東 海 道

3 東海道交通の整備

 東海道22宿の成立

 東海道にいっせいに近世の宿場が設置されたのは、関ケ原の合戦がおわった翌慶長六(1601)年正月のことであった。 近世東海道の宿場は、一般に「東海道五十三次」とよばれたが、この「五十三次」とは、江戸日本橋を起点として京都へのぼる場合、第一番目の宿が品川で、最後の大津宿が五三番目にあたるため、五三の宿場があったことを意味している。 これを「五十三宿」といわず「五十三次」というのは、街道の物資輸送は原則として宿場ごとに継ぎ送る方式をとっていたため、「五十三継=次」とよばれたのである。 豆駿遠の三国には、このうち実に四割を超える22宿が存在した。 各宿の町並・家数・人別の概要は、下表にみられるごとくである。

 ところで、これらの宿場は慶長六年にすべて設置されたというわけではなかった。 宿場の設置は、「この御朱印なくして、伝馬出すべからざるもの也、よって件の如し」として、駒曳きの「伝馬朱印」で各宿に伝えられた。

 

 ただ、この伝馬朱印状が残されていなくても、同年月の徳川家奉行衆の連署による伝馬定書によっても、上り下りの次宿の記載があって確認できる。



 それらの資料によって、22宿中19宿がこの年に設置されたことが確実である。 残る三宿のうち、白須賀宿は同年の可能性もあり、また岡部宿は翌年には設置されていた。 袋井宿のみはやや遅く、元和二(1616)年となっている。





 東海道の宿間平均距離は二里(約8Km)余であったが、掛川・見附間は四里弱と長かったため、継ぎ送りの負担も大きく、そのほぼ中間地点に袋井宿の開設をみたのであった。 なお、この袋井宿開設文書は、その当時、駿河・遠江50万石の大名であった徳川頼宣の重臣たちの連署状によって命ぜられている。

 各宿場は、開設以前の歴史的背景や地理的状況もあって、まさに大小さまざまであった。 下表は幕末に近い天保期の状況であるが、さすがに駿河府中が大御所家康以来の伝統もあり、ひときわぬきんでていた。





 そのほか、沼津・藤枝・掛川・浜松など、やはり城下町はそもそも町としての規模が大きく、人口も多かった。 そのため、宿の機能は都市的要素の一部を占めているにすぎなかった。 嶋田宿・金谷宿が比較的大きいのは、いうまでもなく大井川徒渉の任務をおっていたからである。



 これに対して、駿河では由比宿・丸子宿、遠江では日坂宿・袋井宿などは規模が小さい。 規模の小さい宿場では、相対的に宿場の生活は宿の機能におうところが多くなる。 たとえば、総家数に対する宿泊施設の割合についてみると、府中の場合はわずか1%余にすぎなかった。 ところが、袋井宿では20%を超えていて、宿場の生活は、まさに旅客の休泊によってささえられていたのである。








 城下町以外の宿場の景観は、一般にきわめて単純な町並みであった。 東海道の場合、ふつうは東西に町並みが広がり、その東西の宿場の出入口の左右には、桝形(ますがた)とよばれる方形の区画があった。

 東西の桝形のあいだが宿場の町並みで、街道をはさんで家屋が続いていた。 たいていはそのなかほどに、間口が広く、奥行きも十分な本陣・脇本陣などの、広壮な建物がみられた。 法度(はっと)・触書(ふれがき)などを掲げた高札場(こうさつば)も、必ず設けられていた。



本陣

 近世宿場の宿泊施設のなかで、その役割をもっともよく示すものは、いうまでもなく本陣であった。 本陣は一般旅行者を休泊させることはなく、大名や公家の休泊に責任をおったのである。

 東海道においても、いわゆる参勤交代が制度化されてしだいに整備され、箱根宿と浜松宿の六軒を最高に、各宿ほぼ二、三軒設置されていた。

 本陣の構造上の特色は、門構えと玄関を有し、内部では「上段の間」が設けられていたことである。 また、外見上も協本陣や、とくに旅籠(はたご)屋とはあさらかに違っており、ふつう建坪は200坪前後あり、宿内ではひときわ広壮な建物であった。



 ところで、大名などが本陣に休泊する場合、それ相当の手続きを必要とした。 まず本陣に対して休泊の意向を伝え、差しっかえないときは本陣は請書を提出する。 ついで先触れを発し、家人は大名の発駕にさきだって現地にでむいて宿割を行い、ほかとの差合(休泊の予定が競合すること)をさけるため関札を掲げたのである。

 参勤交代などの休泊に際しては、大名側と本陣とのあいだで周到な注意を払って準備を進めたが、それでも差合が生ずることはさけられなかった。 それをいかに調整するかは、本陣にとってもなかなかたいへんなことであったが、一応の基準として、第一に公的性格の軽重、第二に契約の順位、が問題とされたようである。

 すなわち、第一の点でいえば、日光例幣使(にっこうれいへいし)など勅使は最優先とされ、ついで御三家が重く、さらに二条・大坂の番衆、最後に一般大名ということであった。

 本陣の経営がたいへんであったのは、建坪200坪前後という大建造物をいかに維持するのかという問題があった。 月に数回の利用のために、つねに十分な態勢で休泊に応じられるよう要求されたのである。 畳の表替えやささやかな修繕でもかなりの経費がかかり、ましてや屋根の葺替えや大規模な修繕となると多額の出費を要した。

 本陣の収入の基本は、諸大名の休泊料であったが、時代がくだるにつれ諸大名の財政が窮迫していき、本陣への休泊料も減少していった。 また、昼休みや小休などでは本陣を使用せず、体面を捨てて宿はずれの茶店などを利用するようなことさえあった。

 そのため、本陣は兼務することも多かった宿の問屋業や、農・商業による副業をいとなんだりもした。 しかし、幕末になって参勤交代制が緩和され、諸大名の休泊が激減すると、本陣の窮乏化は決定的になったのである。





 参勤交代と朝鮮通信使

 ところで、幕府の交通政策を考えると、東海道ではとくに三代将軍家光の寛永年間(1624〜44)が重要な画期となっている。 その二、三の点をみておくと、第一に、寛永三(1626)年の秀忠・家光の上洛、とりわけ寛永十一年(1634年)の家光の大上洛の影響が大きかった。

 このときの随行者は30万人ともいわれており、まさに空前絶後の大行列であった。 これにさきだって、幕府は各宿に継飛脚(つぎぴきやく)給米を支給するが、これは宿場財政の補填策として以後恒常的になった。

 寛永十四(1637)年には島原の乱がおこり、幕府は21万余の大軍を送ることになったが、これも将軍上洛などと同様の影響をあたえた。

 第二に、寛永十二年の武家諸法度改正により、諸大名の参勤交代が制度化されたことである。 すなわち、その後の細目によると、外様大名は東西両地域に分け、在府・在国を毎年四月に交代させ、また譜代大名の交代は大半は六月、そして八月にも分け、とくに関八州(かんはっしゅう)に本拠をおくものは、在府・在国半年ずつで二月・八月の交代であった。

 これによって、諸大名は江戸への参勤か国元への下向か、いずれにしても毎年一度は必ず街道筋をとおることになった。 とりわけ東海道は東海・西国諸大名の通行が多く、以後幕末に至るまで、この参勤交代が近世交通の主要な要素を占めることになったのである。

 第三に、このような交通量の大幅な増大をうけ、寛永十五年にはそれまで36人・36疋であった東海道各宿の常備人馬が、100人・100疋へと大幅に強化されたのである。

 もとより、幕府も各宿に一方的に負担増を強いたわけではなく、寛永十四年には助郷制の前身である助馬令(すけうまれい)をだしたり、寛永十七年には伝馬屋敷の地子(ちし)免除を100疋分に拡大するなど、負担軽減のための施策も行った。

 また、寛永十九年には凶作だったこともあって、伝馬一疋について二俵ずつの宿助成米貸与も行っている。

 こうして、寛永年間には交通制度の拡充・整備がはかられたが、それはまた同時に、宿財政の窮乏化、宿継制度の矛盾拡大の第一歩ともなったのである。

 近世の大通行としては、参勤交代ほど頻繁ではなかったが、朝鮮通信使琉球使節の来朝があった。 前者は将軍の代替わりなどに朝鮮王から派遣された慶賀使であり、12回におよんでいる。



 ただ、このうち通信使が実際に東海道を江戸までくだったのは10回であった。 後者は慶賀使が11回、恩謝使が10回となっている。 朝鮮通信使の場合、500人ほどの大通行になることも多かったが、幕府は国威を誇示する意味からもこれをうけいれ、丁重に過したのである。



 通信使の日本滞在は二カ月ほどであったが、その準備と往復の接待、後始末まで含めると、相当の時間と経費を要した。 沿道の各宿の負担も大きかったが、他方では異文化に接するよい機会ともなったのである(渡辺和敏「朝鮮通信使の通行」『静岡県史研究』九号)。



 また、食事の面でもさまざまなものが供せられていて、食文化の交流という点でも興味深い(市毛弘子「朝鮮通信使の東海道通行」 『東海道交通史の研究』)。


 今切関所と大井川

 東海道の通行を取りあげた場合、欠かせない問題として、今切(いまぎれ)関所と大井川徒渉がある。 今切関所は一般には「新居関所」として知られており、近世の関所のなかでは箱根関所とならんで重要な位置を占めている。 しかし、近世の資料ではほとんど「今切関所」とあるので、ここでもそれにならうこととした。



 今切関所(浜名郡新居町)は、慶長五(1600)年の関ケ原会戦後、西軍の残党取り締まりなどの必要から設置されたといわれている。 そして、徳川頼宣の和歌山転封後の元和五(1619)年九月に、服部政信・政重兄弟が関所奉行に就任することによってあらたな管理体制が成立した。

  

 この関所奉行制は、元禄十五(1702)年閏八月に、開所の管理が三河吉田藩に移管されるまで続いたのである(切池融「今切開所の機能」『東海道交通史の研究』)。

 さきに交通制度上の寛永期の意義について述べたが、関所制度の面でも寛永期は画期となった。 すなわち、寛永二(1625)年八月に、各地の関所の通関規定三ヵ条が定められたことである。

 (1)番所の前で笠・頭巾を脱がせること、(2)乗物の場合は戸を開かせること、(3)大名・公家などで前もって連絡がある場合は改めるにおよばないこと、である。

 そして、この文言は今切関所をのぞいて、幕末まで基本的に変化はなかったのである。

ところが今切関所では、いわゆる由井正雪直後の慶安五(1652)年六月に、関所高札の書換えが行われた。 すなわち、証文のない鉄砲の通過を認めないとする、銭砲条項が追加されたのである。 さらに、正徳元(1172)年五月には、往来の女性は、厳重に証文を点検して通行させるとしたのである。

 こうして、今切関所では「入鉄砲・出女」といわれるように、鉄砲改めと女改めがきびしかったが、女改めでは実際は「出女」だけでなく、江戸へくだる女性も厳重な取調べをうけたのであった。

 つぎに、大井川徒渉についてみてみることとしよう。 近世東海道で徒渉制度をとっていた河川は九カ所あり、東より酒匂川・輿津川・庵原川・安倍川・朝比奈川・瀬戸川・大井川・松野尾川・長沢川であった。

 そのなかでは大井川が一番の難所であったため、川越といえば大井川との認識が広がっていったのである。 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という歌は、実は本歌は「越すに越されぬ大晦日」であったようだが、それがいつのまにか「大井川」と転じて流布されるほど、大井川は難所だったということであろう。



 この大井川の川越業務を担当したのが、嶋田宿(島田市)と金谷の河原町(榛原郡金谷町)とであった。 川越人足はすでに近世初頭にいたようであるが、川越業務が制度として確立するのはかなりあとになった。



 道中奉行が川越の統制にのりだしたのは寛文五(1665)年のことで、川越賃銭などは宿の問屋が定めるものとされた。 さらに、あらたに川庄屋が任命され、川越業務が川会所で取り仕切られ、徒渉制度が整備されたのは元禄九年のことであった(大塚勲「大井川における川越制度の確立過程」『東海道交通史の研究』)。

   

 川留め・川明けや川越賃銭などは、水深の状況によってそれぞれ段階があった。 常水二尺五寸(約75cm)を基準として、増水一尺五寸までは馬越、二尺までは歩行越、二尺五寸、つまり水深五尺までは幕府の公用飛脚である御状箱(ごじょうばこ)のみはなお通行を許された。

 しかし、五尺(1.5m)を超えると「無通路」となり、まったくの川留めとなった。 梅雨時などは10日間以上も川留めされることがあり、まさに「越すに越されぬ大井川」という状態になったのである。


 助郷制の成立

 近世の交通・運輸制度は、すでに述べたように各宿場の責任で、つぎの宿場へと荷物を継ぎ送る方式によって運営された。 しかし、交通量の増大に伴い、これを各宿場に常備された人馬のみでまかなうことは不可能になった。 そのために、これを補完したのがいわゆる助郷制であった。

 助郷とは、特定の宿場に対して不足の人馬を提供することを義務づけられた村々のことである。 この助郷役は無償ではなかったとはいえ、宿近在の村々に強制的に賦課されたものであり、農民たちにとっては大きな負担となった。

 この助郷制成立のきっかけも、東海道についていえばやはり寛永年間(1624〜44)であった。 寛永十四(1637)年三月にだされた助馬令が、府中宿と浜松宿に残されている。 浜松宿宛のものは八力条よりなり、助馬村の高役免除、助馬村の出役や助馬の継立作法などが規定されているのである。 その意味で、この助馬令はのちの助郷制の直接の出発点になったのである。

 第二の画期は寛文年間(1661〜73)で、定助(じょうすけ)(恒常的に助馬を負担する村)・大助(おおすけ)(臨時的に補充する村)の区分があるとはいえ、幕府権力による定助郷の設定が行われた。 五街道の主要宿駅では、助郷村にささえられてはじめて機能できる状況がうまれていたのである。

 助郷制は、第三段階ともいうべき元禄七(1694)年のいわゆる助郷改革によって明確に成立した。 この年幕府は、東海道・中山道などの各宿場に助郷帳を下付し、幕領・私領にかかわらず、宿近在という地理的基準によって、統一的に定助郷・大助郷の設定を行ったのである。

 たとえば、「東海道原町助郷帳」によれば、定助郷10カ村、大助郷20カ村、あわせて30カ村・12868石が原宿の助郷村とされ、「右の通り原町へ助郷申し付け候間、相触れ次第、人馬滞りなく村々よりこれを出すべし」とされているのである。

 この元禄の助郷改革は、交通量の増大に伴う人馬継送りの渋滞や宿場の負担過重を緩和しょうとするものであった。 しかし、元禄期以降の社会発展で交通量はさらに増加し、定助郷の負担増は著しくなっていった。 このため、幕府は享保十(1725)年に至り、再度助郷改革を行い、その再編・強化をはかったのである。

 具体的な内容としては、従来の定助郷と大助郷との区別を廃止し、これをすべて定助郷に一本化したのである。 「東海道原宿助郷帳」によれば、まったくこの方針どおりにさきの30カ村が指定され、「右は、只今までは定助郷・大助郷と相分かり、人馬差し出し候得ども、向後右名目相止め候間、書面の助郷村々甲乙なく割合、人馬滞りなくこれを出すべし」とされたのであった。



 こうして、この享保の助郷改革で助郷制は最終的に確立し、これら定助郷とされた村々は、基本的に幕末まで変わらなかった。

 しかしながら、大通行のときは定助郷だけでは間に合わず、またその後も交通量の増加が続いたため、代助郷・増助郷・加助郷・当分助郷など、さまざまな名称の助郷が設定され、定助郷以外の村々に助郷の拡大がはかられた。

 遠州では増助郷に類似の余荷(よない)助郷があり、たとえば袋井宿では、幕末安政期に定助郷37力村・余荷助郷57力村が設定されていた。

 定助郷の村々はもとより、そのほかの助郷であっても、指定された村々の負担は大きかった。 そのため、こののちしばしば助郷役の減免要求が繰り返され、ときには宿と助郷村々との対立、あるいは定助郷の村々と他の村々との対立を引きおこすこともあった。



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