幕藩制下の村

2 幕藩制下の村と生活

 慶長の総検地

 検地は領国内の村々について、耕地の一筆ごとにその地積を把握し、名請人(耕作者・年貢負担者)を確定するのであるから、領主と農民との双方にとって、もっとも基本的な施策であった。

 すでに駿河・遠江では、初期徳川氏の五カ国総検地、豊臣系大名の太閤検地という重要な検地が実施されていたが、両者とも検地施行後まもなくして領主が交代してしまったため、その成果が定着するまでにはいかなかった。

  

 ところが、慶長九(1604)年の遠州総検地、慶長九年・十四年の駿州総検地は、幕藩制成立まもない時期の総検地で、しかも幕府はその後250年以上にわたって続いたため、近世をつうじて大きな影響をあたえた検地となった。

 伊豆の場合は、家康が関東転封した直後の天正十人(1590)年から慶長三年にかけて総検地が行われ、そのまま引きつづき徳川氏の覇権が確立したこともあって、幕藩制成立後に改めて総検地が行われるということはなかった。

 このため、これら三国の総検地帳は比較的よく残されていて、伊豆で71力村分、駿河で66力村分、遠江では88力村分がこれまでに確認されている(『静岡県史』資料編10解説参照)。 ここではそれらの成果に基づいて、三国の総検地の意義についてみておこう。

 伊豆の場合、天正十八年検地は関東入部まもない徳川氏の検地で、伊奈忠次が検地奉行として実施された。 文禄三(1594)年と慶長三年検地は、両者あわせて伊豆の総検地となっており、彦坂元正によって実施された。 このうち、伊奈検地では、1反=300歩制が採用されたとはいえ、大・半・小の小割、広範な分付記載、田畑等級の不統一、六尺五寸竿の使用など、なおいわゆる旧制が残存していた。

 ところが、後者の彦坂検地では、畝の使用、分付記載の減少、田畑等級の統一、六尺二寸竿の使用などにより、伊豆における近世的な社会体制確立への画期になったと評価されている(高橋廣明「伊豆における近世初期徳川検地に関するノート」『田文協』五集)。

 駿河の慶長九年・同十四年の検地は、主としてつぎのような特色をもっていた(関根省治『近世初期暮領支配の研究』)。

 第一に、両年度あわせて駿河一国の総検地ということであるが、地域的にみると若干の重複があるとはいえ、慶長九年検地は志太郡・益津郡・安倍郡など駿河西部が中心で、また、駿東郡のものは沼津藩の私領検地であった。

 これに対して、慶長十四年検地は有度郡・庵原郡・富士郡・駿東郡というように、駿河東部が中心であった。

 第二に、検地奉行についてみると、慶長九年の志太郡は主として彦坂元正で、一部を同光正が担当し、遠州に近い北部は伊奈忠次であった。 益津郡は彦坂光正のようで、安倍郡は同じく光正のほか、井出正次も加わっていた。 同十四年検地では、主として富士川以西は彦坂光正、以東は伊奈忠次であった。

 第三に、検地帳記載内容の特色としては、慶長九年では、彦坂光正の志太郡谷稲葉村(藤枝市)検地では、徳川検地にしては珍しく一筆ごとの分米記載をもっていること、伊奈検地は北遠と同じ永高制(永楽銭の高表示)で、南遠地方の検地帳と違い、分付記載がほとんどみられないこと、などがあげられる。

 これに対して、慶長十四年検地では、山間部を含めて永高制がみられなくなるが、最大の特色は、彦坂光正奉行の検地帳末尾に、いわゆる夫免(ふめん)(陣夫などをつとめるかわりに、年貢の一部が免除されること)引記載がみられることである。

 同じく、慶長九年の遠州総検地は、主としてつぎのような特色を有していた (本多隆成『近世初期社会の基礎構造』)。

 第一に、総検地とはいえ、北遠地方の西手領・奥山領(ほぼ現在の龍山村・佐久間町・水窪町)の総検地は元和九1623)年であったため、慶長九年には実施されなかった。

 また、横須賀藩領(ほぼ現在の小笠郡)も、慶長四年に有馬氏による太閤検地が全域で実施されたためか、空白地域となっている。

 第二に、総検地施行の奉行人と検地役人の問題がある。 幕領では大部分伊奈忠次が奉行人となり(一部中野七蔵)、その配下の検地役人が原則として四人一組で検地を行っている。 他方、私領については各藩の責任で検地が実施されており、たとえば、掛川藩の場合は松平定勝の領国検地で、検地役人は三人一組となっている。

 第三に、南遠と北遠とでは検地帳の記載方式や内容において、顕著な違いがみられることである。 すなわち、南遠では田地が圧倒的に多く、年貢は米納の石高制であった。 ところが、北遠では畑作が優位で、年貢は原則として金納の永高制となっている。

 いずれにしても、これらの総検地をつうじて、領主と農民の土地所有・保有の関係、年貢・夫役の賦課基準ともなる村高の確定などが行われたのであった。


 年貢・諸役と村請制

 幕藩制下の貢租としては、山野や漁業・商業に課せられる小物成(こものなり)・運上・冥加(みょうが)などもあったが、圧倒的な部分は、検地に基づいて田畑・屋敷にかけられる年貢(本年貢・本途物成(ほんとものなり))であった。

 さらに、広い意味での貢租としては、城郭普請、河川の修築、宿や助郷の人馬役など、各種の課役があった。

 ここでは年貢を中心にみていくが、幕藩制下ではこれらの年貢収取は、検地による村切(むらぎり)(村ごとに耕地を集中すること)を経て成立した村を単位に行われた。

 年貢・諸役は村役人をつうじて村の責任で納入されたのであり、そのような仕組みを村請制とよび、一般に十七世紀なかばごろまでには確立したとみられている。

 ところで、幕藩制下の年貢については、これまで幾多の研究が行われてきて、ほぼ共通の認識になっているような問題も多い。 たとえば、年貢賦課の方法としては、基本的に石盛(こくもり)から石高に対して租率を乗じて年貢高を決める厘取(りんどり)法と、面積に租率を乗じて決める反取(たんどり)法とがあったことである。

 また、実際の年貢徴収に際しては、毎年の豊凶に応じて年貢を算定する検見(けみ)法と、過去数カ年の収穫量を平均して、それを基礎にその後一定期間の租率を定め、特別の場合をのぞき凶年でも変更しない定免(じょうめん)法とがあること、この定免法は、私領で先行して行われていたところもあったが、一般には享保改革で年貢増徴策として採用されたことによって、幕領を始めしだいに普及していったこと、などである。

 これらの点では、豆駿遠三国もほぼ同様の傾向を示しているとはいえ、年貢賦課の問題は地域的な差異もあり、ここでは特徴的な二、三の点についてみておくこととしよう。

 伊豆では、村高といわゆる夫免引処理の問題がある。 慶長期以降の年貢割付状を検討すると、寛永期に大きな変化がみられることである。 すなわち、

第一に、夫免引が消滅し、その高が年貢臆課対象の村高に組み込まれる方針が確定した時期は、寛永二(1625)年であった。

第二に、徴租法が厘取法から反取法へと転換することで、内浦・西浦一帯では、寛永十年がその画期になっていることである。

 徳川氏入部後の関東の徴租法は、当初石高制とともに厘取法で行われたが、寛永中期ごろから反取法がはじまり、とくに寛文・延宝の総検地を契機に反取法に転換する村が多くなったといわれている(川鍋定男「近世前期関東における検地と徽租法」『神奈川県史研究』四二号)。

 伊豆では、まさにこの指摘と同様の傾向を示していたといえよう。

 ところが遠江・駿河では、基本的にそのような反収法への転換というような事態はみられなかった。 ただし、この間題は、遠州では石高制である南遠地方にかかわってくる。



 すなわち、まず遠州総検地直後に発給された伊奈忠次の一連の年貢割付状が注目される。 現在五力村分が確認されており、その田島の品位別斗代をまとめると上表のごとくである。

 この年貢割付状の年貢賦課方式は、それぞれ反別斗代=年貢高が示されていることからもあさらかなように、反取法であった。 しかし、この伊奈忠次の年貢割付状は、いわば年貢目録とでもいうべき怪格のもので、同じ慶長年間の年貢割付状一般についてみると、南遠地方では当初から厘取法であり、しかも近世をつうじて厘取法が一般的であった。

 他方、北遠地方では永高制の検地が行われ、年貢の面でも山間部の特色が明瞭にあらわれている。 第一に、永高利下にあっても、実際の年貢収取は鐚(びた)銭に換算して行われたため、永対鐚の換算比が問題となった。 当初地域によっても変遷があったが、寛文・延宝の総検地以降は、すべて一対四に統一された。

 第二に、年貢として、茶・綿・紬(つむぎ)・桑・楮(こうぞ)など、部分的に現物納が認められることもあった。 しかし、実際には換金上納を要求されることが多く、換金のための在方市として、二俣(天竜市)・森(森町)・山梨(袋井市)・笠井(浜北市)などがあった。



 第三に、山野の領有にかかわって、各種の小物成が「領」単位に賦課された。その種類は、上表にみられるごとくである。

 駿河についてはもはやくわしく述べる余地はないが、平野部は駿東郡などの一部をのぞいて基本的に厘取法であり、山間部は銭納となっている。 また、伊豆と同じく夫免引問題があり、駿河でも、遅くとも寛永三年には夫免引高が村高に取り込まれ、夫免引が消滅しているのである。


 近世村落の構成

 およそ260年余にわたって続いた幕藩制下にあって、近世的な村落体制が確立したのは、一般的に十七世紀後半の寛文・延宝年間(1661〜81)であったといわれている。

 なぜなら、寛文期には関東幕領において、また延宝期には畿内幕領においてそれぞれ総検地が行われ、検地帳の分付記載はなくなり、近世小農民(本百姓)が名請人として広範に登録され、それによって各村落は彼らを中心とする比較的平等な構成をもつ村落体制が確立したと考えられているからである。

 この近世的な村落体制は、領主支配の末端業務をになう村役人たち、いわゆる村方三役によってささえられていた。 名主(庄屋))・組頭・百姓代であるが、このうち中心となる名主は、年貢の納入などをはじめ、村政全般に責任を負っており、就任には領主の認可が必要であった。

 普通は一村一人であったが、相給の村々では領主ごとにおかれたり、そうでなくても複数おかれることもあった。 名称は東国では「名主」、西国では「庄屋」といわれたが、伊豆は「名主」が圧倒的に多く、駿河は「名主」が優位で、逆に遠江では 「庄屋」 が優位となっており、東西の接点にあった三国の状況をよくあらわしている。

 近世の村落体制を考える場合、支配の仕組みとして大きな役割を果たした五人組宗門改(しゅうもんあらため)の制度に触れないわけにはいかない。

        

 五人組制は、寛永十年代(ほぼ1630年代)に全国的規模で確立をみた。その意義は、この時期に一般的に成立する本百姓を中心に構成される近世村落を機構的に掌握し、支配と収奪とを円滑にしようとするところにあった。また、当時の農民たちの不穏・蜂起・強訴・逃散など、あるいは、「不審」者などの反体制的抵抗を抑圧するためのものでもあった。

 他方、宗門改制度と宗門改帳・人別改帳の作成は、キリシタンのみの摘発・発見をめざす段階から、しだいに民衆の宗旨を人別に登録させる段階へと発展していった。

 とくに、寛文四(1664)年に、幕府が諸藩に対して宗門改の専任の役人をおくこと、宗門改を毎年実施することを命じ、旗本知行地などについては、名主・年寄が厳重にこれにあたり、五人組手形をとるように命じた。

 これ以後、宗門改帳が毎年作られるようになり、記載内容なども整備されていったのである。 そして、そのような宗門改帳は、民衆の信仰調査としての意味だけではなく、いわば戸籍原簿ともなったのであった(藤井学「江戸幕府の宗教統制」旧 『岩波講座日本歴史』近世3)。

 豆駿遠三国においても、特色ある五人組帳・宗門改帳がみられるが、その一端は『静岡県史』資料編10に収録されている。 二、三の点についてのみふれると、まず、宗門改帳自体は、村方(むらかた)文書のなかでは比較的よく残されているものである。

 しかし、同一年度の関係資料がほとんどすべて残っている例は意外と少ない。 その点で、時代はやや降るが、城東郡西方村(菊川市)の文化十五(1818)年の資料は貴重である。

 すなわち、宗門改帳としては、本家分が宗旨ごとに作成され、禅宗(50軒)と浄土真宗(3軒)が各一冊、他に柄在家(からざいけ)分(4軒)一冊となっている。

 この別帳とされた柄在家とは、主として掛川藩領でみられるもので、この段階では水呑百姓(無高)が家格として固定されたものと考えられている(松本稔章「掛川藩領における本家と柄在家」『静岡県史研究』八号)。

 さらに関連する帳面としては、過去一年間の出入りを記した「増減帳」、数年前より奉公などにでているものを書きあげた「他国行証文」のほか、「五人組帳」が含まれている。

 一通文書では、「家数書上覚」を始め三点あり、これらによって、この年の西方村における宗門改のほぼ全容を知ることができるのである。

 伊豆では、比較的初期の万治三(1660)年「狩野山中五人組帳」がおもしろい。 前書の条文は42ヵ条で、狩野組(田方郡修善寺町・天城湯ヶ島町)内の村々の五人組の編成がすべて書きあげられていて、かなり広域的にその実態を知ることができる。

 また、安政六(1859)年の「三嶋御神領社家井役人宗門人別改帳」によると、社家であっても浄土宗(男72人・女69人)・禅宗(男31人・女16人)・時宗(男14人・女15人)・法華宗(女3人)などの寺院の旦那になっていて、檀家制度に組み込まれていたことを示している。

 駿河では、とくに牛馬帳が注目される。 いずれも貞享四(1687)年四月の調査によるもので、御厨(みくりや)領(御殿場市)の「長塚村牛馬帳」と「塚原村馬帳」である。 前者は馬五人疋・牛11疋、後者は馬56疋にっいて、それぞれ毛色・馬齢・雄雌・馬主などが書きあげられているのである。

 また、元禄十五(1702)年の駿東郡本宿村(駿東郡長泉町)の「馬犬御改帳」では、いわゆる「生類憐みの令」がだされていた時世を反映してか、犬についても書きあげられている。

       


 村落の四季

 ところで、農業が生産活動の中心であった社会においては、いつの時代でもそうであったが、四季の流れに沿った経営と生活とがみられた。 ここでは、近世前期の東海地域の農業生産状況を伝える『百姓伝記(ひゃくしょうでんき)』(古島敏雄校訂、岩波文庫版)によりながら、当時の村落生活の一端をみてみよう。

   

 『百姓伝記』は、日本の農書のうちでは『清良記(せいりょうき)』についで古いもので、天和年間(1681〜84)に成立した。 著者は不明ながら、正保二(1645)年に三河岡崎藩から遠江横須賀藩五万石の藩主になった本多家を御当家とよんでいるので、本多家ゆかりの武士か村役人層のいずれかと考えられる。

   

 そのため、三河から遠江にかけての記事、とりわけ横須賀藩にかかわる記事が詳細である。 その冒頭巻一は「四季集」となっていて、農村の四季が簡潔に述べられている。

 まず「抑(そもそも)春夏秋冬を四季と云。 一季72日宛(ずつ)なり。 一季72日終りては、18日宛土用(どよう)あり。 4土用の日数72日。



 四季と土用の日数を合て年中360也」ではじまり、最初に伊勢神宮や伊豆の三島神社などで発行された暦について記している。 当時の農民たちは、長年の経験を農事暦によって確かめながら、農作業が遅れることのないように一年を送るのであった。

 

 正月から二月にかけて、春の訪れは早く、立春後、山里に鶯(うぐいす)がはじめて鳴き、土中の虫たちも動きはじめる。 二月になると椿が咲き、やがて桃の花も開く。 ツバメもやって来て、山野辺のヒバリが舞いあがる。

         

 二月も末になると苗代の準備を急ぎ、田を返すことが急になる。 こうして、いよいよ耕作が開始されるのである。

 三月は山も里も花の季節で、こぶし・やまぶき・つつじなどが咲き乱れる。 水中には浮草が生えはじめ、桑の葉が開くころには蚕(かいこ)も孵化(ふか)する。

      

 四月立夏。 ほととぎすが鳴きわたり、草木の若葉が開いて、野山が青くみえるようになる。 卯(う)の花・かきつばた・ぼたん・しゃくやく・いちごなどの花が咲き、麦は収穫期にはいる。 山里にセミが鳴くころになると日も長くなり、もう四月も終わりとなる。 いよいよ早稲(わせ)の田植えがはじまるのである。

         

 田植えは五月が最盛期で、早苗取りを急ぎ、田植え歌をうたいあいながら苗を植えるのである。 五月雨(さみだれ)といって雨がしきりに降り、いわゆる梅雨の季節を迎える。 栗やざくろの花が咲き、若竹に葉がでる。 このころ田植えは真っ最中である。 水辺にはくいながたたき、蛍や蚊もでてくる。 くちなし・ゆり・あじさいなどの花が開き、びわの実が赤らむころ、五月も終わりとなる。

             

 六月は大暑となるが、また冷風がはじめて吹く。 なすび・ささげが盛りとなり、セミがやかましく鳴く。

 この間水田では、草取りが繰り返される。 土用にはいって秋が近くなり、しばしば夕立が降る。
             



 七月、立秋となる。 七日は七夕で、またお盆の行事も行われる。 はぎ・かるかやの穂がでるころ、あわ・きび・ひえ、あるいは早稲大豆・小豆などの収穫がはじまる。 七月も終わりになるころ、早稲の刈入れを急ぐ。

                      

 八月中秋。 大鴻・小雁がはじめて北よりわたり、ツバメは南へ帰る。 モズの鳴く声が高くなる。朝顔・むくげの花が盛りとなり、彼岸花も咲く。 里々にはそばの花が咲き、菜や大根の除草が忙しい。 稲刈りが盛んになり、なお早稲を刈るところもあるが、晩稲(おくて)まで含めると、稲刈りは十月まで続く。

                                

 九月、草木の葉が色づき、水がかれ、諸虫は土中にはいる。 霜がおり、寒風が吹きはじめる。 菊の花に続いて山茶花(さぎんか)が盛りとなり、初冬が近くなり麦まきを急ぐ。

              

 十月、時雨ること多く、

                    

 十一月、冬至で日が短い。 あられ・みぞれが降ることも多く、ときに大雪となる。

               

 十二月、大寒に至る。 霜柱多く立つが、節分が近くなると、十二月もおわる。
                 

 東海地域の平野部の四季は、およそ以上のような流れで繰り返されたのであった。



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