幕藩制の成立

1 徳川支配体制の確立

 近世大名の配置

 慶長三(1598)年八月に豊臣秀吉が死去したあとも、しばらくのあいだは五大老・五奉行を中心とする豊臣政権の権力の枠組みは維持された。 しかしながら、しだいに五大老の筆頭徳川家康の権限が強まってきた。

        

 その流れは、翌年閏三月に五大老の一人で家康とならぶ信望を得ていた前田利家の死と、それに伴う五奉行の中心人物石田三成の近江佐和山城への退去とにより、決定的になっていった。

    

 五大老五奉行という合議体制から、主要な二人が欠けることにより、それ以後、家康は事実上一人で政局の運営にあたることになったのである。

 やがて、慶長五年九月にいわゆる関ケ原の合戦となり、家康の覇権が確立したのであった。 全国の諸大名が東西に分かれ、まさに「天下分け目」の合戦とよぶにふさわしい構図で展開されたが、小早川秀秋が東軍に寝返ったこともあり、合戦自体は九月十五日の一日でおわった。



 会戦後の論功行賞はきびしく、藤野保氏の研究によれば、除封(所領の没収)されたものは88家で416万石余、減封されたものは5家で216万石余であった。

 除封された大名の過半数は近畿・中部のものであり、この地域が豊臣政権の権力基盤であったことを物語っている。 ただ、中部地方に属する駿河・遠江の場合は、豊臣系大名であったにもかかわらず東軍についたため、いずれも戦後大幅な加増をうけている。



 しかし、さきの表にみられるように、久野城の松下氏を例外として、それぞれ遠隔地へと転封されてしまった。

 そのうえで、駿河・遠江など東海地域には、翌慶長六年の二月から三月にかけて、前裏表のごとく、徳川氏の一門や譜代大名がいっせいに配置された。

 没収された600万石余のうち、大部分は関ケ原の会戦で東軍についた豊臣系大名、つまり外様大名の加増分にあてられたが、石高は少ないとはい、え、慶長七年までにあらたに取りたてられて大名になったものは28家におよび、それ以前からの40家を加えると、68家もの一門・譜代大名が配置されたのである。

 とくに、関東から東海・近畿にかけての地域が重視され、家康の子松平忠吉が尾張に、同じく結城秀康が越前に配置された。

 また、徳川四天王とよばれる譜代重臣のうち、井伊直政が石田三成の居城であった近江佐和山に、本多忠勝が伊勢桑名に配置されたように、豊臣系大名の勢力が根強い畿内から西国への押さえを意識したものであった。

 豊臣秀頼は摂河泉(せっかせん)65万石の一大名にすぎなくなったとはいえ、なお豊臣恩顧の諸大名に隠然たる影響力をもっていたのである。

 東海地域の場合も、そのような徳川氏による一門・譜代・外様という大名政策の一環として譜代大名の配置をみたのであり、これによって幕藩体制の大枠ができあがったといえよう。

 慶長八年二月十二日、62歳になった家康は伏見城において待望の将軍宣下をうけた。



 三月二十五日には参内して将軍拝賀の礼を行い、二十七日には二条城に勅使以下を迎えて将軍宣下の賀儀が執り行われた。



 こうして、家康は征夷大将軍として江戸に幕府を開くことになり、豊臣家から独立したあらたな権威を手中にすることによって、名実ともに幕藩体制の成立をみたのである。

 ところが、家康はわずか二年あまりで、この将軍職を子息秀忠にゆずってしまった。 他方、豊臣氏との関係では、この間秀吉の遺言をまもり、孫の千姫を秀頼に嫁がせたりしている。

 しかし、将軍職については世襲することで、政権はあくまで徳川氏が握り続けることを天下に示したのである。 秀頼成人後に政権の移譲を、という豊臣家のわずかな期待は、これによって完全に打ち砕かれてしまった。

 家康は慶長十年二月に上洛して伏見城にはいり、秀忠も三月には16万ともいわれる大軍を率いて、将軍宣下をうけるために上洛した。これは源頼朝の上洛の先例にならったものといわれるが、秀頼とそれを支持する西国諸大名に対する露骨な示威行動であったことはいうまでもない。

 そのうえで朝廷に奏請し、四月十六日に家康の将軍職辞任と、秀忠へのその補任とが勅許されたのである。


 駿府政権の時代

 家康は将軍職を秀忠にゆずると、みずからは大御所として朝廷の官職体系からは自由な立場になり、実権は相変わらず掌握したままで政治を行った。

   

 しばらくは秀忠とともに江戸城にあり、また伏見城にでかけたりすることも多かったが、やがて駿府城を居所とすることにした。 江戸と上方との位置、温暖な気候、それに今川氏の人質時代と五カ国領有時代の二度にわたるなじみの地であったことも、駿府を選ばせたのであろう。

 慶長11(1606)年4月には、駿府城にあった内藤信成を近江長浜へ転封させ、大御所の居城にふさわしい城郭へと、築城普請・改築工事が行われた。

 これに動員されたのは、越前・美濃・尾張・三河・遠江の諸大名であった。 この前後、伏見城・彦根城・江戸城・名古屋城など、諸大名を動員した大規模な築城・改築普請があいついだ。 とくに西国の外様大名の負担が大きかったが、諸大名は幕府への忠誠心を示す必要もあり、きそって普請にはげんだのであった。

 翌慶長十二年三月に、家康は修築途中の駿府城にはいった。 ところがその年の暮れに、築造まもない駿府城天守閣は、失火のため焼失してしまった。

   

 天守閣はただちに再建に着手され、翌十三年八月には五層七重といわれる広壮な天守閣の上棟式が行われたのである。 ただ、大御所家康の在城時に偉容を誇ったこの天守閣も、その後寛永十二(1635)年の駿府城下の火災で焼失してしまい、以後再建されることはなかった。

 この家康の駿府入城に伴って、駿府城下町も大幅な改造が行われた。 いわゆる薩摩土手がきずかれて安倍川の流路が西に替えられ、慶長十四年には彦坂光正らが奉行になって町割が行われたといわれている。

 そして家康の在城時をつうじて、近世駿府城下町の武家地・寺社地・町方(いわゆる駿府九十六力町)の区分がととのっていったのである。



 ところで、大御所家康が駿府で政治を行うようになると、江戸の将軍秀忠とのあいだで、いわゆる二元政治の形をとることになった。 しかも、それぞれ独立した政治機構とスタッフを擁していたのであり、それを簡単にまとめると、下図のごとくであった。

 家康が政治家としてもっとも信頼していた本多正信を秀忠に付け、その子で同じく政治力にすぐれた正純をみずからに付属させた。

 つまり、大御所家康は軍事権・外交権などの実権をにぎるだけでなく、本多正信正純父子をつうじて駿府・江戸両方の政情を掌握していたのである。

 そのため、大御所家康が在城する駿府は、当時の日本の政治のまさに中枢に位置したのであり、駿府政権の時代とよぶにふさわしい販わいをみせていたのである。



 そのころ駿府に立ち寄った外国人の記録によると、当時の駿府の人口は、10万人とも、12万人ともいわれている。

  

 秀忠の江戸政権が幕府固有の問題以外は、その支配が地域的には関東・奥羽方面にかぎられていたのに対し、家康の駿府政権は東海以西を中心に、いわば全国支配を担当していた。

 とくに、慶長年間(1596〜1615)の後半には、本多正純安藤直次成瀬正成村越直吉大久保長安ら駿府奉行衆の連署による発給文書が増加し、その支配は給人への知行宛有(ちぎょうあてがい)、灰吹銀(はいふきぎん)などの貨幣政策、東海道各宿の伝馬賃・宿賃の改訂などの交通政策、城普請や畿内・近国の訴訟問題など、まさに広範な分野にわたっているのである。

 

 また駿府政権下で、駿府町奉行兼駿河・遠江・三河三国の代官でもあった彦坂光正などの活動も注目されるところである(本多隆成「幕藩制成立期の代官と奉行人」 『地方史静岡』 二五号)。

 駿府政権の諸政策について、ここでは紙数の関係でそのすべてについて述べるわけにはいかないが、つぎの二点についてはみておこう。 一つは、外交・貿易関係の問題である。 家康はリーフデ号で漂着したイギリス人ウイリアム=アダムス (三浦按針(あんじん))とオランダ人ヤン=ヨーステン(耶楊子(やようす))を日本にとどめ、海外事情を聞くとともに、外交・貿易関係のいわば顧問にしたのである。

  

 駿府政権とヨーロッパや東南アジア諸国との交流はなかなか盛んで、お互いの国書や来航許可証など、中村孝也氏の『徳川家康文書の研究』に収録されたものだけでも今日かなりの数のものが知られている。

 国書の起草などは金地院崇伝(こんちいんすうでん)らがあたったとはいえ、アダムスたちの果たした役割も大きかったのである。

 今一つは文化事業である。 家康は学問好きで駿府に文庫を建てて金沢文庫の蔵書を移したり、各地から儒書・史書・兵書などを集めさせた。 この任にあたったのは、朱子学者林羅山であった。



 そして、これら駿河文庫の収集資料は、家康の死後御三家にも分けられたが、江戸城内の紅葉山文庫にもおさめられ、今日に伝えられているのである。

 また、駿河版と称される活字印刷も価値が高い。 家康は古典の刊行にも力をいれたが、その大半は上方で行われ、しかも木活字であった。 ところが、晩年になって駿河で銅活字を使った『大蔵一覧集』(だいぞういちらんしゆう)を刊行したのである。 これも林羅山の手になるものであったが、続いて『群書治要』50巻の刊行を命ぜられ、羅山と崇伝がこれにあたったが、完成は家康の死後になってしまった。

  

 いずれにしても、大御所家康の駿府在城時代は、政治的にはもとより、文化的な面においても、駿府はひときわ輝いていたのであった。



彦坂九兵衛光正

 大御所家康の駿府政権時代には、多数の人材を擁していたが、そのなかのひとりに、これまであまりなじみのない彦坂九兵衛光正(ひこさかくへえみつまさ)がいた。

 父八兵衛光成は今川氏の家臣であったが、その後家康につかえることになり、光正も当初は長久手合戦の戦功など、武将として活躍したようである。
 やがてもっぱら地方支配にかかわるようになったが、これは父の従兄弟である代官頭彦坂小刑部(こぎょうぶ)元正の引立てによるもので、元正が総奉行となった伊豆の総検地では、光正は文禄三(1594)年の湯ケ野村・佐我野村(賀茂郡河津町)などの検地を行っている。

 その後、近江・三河・尾張の総検地に関与し、慶長十四(1609)年の駿河総検地では、有渡郡・庵原郡を担当したのであった。

 この慶長十四年は、彦坂光正にとって大きな転機となった年であった。 この年二月に駿府町奉行で駿河の代官でもあった井出正次が死去して、その職務を引きつぐことになったからである。

 駿府町奉行としては、駿府とその周辺の百姓の事件、武士たちの喧嘩刃傷事件などの検断を行い、さらに有馬修理の改易につながる岡本大八事件や大坂の陣の口実となった東福寺清韓事件などの国家的大事件にも関与した。

 代官としては駿河・遠江・三河の民政を担当し、開発の奨励、用水・入会山・交通問題、商人・職人の統制、金山の経営など、その支配はまことに多方面におよんでいる。

 このように駿府政権で重要な役割を果たした彦坂光正は、家康の死後はその遺命により徳川頼宣の付家老となり、元和五(1619)年の和歌山転封にもしたがったのである。






 藩政の確立

 駿府政権の時代は、元和二(1616)年四月に家康が死去することによって終焉を迎えた。 二元政治は解消され、江戸の将軍秀忠のもとに幕府のすべての権限が一元化されたのである。 ただ、駿府あるいは駿府城下町が、それによって一挙にさびれたというわけではなかった。

      

 というのは、家康が駿府城にはいった二年後の慶長十四(1609)年十二月に、十男の徳川頼宣(よりのぶ)が駿河・遠江50万石の大名として入部していたからである。

 頼宣は家康とともに駿府城にあり、家康の死後も50万石の大名として残ったため、駿府政権の時代ほどではないとはいえ、駿府城下町はそれなりの繁栄を示していたのである。

 頼宣はその後まもなく、元和五年七月に紀伊和歌山に55万石で転封し、いわゆる御三家の一つ紀州徳川家の祖となった。 ところが、寛永元(1624)年八月に、将軍家光の弟徳川忠長が駿河・遠江など50万石の大名として駿府城にはいったため、なおしばらくのあいだは城下町も活気があった。

 しかし、寛永九年十月に忠長が改易されると、以後駿府城には大名がおかれることはなく番城となり、駿府の人口は急減していったのである。 武家地の多くは明屋敷となってしまい、駿府政権下で10万とも、12万ともいわれた人口も、2万人を超えることはなくなってしまった

 ところで、駿河・遠江では関ケ原の合戦の翌年、いっせいに譜代大名が配置されて藩政が開始された。 しかし、その後頼宣・忠長の入封により、藩政が中断したところもでてきた。 浜松藩の水野重央(しげなか)は頼宣の付家老であり、掛川藩でも、安藤直次は頼宣の、朝倉宣正は忠長の、それぞれ同じく付家老であった。 そのため、この両国における藩政の本格的な確立は、忠長改易以後であったといってよいだろう。



 表は寛永期までの諸藩の状況であるが、10藩にのぼっている。 その後立藩したものは、駿河では元禄二(1689)年の小島藩と安政四(1857)年の川成島(かわなりじま)藩、遠江では宝永七(1710)年の相良藩がある。

 伊豆の韮山藩を数える場合もあるが、内藤信成は天正十八(1590)年に豊臣政権下の一大名家康から一万石をあてがわれて韮山城にはいったものであり、厳密な意味では幕藩体制下の藩とはいいがたい。

 そして、信成が慶長六年に駿府へ転封して以降は韮山は幕領となり、伊豆には藩が設置されなかったのである。 同じく、幕府滅亡後の明治元(1868)年に立藩された徳川家達(いえさと)の駿府藩と大沢基寿(もとひさ)の堀江藩も、除外して考えるほうがよいだろう。

 こうして、静岡県内の幕藩制下の藩は、駿河で6藩、遠江で7藩、あわせて13藩になるのである。 それにしても、表からもあきらかなように、譜代の小藩が多いとはいえ、藩主の変遷がめまぐるしい。

 同一の家でこれらの藩を転封した場合を一家として数えても、家数は40家を超えるのである。 これらの諸藩において、同一の家系で藩政が行われることが多くなるのは、次章の冒頭で述べるように、ほぼ近世もなかば以降のことであった。


 代官支配の展開

 他方、幕領(幕府の直轄領)の支配は、いうまでもなく代官によって行われた。 伊豆・駿河・遠江でも、各地に代官所(陣屋)がおかれていた。 そのおもなものについては、『静岡県史』資料編9解説の各「代官一覧」でその実態と変遷とがあさらかにされているので、ここでは三国について、要点だけをみておくこととしよう。

 まず伊豆の場合は、三島代官と韮山代官が問題になる。 さきに述べたように、伊豆では幕藩制の当初から藩がおかれなかったため、代官の役割は大きかった。

 井出正次(まさつぐ)が初代三島代官であったが、当初は伊奈忠次(いなただつぐ)らの代官頭もかかわり、複数の小代官たちもいた。 それらが整理され、三島代官による包括的支配へと変わっていったのは、伊奈忠公(ただきみ)が就任した寛永十九(1642)年のことであったといわれている。

 韮山代官は幕末まで江川氏がつとめたが、途中、享保八(1723)年に一時罷免され、宝暦八(1757)年にまた復活するのである。 そして、この宝暦八年の江川氏の韮山代官就任とともに、三島代官所が廃止されたのであった(仲田正之「韮山代官確立過程の諸問題」『近世静岡の研究』)。

   

 これには、元禄十(1697)年の「地方直し」もかかわるようであるが、この点はつぎの旗本領のところで取りあげよう。

 駿河の場合は、駿府紺屋町に代官所があった駿府代官が重要である。 駿河・遠江は、幕藩制の成立期には徳川頼宣ついで同忠長の領国であったため、本格的に代官支配がはじまったのは、忠長が改易された翌寛永十年からであった。

 各地に代官所がおかれ、駿府代官以外では、東から沼津代官・加嶋(かしま)代官・大宮代官・蒲原代官・島田代官などがあった。 しかし、前四者は伊豆と同じく元禄の「地方直し」で廃止され、駿府代官と島田代官に統合されてしまった。

 そして、寛政六(1794)年には島田代官も、駿府代官に統合されたのである(関根省治『近世初期暮領支配の研究』)。

 最後に遠江の場合であるが、ここでは初期には代官頭伊奈忠次が中泉を拠点として遠州支配を担当し、忠次配下の下代が中泉代官として活躍した。 彼らは同一時期に重複して在職しており、かなりの部分が頼宣の領国になってからもそれは変わらなかった。

 やがて元和五(1619)年に頼宣の紀州和歌山への転封により幕領に復すると、中泉代官には中野七蔵が就任し、以後複数の代官がおかれることはなくなった。

 また同年に、遠州幕領の一部は信州伊那の代官宮崎氏の支配をうけることになり、寛永九年には山名郡川井村(袋井市)に陣屋が設けられた。 さらに元禄期には、遠州幕領の一部は三河赤坂代官の支配をもうけたのである (佐藤孝之『近世前期の暮領支配と村落』)。


 旗本領の設定

 旗本とは将軍の直属家臣団であるから、幕領に準ずる性格をもつとはいえ、やはり個別に知行地をあたえられるのであるから、大名領・幕領とならぶ領地であった。 この旗本領の設定では、とりわけ寛永十(1633)年と元禄十(1697)年の「地方直し」の意味が大きかった。

 「地方直し」とは、蔵米取りの旗本に対して地方を知行としてあたえることをいうのである。 元禄の「地方直し」では、元禄十年七月に500俵以上の蔵米取りの旗本に対して知行地をあたえるという法令をだし、翌年からそれを実施したのである。 それによって、幕領と旗本知行地が大幅に入れ替えられたり、関東の所領が東海地域に移されたりした。

 伊豆・駿河・遠江では、とくにこの元禄「地方直し」の影響が大きく、さきに伊豆や駿河で指摘したように、代官の廃止・統合もその一つの現れである。

 すなわち、伊豆の場合でみると、伊豆で「地方直し」をうけた旗本は63人にものぼり、対象となった村は79力村、石高では24000石余となっており、この村数・石高はそれぞれ伊豆全体の29%にあたっている(橋本敬之「伊豆国における『元禄地方直し』の特質」『近世静岡の研究』)。

 このように、元禄「地方直し」で旗本知行地が大幅にふえると、その分だけ幕領が減ることになる。 元禄期(1688〜1704)の駿河、やや遅れて宝暦八(1758)年の伊豆での代官の廃止・統合は、このような幕領の変化が背景にあったのである。

 遠江でも事情は同様で、たとえば、周智郡森町の村々で具体的にみると、元禄の「地方直し」を経た元禄・享保期の領主は、下表のごとくであった。

 近世をつうじて基本的に山間部(北部)の旧三倉村14カ村は幕領、旧天方(あまかた)村7力村は掛川藩領であったが、平野部の旧森町・飯田村・園田村・一宮村に属する村々では、それ以前は大半が幕嶺ないし大名領であったにもかかわらず、旗本領に転化している村々が多いことが知られる。

 遠州でも享保年間(1716〜26)に川井代官所が廃止され、代官所は中泉のみとなったといわれているのも、まさにこのような状況をうけてのものであったといえよう。

 他方で、知行高が相対的に少ない旗本領がふえたことは、結果的に複数の領主を擁するいわゆる相給(あいきゆう)の村々を多数出現させた。 下表でも二給ないし三給がみられるが、ときには五、六給にもおよぶことがあり、地方知行とはいえ、たとえば年貢収納一つとってみても、村方への依存が強まっていった。

 領主支配の面でも、相給に伴うさまざまな問題が生じていて、元禄期以降の豆駿遠の三国は、この面でも豊富な事例を提供しているのである。





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