産業の発達

4 諸産業の発達

 稲作と畑作物

 近世にはいると諸産業の発達は著しく、産物についても品種の多様化・品種改良が進んだ。 また、肥料の工夫や農具の改良など、農耕技術の面でも大きな進歩がみられた。

 豆駿遠三国でも豊かな産物がみられたが、さいわい伊豆と遠江の一部に享保期の「産物帳」が残されていて、その時代の産物を網羅的に知ることができる。 すなわち、『静岡県史』資料編11にみられるように、「伊豆国産物帳」と「遠江国掛川領産物帳」であり、関連するその他の「産物帳」とあわせて、容易に検討することができるようになった。

   

 これら「産物帳」は、享保十九(1734)年三月に、幕府が丹羽正伯(せいはく)に『庶物類纂(しょもつるいさん)』の編集を命じたことにはじまり、ついで翌年、諸藩の江戸留守居がよばれてその調査を指示され、統一的に作成されたものであった。 伊豆・遠江の分は、いずれも享保二十一年に提出されているのである。
 

 その内容・構成について一言ふれておくと、伊豆の場合、君沢・田方・賀茂の各郡単位で作成されており、田方郡について主要項目をみると、つぎのようなことであった。

 まず植物は、穀類・茶・たばこ・木綿・かぞ・莱類・菌類・瓜類・菓類・木類・草類・竹類に分けられ、それぞれについてさらにくわしく書きあげられている。ついで動物が、魚類・貝類・鳥類・虫類・蛇類となっている。 その他の「産物帳」も、ほぼ同様の分類にしたがって調査されているのである。

 ところで、近世農業の基本となったのは、やはり稲作であった。 近世にはいると、大河川下流域の新田開発も進むなど、水田耕作の規模は急速に拡大していった。

 早稲・中稲(なかて)・晩稲の区別はすでに中世からみられたが、近世初頭の農書『清良記』では、早・中・晩稲、餅米、畑稲、太米に分けて多様な品種が掲げられ、水稲粳(うるち)米60種・糯(もち)16種・陸稲12種・大唐米8種となっている。

  

 三国の稲の品種もまことに多様であり、すでに「産物帳」や各地の「村差出明細帳」などによりながら、その実態が解明されている(川崎文昭「近世駿遠豆の稲の品種について」『静岡県史研究』六号)。

 これら多様な品種は、自然淘汰がなされ、改良が重ねられ、またそれぞれの地域の気候や地質によって、実際に使用されるのは十数種類に限られるとはいえ、それにしてもその多様さにはおどろかされるのである。

 早・中・晩稲についてみると、早稲よりも晩稲の方が収穫量が多いため、晩稲の方の作付面積を多くするのが一般的であった。 ただ、早稲は冷害や天候の不順に比較的強く、収穫が早いため台風などの被害にあう比率が低く、また端境(はざかい)期の夫食の助けになるなどの利点があった。

 そのため、早・中・晩稲のいずれも作付を行うのが慣わしで、山名郡松袋井村(袋井市)の弘化三(1846)年の記録によれば、早稲一分・中稲三分・晩稲六分という割合になっていた。

 近世の農業経営にあっては、稲作が基本になるとしても、雑穀や野菜類などの畑作物も重要であった。

 米は大部分年貢として収奪されたため、日常の食生活ではこれら畑作物の占める比重が大きかった。 近世前期の農書『百姓伝記』によれば、具体的につぎのようなものがあげられている。

 まず五穀・雑穀類についてみると、「大豆・小豆・小角豆(ささげ)・あわ・きび・ひえ・ごま・荏(えごま)・とうきび・そば・唐あづき・ゐんげんまめ・つばくら豆・そらまめ・ゑんどう・ぶんどう・けし・なんばんきび・なたまめ・さるまめ・麻・紅花・あい・紫根・いちび・青苧(あおそ)・きわたし、以上があげられている。

 つぎに野菜類はさらに多様であり、「大根・かぶら・からし・くゝたち・ちさ・ほうれんさう・にんじん・ごぼう・里いも・うり・なすび・夕がを・とをぐは・きふり・すいくわ・ぼうふら・山のいも・こんにゃく・ところ・にんにく・かりぎ・ねぶか・わけぎ・あさつき・らっきょ・にら・めうが・ふき・しそ・うど・たばこ・はじかみ・たで・とうがらし・はゝきゞ・あざみ・あかざ・みつばせり・たんぽゝ・ひう・ずゝたま・けいとう・ほうづき・しゆんぎく・とうのごま・もぐさ・山ごぼう・はこべ」、などである。

 もとより、これら多種・多様な雑穀・野菜類も、すべてが作付されるわけではなく、なかには食用となる野草も含まれている。 また、それぞれに通した耕地で栽培されるので、一村についてみると、たとえば差出明細帳にみられる種類はそれほど多くはない。 ただ、今日につながる野菜類も多く、先人の努力の跡がしのばれるのである。


 三国の特産物

 近世社会では、全国各地でその地域特有の生産物、いわゆる特産物がうみだされた。 それは地域的に自然発生的な面もあるが、諸藩が領国内の産業振興の観点から、特色ある物品の生産を奨励したことにもよっていた。

 ところで、豆駿遠三国の場合は、特産物としてどのようなものがあげられるであろうか。『静岡県史』資料編11には、その主要な関係資料が収録されているが、そこでは茶と茶一件、修善寺紙と駿遠の和紙、椎茸・わさびの栽培、そして山方の諸産物として蜜柑(みかん)・毒荏(どくえ)などが、それぞれ節を立てて取りあげられている。 ここでは紙数の関係もあり、とくに茶・椎茸・わさびについてみておこう。

                                  

 お茶は現在でも、静岡県有数の特産品である。 近世では、主として駿河・遠江の山間部を中心に生産された。 志太郡地名村(榛原郡中川根町)では、慶長七、八(1602、03)年の年貢が茶と紙で納入されていた。 北遠地方でも同様で、茶は綿・紙・漆などとともに早くから上納され、延宝三(1675)年の検地では、茶畑が等級をつけて把握されたのである。

 このように、茶は早くから領主権力によって掌握されていたが、他方で商品作物として売買も行われていた。 近世もなかばすぎにもなると、茶の生産者・在地の茶商人・駿府の茶問屋・江戸の問屋のからみも複雑になり、やがて駿遠100カ村を超える生産者が立ちあがった文政期(1818〜30)と嘉永・安政期(1848〜60)の二度にわたるいわゆる茶一件が勃発した(宮本勉「駿遠茶一件の歴史的特質」『近世静岡の研究』)。

 茶の生産者たちは、江戸への茶の直売りを要求し、文政期にはやぶれたものの、嘉永・安政期の二度目の訴訟によって、それを実現したのであった。

     

 つぎに椎茸であるが、伊豆の天城山は早くから林業が盛んで、幕府の御林も設けられていた。 そのような条件のもとで、椎茸栽培も盛んとなり、十七世紀の後半には年貢として納入されたり、江戸への販売などの商取引も活発になっていった。 延宝年間(1670年代)の田方郡湯ケ島村(天城湯ヶ島町)の文書は、その一端を示している。

 ところが、十八世紀の後半ごろから、伊豆では椎茸栽培用のシデの木が不足がちとなり、伊豆の椎茸師たちは駿河・遠江の山間部などへ進出していった。 伊豆の住人への椎茸山やシデ林の売渡証文が、そのような状況を語ってくれる。

より端的には、たとえば文政二(1819)年に賀茂郡沢田村(河津町)の住人五人の場合は、「右の者共渡世のため、三州・遠州辺りへ椎茸山へ稼ぎに罷り出申したく、願い上げ奉り候」と嘆願している。 おそらく、当時一般的にみられた状況なのであろう。

       

 茶・椎茸にくらべると、わさびの出現はやや遅かったようである。『静岡県史』編纂のための調査資料のなかで、わさびについてふれたもっとも古い文書は、享保三(1718)年のものとされている。 そこでは、「かやの木畑壱枚」を代金一両三分で売ったさい、「此内わさび田除き置き、売り申し候」とみえている。 これは安倍川中流のことであり、元文五(1740年のわさび沢などの売渡証文が久能尾(静岡市)と藁科川上流であるので、椎茸とは逆に、伊豆よりもむしろ駿河が先行して一いたのであろう。

 しかし、伊豆天城山でも十九世紀にはいるころにはわさび栽培が急速に広がったようで、田方郡湯ケ島村の大滝・宿・西平・長野・金山などの「山葵仲間」は、文化六(1809)年165軒、文政七年174軒、天保二(1831)年181軒と増加していった。 また、同村には「山葵植付場所」に関する間数・作人名を記した詳細を絵図も作成されていて、わさび生産の広がりを示している。


 鉱山と林業

 全国各地の金銀山を主体とする鉱山は、豊臣政権下ですでに直轄化され、徳川幕府においてもその方針は継続された。 それは単に幕府を財政的にささえたというだけではなく、鉱産物の輸出や貨幣制度などともかかわって、幕府の経済政策の重要な基礎となっていたのである。

   

 三国についてみると、伊豆の金銀山と、駿河の金山とがとくに注目される。 まず伊豆については、天正期(1573〜92)に開発されたといわれる土肥金山(田方郡土肥町)に加えて、慶長期(1596〜1615)には縄地(賀茂郡河津町)・毛倉野(同南伊豆町)・湯ケ島(田方郡天城湯ヶ島町)・瓜生野(同修善寺町)・修善寺(同)が開かれたといわれ、当初伊豆の文禄・慶長検地の奉行人であった代官頭彦坂元正が、これら金銀山の支配も行っていた。



 その後、慶長十二(1606)年に彦坂が改易されると、同じく代官頭大久保長安が伊豆代官として赴任してきた。 長安は駿府政権の奉行衆の一人でもあり、またその支配地域は鉱山支配を中心に全国各地におよんでいた。

 この長安が代官だった時期に、伊豆金銀山の発掘量は飛躍的に増大し、諸国から金掘たちが押し寄せてきたという。 正徳三(1731)年の「瓜生野金山由緒聞書」によれば、往時には「大分に金銀出申す由、町屋3500軒相立ち候。 大久保石見守様駿河御城様へ、金銀百駄も御上納成され候由」(『静岡県史』資料編11)といわれているように、はなはだ盛況であったようすがうかがわれる。

 つぎに駿河では、麓(富士富市)・安倍・井川(静岡市)の金山が知られる。 なかでも、安倍金山については関の沢の秋山家に、現在も金山関係だけでも500点近い資料が残されていて、その実態・変遷を知ることができる。

  

 享保九(1724)年の「由緒書」によれば、延喜二(902)年に黄金を献上したところからはじまるとするのはともかくとして、戦国期の享禄年中(1530年ごろ)に金山が繁盛し、これを「元栄(もとさかえ)」といっている。 つぎの繁栄は伊豆と同じく慶長期で、「慶長年中は繁昌おびたゝしく御座候由、その節の出砂金をもって、駿府町にて小判仰せ付けられ、出来候御金を駿河判と申し候由申し伝え候」といい、この時期は「中栄」といわれている。 山中に遊女町もでき、その跡は「化粧(けわひ)坂」と称したという。

 その後はしばらく金山としては中絶し、百姓が小間歩で稼ぎ、堀間役金二分を上納してきた。 貞享元(1684)年に至り御運上山となり年に銀100枚、元禄二(1689)年からは運上金一五両で堀聞役金二分は免除、元禄十四年からは金八両、正徳元年からは七両二分、そして享保三年には新金で三両三分と、しだいに減少していった。

 それでも、天保九(1838)年の「年々砂金御上納寄帳」によると、宝暦九(1759)年〜天保二年までの砂金量と代金が書きあげられていて、なお実態を有していたことがわかる。

      

 林業については、三国それぞれで発達しており、いずれも幕府の御林が設定されていたが、ここでは伊豆を中心にみておこう。

 伊豆の御林は天城山で、東西一三里・南北六里といわれる広大な林地であった。 幕府が御林として設定した時期は不明のようであるが、元禄十一年になると、幕府は三島代官に命じて、この広範囲な御林を河津・仁科・狩野(のちの湯ケ島)・大見の四口に区画し、それぞれに御林守を一人ずつおき、とくに松・杉・檜・槻・柏・樫・楠・栂・樅の九木を御制木とし、御林の管理・保護に当たらせたのであった。

 この時点で設定された御林地付村は54力村であったが、幕府が周辺の地続山を御林山に組み込んでいった結果、天保五年には120カ村と、倍増したといわれている(浅井潤子「幕府御林山における林業生産」『史料館研究紀要』三号)。

 木材の需要は、江戸を中心に高まる一方であった。 文政三(1820)年でも、「江戸廻しとされた本数は一万五〇〇〇本を超えていた。 また、薪炭需要の増大に対応することも天城御林の重要な役割で、天城炭は宝暦九年より御用炭として、年季請負制炭されるようになったのであった。

 駿河では、安倍奥梅ケ島村(静岡市)に御林があり、初期には駿府代官井出正次彦坂光正らの支配をうけていた。 また遠江では、榛原郡千頭村(本川根村)・大代村(金谷町)の御林もあったが、やはり天竜林業、つまり天竜川上流の遠・信国境の北遠の山々が森林資源の宝庫であった。

 木材の大量需要とそれに伴う奥地林の開発は、伐木・運材技術の発達を促し、流送過程の諸施設の整備と運材労働力の組織化をもたらした。 天竜川ではとくに榑木(くれき)(檜・杉などから製した上材)の搬送が問題で、「管流(くだなが)し」されたものが日明(ひあり)・船明(ふなぎら)(天竜市)間でいったん水揚げされ、船明からは筏組で掛塚港(磐田郡竜洋町)まで運ばれ、そこから船積されて江戸や各地に運ばれたのであった(飯岡正毅「遠州舟明における幕府の樽木処分」徳川林政史研究所『研究紀要』昭和五十年度)。





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