幕藩の成熟と解体

5章 幕藩制社会の成熟と解体

1 藩政の定着

 諸藩の動向

駿河・遠江の諸藩には譜代大名が配置されたため、とくに近世前期にはその交代が激しかった。 浜松藩のように、そのような状態が幕末まで続いたところもあったが、しだいに同一の大名家で定着していく傾向が強まっていった。 ちなみに、幕末までほぼ100年以上続いたところをあげてみると、下表のごとくである。



 もっとも早く定着したのは横須賀藩の西尾氏で、天和二(1682)年に忠成が信濃小諸から二万五〇〇〇石で入封し、以後幕末まで180年余続いたのである。 忠成は小諸に転封する前は駿河田中藩主であり、再度東海筋へでてきたことになる。



 西尾氏は、老中にもなったつぎの忠尚の代にかなり発展した。 すなわち、「西尾家譜」によると、忠尚は元禄二(1689)年に横須賀(小笠郡大須賀町)でうまれ、同十六年十二月に従五位下播磨守に叙任された。 ついで正徳三(1731)年七月に父忠成が病気で致仕(ちし)(官職を辞して隠居すること)したため家督をつぎ、八月には隠岐守と改めた。

 享保十九(1734)年九月若年寄、延享二(1745)年九月には西丸老中に進み、遠州各地で5000石の加増となった。 さらに、翌三年五月に老中となり、「加判の列、御本丸勤」をおおせつけられ、九月には従四位下侍従に叙任された。 同四年二月には、大御所吉宗付きとなり、寛延二(1749)年には長年の功を賞され、遠州でさらに5000石の加増となった。 宝暦二(1752)年四月に老中に再任されるが、同十年三月に72歳で死去した。

 このように、忠尚は老中にまでなり、二度の加増であわせて35000石の大名になったのである。 つぎの忠需(ただみつ)は京極(きょうごく)家からはいった養子であったが、以後この35000石は代々保証されたのであった。

 ついで小島(おじま)藩であるが、松平(滝脇)信孝(のぶなり)が元禄二年五月に若年寄となり、それまでの6000石に4000石が加増され、大名に列したところからはじまる。



 ただし、「万石封土ノ朱印」を賜ったのはかなり遅れて、翌三年十二月に襲封した養子信治の代になり、同十二年のことであった。 そして、この信治が元禄十七年正月に庵原郡小島村(清水市)に陣屋をかまえることにより、小島藩として立藩したのである。 まさに典型的な譜代極小藩であるが、その陣屋跡は現在も小島に残っている。

 藩政が定着した大名としては、田中藩の本多氏がこれについでいる。 亨保十五年七月に正矩(まさのり)が、四万石で上野沼田(こうずけぬまた)から入封したのである。

 本多氏もいろいろな系統があるが、もっとも有名なものが、徳川四天王の一人で武将型家臣の代表である定通系の忠勝と、大御所政治をささえた吏僚型家臣の筆頭である定正系の正信・正純父子であった。 田中藩本多氏の祖は、この後者の正信の弟正重からはじまっている。

 このように、本多氏は幕藩制の成立期に重要な政治的役割を果たしたのであったが、元和八(1622)年に正純が改易されて以降は、幕閣の中心となって活躍するものはあらわれなかった。

 それでも、田中藩本多氏の場合、正珍(まさよし)が延享三年から老中になるということはあった。

 つぎの掛川藩太田氏については項を改めることとし、最後に沼津藩水野氏についてふれておこう。 沼津藩は、関ケ原会戦後の慶長六(1601)年に大久保忠佐(ただすけ)が入封して立藩したが、同十八年に廃絶されて以降は幕領となっていた。

   

 それが、安永六(1777)年十一月に水野忠友(ただとも)が2万石で入封することにより、再度立藩したものであった。 忠友は寛保二(1742)年に7000石の家督をつぎ、明和二(1765)年に1000石加増、同五年十一月に若年寄となってまた5000石加増、あわせて13000石の大名となった。

 安永六年四月に側用人に転じてさらに7000石加増され、同年十一月に二万石の大名として沼津に城地を拝領し、入封したのであった。

 この忠友はその後さらに出世し、天明元二(1781)年九月に老中格になるとまた5000石加増され、同五年正月に老中に任ぜられるとさらに5000石加増されて三万石となった。 その養子忠成(ただあきら)は引きつづき幕閣で活躍し、文政元(1818)年八月には老中首座にまでなっている。 その後二度の加増で五万石となり、そのまま幕末まで維持されたのである。

 以下、掛川藩太田氏と、幕政において重要な役割を果たした藩主をだした相良藩田沼氏と浜松藩水野氏について、それぞれ主要な事績についてみておこう。


 掛川藩太田氏

 太田氏は掛川入封以前から駿・遠両国とは関わりが深く、資宗(すけむね)・資次(すけつぐ)の代の寛永十九(1642)年二月から延宝六(1678)年六月までは浜松藩主、資直資晴(すけはる)の代の貞享元(1684)年七月から宝永二(1705)年四月までは田中藩主であった。

 やがて、資俊(すけとし)が延享三(1746)年九月に上野館林(たてばやし)より掛川に入封することにより、以後幕末まで掛川藩主として定着したのである。



 このうち、幕政の面で活躍したのは、資愛(すけよし)と資始(すけもと)であった。 資愛は若年寄京都所司代を経て、寛政五(1793)年三月から八年間にわたり老中をつとめた。 また、資始は堀田正穀(まさたけ)の三男としてうまれ、資言(すけとき)の養子となって家督をついだのである。

 そして、大坂城代・京都所司代を経て、天保五(1834)年四月西丸老中、同七年本丸老中となるが、同十二年六月に当時の老中首座水野忠邦(ただくに)と対立し、辞任・隠居したのである。

 しかし、その後も幕政にかかわり、安政五(1858)年六月老中に再任したが、翌年七月大老井伊直弼(なおすけ)と対立して辞任した。 さらに、文久三(1863)年四月には老中に三任するが、これは耳が遠いことなどを理由にしてまもなく辞任した。

 いずれにしても、水野忠邦や井伊直弼と対立して辞任しているように、清廉で気骨のある老中であった(奈倉有子「幕末の掛川藩と太田資始」『地方史静岡』二二号)。

 太田氏が掛川に入封した当時の藩領は、遠江国佐野郡・榛原郡・周智郡・山名や郡・城東郡・豊田郡、伊豆国賀茂郡・那賀郡、常陸国真壁郡・筑波郡の10郡におよんでいた。

 その後、幕末までのあいだにたびたび変遷があり、駿河国や三河国のみならず、たとえば資始が大坂城代に就任したときには、遠江国内の所領一万石余が上地(あげち)され、河内国や摂津国内に所領をあたえられるということさえあった。

 ただし、これも資始が老中になるにおよんで、遠江国の旧領と引き替えられたのである。 いずれにしても、太田氏の所領は佐野郡を中心とする遠江数郡と、伊豆二郡の飛地とが基本となっていた。

 藩体制を維持する家臣団は、幕末には徒士(かち)以上のものが340人、足軽・中間(ちゅうげん)が305人で、あわせて645人であった。 職制としては、城代家老を筆頭に、年寄・家老・用人らを中心に、さまざまな役職があった。

 また、町方の支配は町奉行、村方の支配は郡奉行がそれぞれあたった。
 文化的な面では、藩校が注目される。 太田資愛は儒学を尊崇し、享和二(1802)年に掛川城内の北門側に藩校徳造書院(とくぞうしょいん)(初め北門書院)を創設した。 そして、藩校教授として松崎慊堂(こうどう)を招聴したのである。

 慊堂は肥後国の農家の出身であったが、10歳で僧となり、15歳で江戸へ出奔し、昌平黌(しょうへいこう)で儒学をおさめた。

 さらに林述斎(はやしじゅっさい)の家塾で学び、しだいにその名を高めた。 掛川藩では資愛にはじまり、資順(すけのぶ)・資言・資始につかえ、単に学問のみならず、藩政にもかかわったのであった。


 相良藩田沼氏

 相良藩の成立はやや遅かった。 宝永七(1710)年間九月に本多忠晴が15000石で入封したのにはじまる。 しかしながら、相良藩の名を高からしめたのは、やはり一時期の幕政を主導した田沼意次(おきつぐ)の居城となったことによる。

     

 意次の父意行(もとゆき)は紀州藩の足軽であったが、藩主吉宗が将軍になったさいに江戸へ伴われ、幕臣となったものである。 意次は享保四(1719)年の生まれで、同十九年に家重の小姓となり、二十年三月に遺跡をついだ。

 家重が将軍になるとしだいに出世し、宝暦八(1758)年九月に遠江国榛原郡で5000石を加増され、一万石となって大名に列したのである。 これによって遠江との関わりができ、同十二年にまた遠江で5000石加増、さらに明和四(1767)年七月に側用人となり、遠江で5000石を加増されるとともに、相良に居城をきずいたのであった。 その後も加増は続き、最高時には57000石にまでなっている。

 意次は明和九年正月に老中となり、しかも側用人役もかねて幕政を主導し、いわゆる「田沼時代」をもたらした。 しかし、天明四(1784)年三月に若年寄であった嫡子意知(おきとも)が江戸城中で刺され、翌月死去するにおよび、意次の権勢は急速に衰えていった。

 同六年八月に失脚すると、所領のうち47000石と居城を没収され、同八年七月に失意のうちに死去したのであった。 相良城は、意次の失脚とともに破却されてしまった。

 田沼父子の政治については、いわゆる賄賂政治ということでその腐敗性がよく指摘されたが、近年はむしろ積極的経済政策をとったことを評価する傾向が強い。

 すなわち、新田開発や商業重視の専売制度で株仲間などに特権をあたえ、その代償として運上金・冥加金を幕府におさめさせ、幕府財政の建直しをはかろうとしたことなどである。

 ただ、本書では幕政は主題ではないためこれ以上は立ちいらず、相良領支配についてみておこう。

 相良藩領の支配にあたったのは、家老・用人・物頭(ものがしら)を始め、郡奉行・番士(ばんし)・徒士目付・地方書役・同心・足軽・中間などであった。

 意次は相良を領知すると、領内に殖産興業や農業出精・倹約などの「申渡しを発し、各村からは請書を徴してその徹底をはかった。

 また、明和四年に築城を許されると、同六年から翌年にかけてまず堀石垣が竣工し、以下、大手橋・大手門外御番所・城石垣・大手冠木門・大手櫓門(やぐらもん)・三重櫓・川端櫓・本丸二重櫓の順に整備され、本丸御殿の棟上げは安永九(1780)年のことであった。 築城ととも城下町の整備も進み、相良新町・前浜町・市場町・福岡町・横町の城下五町は、町役人足を負担するかわりに地子免除となった。

 この間、安永八年には相良城を見分するということで、意次の最初で最後のお国入りが行われた。 相良入城は四月十三日であり、帰路は田沼街道(相良街道)を進行したといわれる。 田沼街道は相良町と東海道藤枝宿を結ぶ全長七里(約26Km)の街道であったが、意次が整備させたということで、そのようによばれたのであった。




 浜松藩水野氏

 豆駿遠三国の諸藩は譜代大名で占められ、転封も多かったが、幕政に関与する藩主もかなりでた。 老中に任じたものも10人を超え、なかでも浜松藩の場合は、松平大給(おぎゆう)乗寿(のりなが)・松平(大河内)信祝(のぶとき)・井上正経(まさつね)・水野忠邦井上正直の五人を数え、「出世城」とまでいわれているのである。

 そのなかでも、とくに水野忠邦は天保十(1839)年十二月に老中首座となり、同十二年から十四年にかけて、いわゆる天保改革を推進したことで知られている。

     

 忠邦は寛政六(1794)年六月に、肥前唐津藩主忠光の次男としてうまれたが、兄の死により世子となり、文化九(1812)年八月に家督をついだ。 忠邦は出世意欲が旺盛で、同十二年十一月奏者番(そうじやばん)、同十四年九月寺社奉行をかねるとともに、六万石で浜松藩に転封となった。
 さらに、大坂城代京都所司代を経て、文政十一年十一月に西丸老中となり、天保五年本丸老中、そして同十年に老中首座にのぼりつめたのである。 同年にはまた、西丸普請の功により一万石を加増された。

 ただ、老中首座になったからといって、ただちに手腕を発揮できたわけではなかった。 五〇年にわたって在位した十一代将軍家斉(いえなり)が、なお大御所として君臨していたからである。 そして、天保十二年閏正月に家斉が死去したことにより、同年四月に家斉のもとで権勢をふるっていた水野忠篤(ただあつ)らを排除し、翌五月に享保・寛政の政治にならって幕政改革を断行するとの宣言がだされたのである。

 こうして、天保改革は質素倹約・綱紀粛正・風俗統制などからはじまったが、主要な施策は忠邦の意に反して、いずれも挫折してしまった。 すなわち、物価高騰の原因であるとして株仲間を解散したが、流通経済の混乱を招いてしまった。

 江戸人口の減少と農村復興を目的にだされた人返し令も、ほとんど効果はあがらなかった。 対外的危機にそなえて、江戸城・大坂城周辺を幕府直轄領にしようとした上知令(あげちれい)は、大名・旗本らの猛反発を招いて、忠邦失脚の直接の原因となった、などである。

 なお、弘化二(1845)年九月には忠邦は致仕し、嫡子忠精(ただきよ)がついだが、同年十一月に出羽山形に転封になった。 その翌年浜松藩領では、第三節でみるように、水野氏の悪政に対する打ちこわしがおこった。


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