営の実態がとぼしく、三岳村では上表のようにその給地は一対一対二などとなっていて、検地後に得分関係がしかるべく配分されたものと考えられる。 また、有力農民を被官化するようなことはみられず、いずれにしても、給人層の在地からの離脱が確実に進行していた。

 以上のような諸特質からすれば、この総検地は、丈量単位が一反=360歩(太閤検地で300歩となる)、小割もなお大・半・小制(太閤検地では町反畝歩制の畝)の旧制であり、石高制が採用されていないという面はあるが、内容的には太閤検地に近いものといえよう。

 その意味で、この五カ国総検地は、三河・遠江・駿河などの諸国では、近世社会への転換の大きな画期になったと考えられるのである。


3 豊臣系大名の時代

 小田原攻め

 豊臣政権による四国平定以降のいわゆる天下統一政策について、藤木久志氏はあらたな見方を提唱された。

 すなわち、その統一事業は、戦国大名の交戦権を否定し、戦争の原因となった領土紛争は、豊臣政権の裁判権によって平和的に解決することを基調として進められたとし、そのような政策基調・私戦禁止令を「惣無事」令と概念化されたのである(藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』)。

 この「惣無事」令の執行過程をもう少しわかりやすく述べると、

(1)まず紛争の当事者に対して停戦令がだされる、

(2)ついで双方がそれを受諾すれば、豊臣政権による国分けの裁定がくだされる、

(3)それを当事者双方がうけいれればその時点で決着をみることになるが、もし裁定にしたがわなかった場合は、平和侵害の罪により誅伐・成敗の対象にする、というものであった。

 天正十五(1587)年に島津氏を屈服させて九州を平定した秀吉は、引きつづき関東・奥羽の平定を本格的に進めることになった。 その「関東惣無事」令の主たる対象は、小田原の北条氏であった。

 当初は「家康成敗」を想定した関東出馬計画もあったが、天正十四年に家康との関係が改善されるにつれて局面は大きく変わり、家康を中心に「関東惣無事」令を執行する体制へと転換したのである。

 すなわち、天正十四年十月に家康が上洛して秀吉に臣従したのをうけて、十一月初めに「関東惣無事」令がだされたと考えられる。 そして、北条氏と信州上田の真田氏とのあいだに、上野沼田領をめぐる紛争があったが、「惣無事」令が発せられたことでこれは私戦とみなされることになったのである。

 家康は十一月十五日付けで北条氏政にあてて書状をだし、「関東惣無事の儀につきて、羽柴方よりかくの如く申し来たり候。その趣先書に申し入れ候の間、只今朝比奈弥太郎に持たせ、御披見のためこれを進め候。 よくよく御勘弁を遂げられ、御報示し預かるべく候」と伝えている。

 家康の次女督姫は北条氏政の息氏直に嫁していて、両氏は縁戚関係にあったため、こののち家康は氏政・氏直父子に対してたびたび上洛するよう説得したが、氏政らは応じょうとしなかった。

 それでも天正十六年八月になって、やっと氏政の弟氏規(うじのり)が上洛したため、秀吉は北条氏が「惣無事」令を受諾したものとみなした。

 こうして、「惣無事」令はつぎの段階にはいり、豊臣政権による裁定がくだされることになったのである。

 その基本的な内容は、

(1)真田氏が押さえている沼田領の三分の二は、沼田城とともに北条方に割譲すること、
(2)残る三分の一は、そのなかにある城も含めて真田方に安堵すること、畑真田方が失った割譲分の替地は、徳川氏が補償すること、

 以上であった。

 北条氏はこの三分の二という裁定に不服であったが、天正十七年六月になってやむなくこれをうけいれ、半年後には隠居の氏政を上洛させると約束した。

 これをうけて、豊臣方は翌七月に裁定の執行を行い、北条・真田両氏間の紛争は決着をみたかと思われた。 ところが、十一月三日に家康のもとに、北条方が沼田領真田方の名胡桃(なぐるみ)城を奪取したとの連絡がはいった。

 これはあさらかに豊臣裁定に対する侵害であり、秀吉の怒りは激しく、加えて、氏政が上洛しなかったこともあり、ついに北条氏の誅伐にふみきることになったのである。

 家康は隣国であり、九州攻めでは従軍をまぬがれたこともあり、今回は他国にくらべてもっとも重い軍役を負担し、およそ三万人の軍勢で二月十日に出陣した。

 秀吉も三月一日に進発し、十九日に駿府、二十七日には沼津に着いた。 そして、二十九日に北条方の西の前衛線である山中城と韮山城とに対する攻撃を開始した。山中城はあっけなく即日落城し、豊臣軍は小田原にむけて順調に進軍した。

 小田原に龍城した北条軍は、豊臣軍の実力をまったく見誤っていたといわなければならない。 小田原攻めの総勢は20万ともいわれており、そのような大軍が、しかも豊富な補給物資をもって攻め込んできたのである。



 四月から六月にかけて北条方の諸城はあいついで落城し、七月五日に至って氏直もついに開城した。 秀吉は氏直を高野山に追放し、氏政・氏照と老臣二人に自決を命じ、これによって早雲以来五代にわたって関東に雄飛した北条氏も滅亡したのである。


 豊臣系大名の入部

 小田原の北条氏が滅亡すると、その旧領は秀吉の命により家康にあたえられた。 そして、家康の旧領には、当初尾張・伊勢の領主であった織田信雄が封ぜられるはずであった。

 ところが、信雄は父祖以来の地をそのまま領有したいとのぞんだため、秀吉の怒りをかって改易されてしまった。 そのため、三河・遠江・駿河などの家康旧領には、豊臣系大名がいっせいに配置されることになったのである。

 このとき遠江・駿河の両国に配置された大名は、下表にみられるごとくである。 これらの諸大名は、松下氏はやや性格を異にするが、ほかはいずれも早くから秀吉につかえた武将たちであり、豊臣政権に臣従していたとはいえ、関東の家康への備えという意味もあったのである。



 ところで、これら東海地域に配された諸大名の多くは、秀吉の甥で関白となった秀次付きであった。 そのため、朝鮮出兵のさいにも渡海することなく、秀次に属して主として畿内の警護などに動員されたのであった。 ただ、のちに秀次事件がおこったときには、渡瀬氏のようにこれに連座して改易されるようなこともあった。

 これまで、東海地域の豊臣系大名支配の時期の研究が遅れていたのは、関係史料がはなはだとぼしかったからである。

 その原因としては、これらの諸大名は関ケ原の会戦後いずれも遠隔地へ転封させられ、支配の期間がわずか10年間と短かったことがあげられる。 しかも、堀尾氏や中村氏などは、二、三代のあいだに無嗣(むし)断絶(跡継ぎがいなかったために取りつぶされること)とされたため、いっそう史料が残らなくなったのである。

 さいわい山内氏の場合は幕末まで続き、戦前に家史の編纂も行われたため、掛川在城時代の史料も比較的残されることになった。

 現在これらの史料は、山内家史料『第一代一豊公妃』として刊行されている。 また中村氏の場合は、断絶したとはいえ駿河領国内に発給した史料がある程度残されていて、これまた戦前に編集された 『静岡県史料』におさめられている。

   

 これに、平成十二九九人)年三月に終了する静岡県史編纂事業の過程であらたに発見された若干の史料が加わる。 そのため、以下に述べる豊臣系大名治下の問題は、山内氏と中村氏の領国を中心とせざるをえないのである。
 山内一豊は、越前朝倉攻めの功ではじめて近江で400石をあたえられ、以後戦功によりしだいに加増され、天正十三(1585)年には二万石で近江長浜城主となった。

 同十五年には、正五位下・対馬守に叙任されている。 同十八年の掛川入城に際しては、九月二十日付けの豊臣秀吉領知朱印状によって、相良・榛原で三万石、佐野郡内で二万石、あわせて五万石があてがわれた。

 また十月には、隣接する周智郡一宮付近の豊臣氏歳入地(くらいりち)一万石余の管理も命ぜられた。 そののち伊勢国鈴鹿郡内で1000石、秀次事件後右の蔵人地から8000石と二度加増があり、最終的には都合59000石を領有したのである。

 中村一氏(かずうじ)も早くから秀吉につかえ、天正十二年には和泉岸和田城主となっている。 これは根来(ねごろ)・雑賀(さいか)などの紀州一揆にそなえるためであったといわれていて、武将としての力量を評価されてのことであった。

             

 小田原攻めではとくに山中城攻略で戦功をあげ、駿河一国をあてがわれて府中城にはいった。 秀吉の領知朱印状が残されていないので、その正確な月日ははっきりしないが、入部後まもなく、一氏は領国内の要衝に一族や重臣を配して、支配体制をととのえた。

 すなわち、東では三枚橋城(沼津市)に弟の中村氏次(うじつぐ)、興国寺城(同)に河毛重次(かわげしげつぐ)を、西では田中城(藤枝市)に横田内膳正村詮(しょうむらあきら)をおいたのである。


 太閤検地の施行

 近世社会成立期の諸検地は、日本前近代の土地制度のうえで重要な役割を果たしたのであるが、なかでも、太閤検地はもっとも著名な施策の一つであった。

 遠江や駿河においても、豊臣系大名であったため、それぞれの領国単位で基本的に太閤検地の原則に基づく検地が実施された(本多隆成『近世初期社会の基礎構造』)。

 すなわち、遠江では山内氏が文禄二(1593)年、有馬氏は慶長四(1599)年、堀尾氏は文禄四年と慶長四年、駿河の中村氏は天正十八(1590)年と慶長四年であった。

 そして、これまでに確認されている両国の太閤検地帳は、『静岡県史』資料編10解説の第2表にみられるように51点にものぼっているのである。

 ここでは、以下山内氏の掛川領検地と、中村氏の駿河領国検地を中心に、その基本的な性格についてみてみることとしたい。

 文禄二年に山内氏の領国内で行われた太閤検地については、現在検地帳が確認されるのは五力村分にとどまる。しかしながら、さいわい『一豊公紀』のなかに「検地高目録」が残されていて、この太閤検地によって把握された山内氏の領知村々全村の村高を知ることができる。

 それによると、村名不明の三力村分の高をのぞくと、総計169力村、58132石余となっていて、検地結果の総村高=内高は、秀吉からあてがわれた朱印石高=表高をかなり上まわっている。

 ところで、山内氏検地の検地帳について、たとえば仁田村(榛原郡榛原町)検地帳の記載内容をみると、いわゆる太閤検地帳の原則とはやや違った特色がみられる。

 すなわち、基本的に一筆ごとの間数(けんすう)や分米(ぶんまい)記載がみられないこと、逆にかなりの筆に分付(ぶんづけ)記載がみられることである。 また、仁田村の検地帳を集計した上表にみられるように、田島の品位は三等級であり、さらに石盛(こくもり)も相対的に低いことである。

そのような特色があるとはいえ、この山内氏検地は、やはり近世社会成立期の太閤検地として、重要な意義をもつ。 その点をもっとも明確に示すのは、山内氏の領国下の村々では、この文禄二年の太閤検地によって、基本的に近世の村高が確定されたと考えられるからである。

 

 たとえば、仁田村についてみると、上表より検地結果の分米総計は355石3斗7升5合5才であるが、これは「検地高目録」の仁田村の村高「352石5斗1升」と、ほぼ一致している。

 しかもこの村高は、のちの「正保郷帳」の「高352石5斗2升」や「元禄郷帳」の「高350石8斗3升」ともほぼ一致していることである。

 この点をさらに明確にするために、慶長二年の年貢納入状況を示す「勘定免目録」や近世初期の年貢割付状が残されている村々について、「正保郷帳」や「元禄郷帳」の村高をもあわせてまとめたのが下表である。



 これによると、佐野郡平野村・領家村(掛川市)では、「検地高目録」の村高は、慶長二年の「勘定免目録」の高と完全に一致しているのであるから、文禄二年の山内検地で把握された村高は、慶長二年の年貢収納にあたって、年貢賦課基準として現実に機能していたことを示している。

 他方、初期の年貢割付状との関連でみると、慶長九年に遠州総検地があったにもかかわらず、榛原郡藤守村(大井川町)・橋柄(はしがら)村(榛原町)などでは、「検地高目録」の村高が、元和・寛永期(1615〜44)の年貢割付状から「正保郷帳」まで、ほぼ一致していることが注目される。

 このような意味で、山内氏の領国下の村々では、この太閤検地によって基本的に近世の村高が確定されたといえるのである。

 なお、飯淵新田(はぶちしんでん)(志太郡大井川町)の村高が寛永年間に激減しているのは、洪水の影響によるものである。 同村は大井川左岸の最下流城に位置しているため、この間二度の大洪水で、壊滅的な打撃をうけたことを示している。

 つぎに中村氏の駿河領国検地についてであるが、天正十八年と慶長四年の二度実施された。 しかし前者は入部まもない新領主に指出されたもので、はたして独自の検地が施行されたかどうか疑わしい。 これに対して後者は、領国内の一斉検地であり、内容的にもまさに太閤検地であった。 ここでは、両度の検地帳がともに残されている庵原郡清見寺領承源寺村(清水市)の検地について、その内容の比較・検討を行うこととしたい。

 まず、両度の検地帳の田畑の内訳を示すと、上表のごとくである。 これより、第一に、筆数・地積がともに増加しており、隠田の摘発や新開発地の把握など、慶長四年検地の方がより厳密になっていることがあさらかである。

 第二に、田畑の品位についてみると、慶長四年には上々田・上々畑が出現するとともに、上畑・中畑の石盛が、それぞれ一斗ずつ引きあげられていることである。 しかも、上々田は八二%、上々畑は七一%となっており、田畑の格付けが格段に高くなっているのである。 居屋敷のみは逆にさがっているが、その事情は不明である。

 第三に、このように、慶長四年検地では、田畑ともに位があがって高斗代になったため、地積は約一・二倍の増加であったにもかかわらず、分米は約一・六倍となり、大幅な石高の打出し、収奪の強化が行われているのである。

 このような慶長四年検地をふまえて、清見寺は八月に横田村詮から「所付之覚」という寺領日録をくだされ、改めて寺領の安堵を行われたのであった。 ほかの寺社についても同様で、その意味でも太閤検地の意義は大きかったのである。


 領国支配の展開

 東海地域における豊臣系大名の支配は、わずか10年間にすぎなかったとはいえ、すでに述べた太閤検地を始め、幕藩制下にもつながる重要な施策がいくつかみられた。ここではそれらのすべてについて述べるわけにはいかないので、とくに重要な二、三の点についてみておくこととしよう。

 まず、寺社領の寄進・安堵ということであるが、いうまでもなく、各地の寺社はそれぞれの地域で領主の帰依や住民の信仰の対象として、長年にわたり在地に根付いてきたものである。

 そのため、いつの時代にあっても、各種領主の保護と統制をうけることが多かった。 遠江・駿河では、天正十八(1590)年八月に家康が関東に転封したのち、当初、秀吉から直接寺社領寄進の朱印状が下付された。 そのおもなものをまとめると、下表のごとくである。

  

 この表からあさらかなように、秀吉の寺社領寄進・安堵は十二月二十六日、とくに二十八日にいっせいに行われたものであった。 ただこれら一連の寄進は、まったくあらたな寄進ということではなく、それ以前から各種領主によって保障されてきた寺社領が、改めて石高制の原理に基づいて安堵されたという性格が強かった。

 その領主とは、五カ国領有時代の徳川氏であり、さらにさかのぼれば戦国大名今川氏や武田氏であった。

 秀吉段階での新しさは、石高制による寄進であり、しかも、太閤検地によって確認を行うというところにあった。 さらに、この秀吉朱印状による各寺社領の石高が、基本的にそのまま幕藩制下にうけつがれたことが重要である。

 たとえば、遠州法多山領についてみると、秀吉朱印状の寺領205石が、慶長七年十二月十日付けで内大臣(家康)の朱印状で寄進され、以後歴代の将軍によってそのまま安堵されているのである。 なお、遠江・駿河では、この後は基本的に直接秀吉朱印状によることはなく、各大名の寄進・安堵が行われた。

 つぎに、職人の支配・統制についてみてみよう。戦乱の世にあっては、領内の日常生活のみならず、武具の製作や築城技術の面などでも、諸職人の果たす役割は大きかった。

 そのため、すでに戦国大名が支配した職人の職種はまことに多様であり、50種類を優に超えていた。 当時とくに多かった職人は、番匠(ばんしょう)(大工)と鍛冶であり、それにつぐのが石切や大鋸(おが)(木挽・製材)であったといわれている。

 遠江の事例は必ずしも多くはないが、それでも山内領国下では、天正十九年に森(周智郡森町)の鋳物師大工3人が、重臣福岡忠勝から毎年金屋役銭3貫文を上納することを条件に、その屋敷518坪については従来どおり負担を免除するとされているのである。

 駿河の中村氏の領国では事例がやや多く、天正十九年には「駿州鍛冶衆申しにあてて、国役をつとめる鍛冶衆には諸役が免除され、文禄二 (1593)年には、「大工与右衛門」が知行30石をあたえられ、また「石切市右衛門」が屋敷を安堵されるとともに、領国内の石切を統轄するよう命じられている。

 さらに、慶長四(1599)年には、志都呂(しとろ)(榛原郡金谷町)の焼物師に対し、居屋敷と畠を検地後にも安堵し、かわりに焼き物の上納と同所での居住を義務づけているのである。

 その他、東海道や河川・海上交通などについてもみるべきものはあるが、ここでは一点だけ指摘しておこう。 すなわち、慶長五年二月に横田村詮が岡部宿(志太郡岡部町)の問屋仁藤にあてて、三ヵ条の定書を下している。

 そこでは、
(1)岡部宿の伝馬を使用するには手形が必要であること、
(2)岡部宿より東の丸子宿、酉の藤枝宿への駄賃馬は、いずれも岡部宿でつぎ替えること、
(3)岡部宿に常備すべき伝馬数は21疋であること、

 などとされていて、のちの幕藩制下の宿駅制度に直接つながる整備が進んでいたのである。

 最後に慶長四年の六月から九月にかけて、駿河の各郷村百姓中にあててだされたいわゆる横田内膳正村詮の法度を取りあげたい。 これまでに発見されている村詮法度は41点で、西より志太郡九点・益津郡2点・安倍郡9点・有渡郡1点・庵原郡5点・富士郡6点・駿東郡9点と、まさに駿河全域におよんでいる。

 内容は五ヵ条にわたるが、第一に、太閤検地の結果をふまえた村ごとの免合(めんあい)(年貢率)など、年貢関係の問題は主として第一条・第三条にみられる。

 第二に、夫役関係の問題が重要で、第二・三・四条など、給人=地頭の横暴がいましめられ、百姓の身分や耕作権が保障されていることが注目される。

 第三に、第四条では米と大豆の交換比率や蜜柑・油の木など、流通経済や商品作物に関する規定がある。

 そして最後に、近世的法度の特色としてとくに注目されるのは、第三条・第五条で、紛争などに際して私的な成敗がさびしく否定され、公儀・公方=大名権力の裁きによるべきものとされていることである。

 横田村詮法度にみられる以上のような特色は、中村氏が豊臣政権の諸政策をほぼ忠実に実行しょうとしていたことを示している。 それは他の豊臣系大名の場合も、基本的に同様であったと考えてよい。 それゆえ、豊臣系大名の支配はわずか10年間であったとはいえ、近世社会の成立に果たした意義は大きかったのである。



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