町や村の文化


 国学の発達

『万葉集』や『古事記』などの古典をつうじて、儒教や仏教の影響をうける以前の日本人の精神をあきらかにしようとした国学は、契沖(けいちゅう)・荷田春満(かだのあずままろ)にはじまり、賀茂真淵(かものまぶち)によって学問的方法が確立され、本居宣長(もとおりのりなが)によって大成された。
                                

 その後、国粋主義の学風の強い平田篤胤(ひらたあつたね)がでて、幕末の尊操(そんじょう)運動や明治期の神道(しんとう)国教化に大きな影響をあたえた。 このうち、荷田春満や賀茂真淵との関わりから、豆駿遠三国ではとくに遠州国学の発達がめざましかった。

 遠州に国学が広まったきっかけは、元禄16(1703)年五月に、浜松諏訪神社大祝杉浦国頭(おおはふりすぎうらくにあきら)が江戸の荷田春満に入門したことであった。 国頭は春満の信頼を得、翌宝永元(1704)年には春満の姪真子(まさこ)(のち真崎(まさき))と結婚したのである。 このことによって、春満は上方と江戸とを往復するたびに浜松に逗留することになった。 そしてその折の古典の講義や歌会などを通して、国学を中心とする文化の形成をもたらすことになった。

 国頭の門人は遠江から三河にかけて28人におよぶが、いずれも神官であった。 そのなかの一人が、浜松宿に近い伊場(いば)村(浜松市)の農民で、賀茂明神の神官でもある岡部家出身の賀茂真淵であった。 真淵は宝永四年に一一歳で入門し、国頭の妻真崎から手習いを、五社(ごしや)神社の森暉昌(もりてるまさ)や古文辞学派(こぶんじがくは)の渡辺蒙庵(わたなべもうあん)らの教えをもうけた。

 享保八二七二三)年に結婚するが翌年妻をなくし、同十年に浜松宿本陣梅谷家に入婿した。 やがて、同十八年に京にのぼり、伏見にあった春満に入門したのである。

 京での真淵は、歌会にでたり、春満の代講をつとめるなど、学問にはげんだ。 しかし、元文元(1736)年七月に春満が死去すると一時浜松に帰り、翌年には家を養子にまかせて江戸へくだった。 そして、生活に苦労しながらも学問にはげみ、門人もしだいにふえ、やがて寛保二(1742)年に八代将軍吉宗の子田安宗武(たやすむねたけ)にめしだされることになったのである。

 真淵の学問形成にとってこれは大きな契機となり、延享三(1746)年二月には田安家の和学御用係(わがくごようがかり)となって、以後命をうけて多くの著作をまとめていった。

 とくに隠居後の 『歌意考(かいこう)』 『国意考(こくいこう)』 『万葉考(まんようこう)』などをつうじて、国学の方法を確立していったのである。

 本居宣長と出会ったのは晩年のことで、宝暦十三(1763)年に大和に旅した帰路、伊勢松坂の旅館においてであった。 そこで真淵の激励をうけた宣長は、『古事記』 の研究を進めることになったのである。

 真淵の門人で遠州国学をになったのは、内山真竜(うちやままたつ)と栗田土満(くりたひじまろ)であった。 真淵は明和六1769)年十月に七三歳で死去しているので、いずれも晩年の門人で、真竜は宝暦十二年、土満は明和四年の入門であった。

 真竜は豊田郡大谷村(天竜市)で代々庄屋をつとめる内山家の長男としてうまれた。 自身も宝暦十二年の二三歳のときから、五〇年あまり庄屋役をつとめた。 真淵から直接歌文の指導をうけながら、他方で浜松の古文辞学派の儒者渡辺蒙庵から熱心に漢文を学んで、真淵から批判されるようなこともあった。

 真竜の著作では、とくに『出雲風土記解(げ)』 『遠江国風土記伝』などが、のちの地誌編纂に大きな影響をあたえた。 なお、真竜の門人としては、小国重年(おぐにしげとし)・石塚竜麿(たつまろ)・夏目甕麿(なつめみかまろ)・高林方朗(たかばやしみちあきら)が有名である (岩崎鉄志『内山真龍』)。

 真竜の門流が中遠から西遠にかけて広がったのに対して、土満の影響は中速から駿河にかけて東にのびていった。 土満は城飼(きこう)郡平尾村(菊川市)平尾八幡宮の神主であった。

 真淵最晩年の門人で、その死後に帰郷し、天明五(1785)年に至り同門の本居宣長に入門した。 著作に『神代紀葦牙(しんだいきあしかび)』などがあり、門人としては石川依平(よりひら)が有名で、依平には多数の門人があった。

 駿河・伊豆について一言すれば、春満はもとより、真淵・宣長の門人もほとんどみられない。 駿州国学の展開についていえば、土満・依平以降ということになる。 伊豆では宣長門下がただ一人、田方郡熊坂村(修善寺町)の竹村茂雄であった。 ただ、平田篤胤およびその没後の門人数は遠江と遜色なくなるので、両国の国学は比較的遅れて、幕末・維新期に発達したといえよう。

  



 『東海道人物志』の世界

   

近世後期には、寛政改革天保改革のように全般的に取り締まりがさびしい時期もあったが、田沼時代やとくに文化・文政期のように、庶民文化が花開いた時代もあった。『東海道人物志』は文化・文政期の直前、享和三(1803)年に大須賀鬼卵(きらん)が京都で出版したものである。 数ある人名録のなかでも、街道の宿別の編集はこの『東海道人物志』以外はみあたらないといわれており、鬼卵の卓抜な編集感覚が評価されている。



 すなわち、『東海道人物志』は東海道を上下する旅人への情報提供を目的に編集されたものであり、いわゆる東海道五十三次の宿場とその周辺に居住する人物について、その雅号とともに、得意とする学問・文芸・技芸を紹介したものである。

 たとえば内山真竜の場合は、見附駅の項で「国学・和歌、名真龍、大谷、内山弥兵衛(やへえ)」とされている。 城下町や宿場をつなぐ街道は、情報・文化の伝播も早く、この『人物志』によって当時の庶民文化の状況がみてとれるのである。 とくに静岡県下は22宿を有しており、多彩な人物の多様な活躍ぶりがうかがわれる。

 ところで、編者の大須賀鬼卵とはどのような人物であったのだろうか。 文政六(1823)年に八〇歳で死去したとすれば、延享元(1744)年ごろの生まれということになる。若いころから絵画・和歌・連歌・狂歌・俳諧など、多芸多才であったといわれている。

 確実な事歴としては安永三(1774)年三一歳のときに、河内国茨田(まんだ)郡の佐太(さた)八幡宮に奉納した『佐太のわたり』の編者としてあらわれており、当初は大坂方面で活躍した。 その後、同八年には妻を伴って三河国吉田城下にあらわれ、俳人五束斎木朶(ごそくさいもくだ)の俳壇と関わりをもった。 妻は号を夜燕(やえん)といい、和歌と画をよくしたようであるが、吉田へきて三年後の天明二(1782)年に二六歳で病死してしまった。

 ついで寛政年間(1789〜1801)にはいると、鬼卵は伊豆国三島で韮山代官江川家の英征(ひでまさ)・英毅(ひでたけ)二代につかえ、三島陣屋(三島市)に出仕した。

 そして、やがて仕官を絶って駿府に移ったようで、寛政九年刊行の『東海道名所図会(めいしょずえ)』では挿絵を担当している。 さらに、寛政末年は大井川を越えて日坂(掛川市)にはいり、文政六年に死去するまで日坂宿でくらしたのである。

 このようにみてくると、鬼卵は上方から三島までの各宿を中心とする各階層の人びとと、幅広い交友関係を結ぶ機会があったことがわかる。 まさに、各宿をめぐる『人物志』の編者としては、うってつけの人物であったといえよう(岸得蔵「栗杖亭鬼卵の生涯」静岡女子短期大学『紀要』八号)。

 さて、『東海道人物志』の内容であるが、その編集方針については、鬼卵自身が凡例のなかで四点にわたって述べている。

 第一に、各宿場からほぼ二里以内の人びとを対象にしていることである。たとい高名な人物であっても、それを越えると街道筋からはなれすぎるということであろう。 ただ、この原則からして解せないのは、中ノ町・貴平(きへい)・笠井・有玉(ありたま)・松島・大瀬など、天竜川より西で、現在浜松市域に属する村の人びとが、どういうわけか浜松駅ではなく見附駅の項にみえることである。

 第二に、武士身分のものは、名高い人があったとしても、いっさいはぶいていることである。 一般庶民は、城内や武士の居住区にははいれないからである。 しかしここにも例外があり、三嶋駅の項に「同人、漢学・詩文章・算学・印章・書画、韮山、中隠堂主人」とみえる。 この中隠堂主人とは韮山代官江川英毅のことであり、間違いなく武士である。 さすがに実名ではなく、また「聞人」とあり、名声が知れわたっている人とされてはいるが、旧主人への敬意と配慮からか、あさらかに原則からはずれているのである。

 第三に、「武術は、公を恐れて、もらし侍る」としている。 当時は庶民のあいだにも弓術や剣術などがかなり普及していたのであるが、本来封建的身分秩序の下では、軍事力にかかわることは支配身分=武士階級に独占されていたので、これをさけたのである。

 第四に、著名人であっても、この人物志から洩れたものがある理由を記している。 それは旅人の面会要求をこばむ人びとであり、また編集過程で、病とか他出しているとかいって面談できなかったものも、不本意ながら掲載できなかったと述べている。

 それでは、このような原則に基づいて、どのような学問・文芸・技芸を有した人びとが掲載されているのであろうか。 凡例に続いて、目録ではつぎのような多様なものがあげられている。 すなわち、「皇学・歌人・漢学・詩人・仏学・医学・外科・暦学・天文・算学・連歌・狂歌・俳譜・音楽・琴・挙・碁・書画・香・茶道・立花・生花・印章・蹴鞠・将棋・双六・猿楽・浄瑠璃・三弦・小唄・古書・古画・古銭・石品・扇面」の35例である。ところが、実際に『人物志』で各人が標榜している表現はもっと多様であり、県下22宿では54例にものぼっているのである。

 これらのうちでとくに多かったものは、俳譜81人、和歌40人、詩と書が各37人、国学21人、画19人などである。

 国学・和歌が比較的に多いのはこの地域の特色で、さきにみた国学者についていえば、竹村平右衛門(茂雄)は三嶋駅、栗田民部(土満)は日阪駅、高林伊兵衛(方朗)と内山弥兵衛(真竜)は見附駅、石塚安右衛門(竜麿)は浜松駅、夏目嘉右衛門(婆麿)は白須賀駅にそれぞれ名前があげられている。

 なお、日阪駅の石川為蔵(依平(よりひら))は、「冷泉家御門八、五才ヨリ詠歌」とされている。 また、鬼卵は絵師でもあったため、画についてはさらに専門的な区分が行われており、単に画とされたもののほか、一家画・漢画・唐画・倭画・梅画・狩野家・雪家画などとされたものがみられて興味深い。

 いずれにしても、『東海道人物志』には宿場を中心にまことに多彩な人物が掲載されていて、当時の庶民文化の広がりを実感させられるのである。

 庶民の教育

 日本の近世社会は、よく「文書の時代」であるといわれる。 実際、現在残されている近世文書は、膨大な数にのぼっている。 それは村方についてだけみても、幕藩制下の領主支配にかかわる検地帳や年貢割付状・年貢皆済目録(かいさいもくろく)を始め、村差出明細帳・宗門改 帳・五人組帳などから、もっと庶民の生活に密着した祝儀帳・香典帳やいわゆる借用証文などに至るまで、まさに生活の隅々にまでおよんでいるのである。

 そして、そのような文書をとおした支配は、それを可能にするような態勢が、庶民の側にそなわっていたことを意味していた。 すなわち、一般に「読み・書き・算盤(そろばん)」といわれるような、読書き能力・計算能力の拡大が必要であった。 町場の商家などでは、いっそうそのような能力が必要とされたのである。

 そのような読書き能力は、村落内に手習塾=寺子屋が定着することによって、時代がくだるにつれて下層農民にまで広がっていった。 たとえば、具体的な事例として、北駿地方(御殿場市・駿東郡小山町方面)では筆子塚(ふでこづか)の分布を手がかりにして、大きな成果があげられている(高橋敏『日本民衆教育史の研究』)。

  

 すなわち、北駿地方には筆子塚と総称される、民衆教育をになった師匠の墓碑群がある。 教えをうけた筆子たちが、師匠の菩提をとむらうために建立したものである。 それまでに発見されたものは、高橋氏によると駿東郡下で45基あり、とりわけ北駿地方ではそのうちの38基が数えられ、民衆教育の一大文化圏となっていた。

 45基にのぼる筆子塚の主の出自・身分は、名主12・農民12・医師8・僧侶5・武士3・俳諧師2、座頭・神官・不明各1となっている。 すなわち、上層農民が中心で、それに医師や僧侶などが多かった。

 それらの師匠の没年は、天明五(1785)年から幕末までが25人、明治52(1909)年までが20人となっていて、十八世紀の後半以降に民衆教育の広がりがみられたことになる。

 他方、筆子についてみると、湯山家には二冊の「入学帳」が残されていて、文化五(1808)年から弘化三(1846)年まで寺子屋を開業した揚山文右衛門の寺子は189人にのぼっている。 そのうち、自宅があった菅沼村大脇(駿東郡小山町)のものが22人あったが、長らく寺子屋を開業していた隣村吉久保村(同)が26人ともっとも多かった。

 この吉久保村の筆子で出自のわかるもの23人について検討すると、一軒で二人の筆子をだした家が三軒あるため、筆子をだした家は20軒ということになる。 これは吉久保村の総家数50軒の四割にあたっており、民衆教育の普及率はかなり高かったといえよう。

 さらに、持高についてみると富農とばかりとはいえず、一石未満の零細な農家が12軒と、実に60%を占めているのである。 このように、筆子たちの家の階層についてみると、下層農民の子弟も多かったのであり、まさに文字文化の深い広がりを知ることができるのである。 駿東郡の筆子塚や筆子の実態は、そのような「文書の時代」の一側面を、みごとに示しているのである。



 百姓一揆と打ちこわし

 天明・天保の飢饉

 

 近世社会では、たびたび災害や飢饉に見舞われたが、なかでも享保17(1732年)天明(2−8)(1782−1788年)・天保(4-10)(1833−1839)のそれは、数年にわたり大きな被害をもたらしたため、三大飢饉ともよばれている。 それは時代がくだるにつれて、幕藩制の矛盾が激化していったこともあり、より深刻な事態を招いたのであった。

 そして、そのような飢饉に対して、領主や村の指導者たちの救済対策が十分でない場合は、農村や都市の下層民を中心に、穀物の払底や米価の高騰への不満、あるいは収奪の軽減などを求めて、一揆・打ちこわしが発生したのである。

 もとより、百姓一揆などの場合は領主の不正や収奪の強化などによって発生したものも多かったが、近世の一揆・打ちこわしの発生件数についてみると、とくに天明期・天保期に大きな山があり、飢饉の影響が大きかったことを示している。

 天明の大飢饉は、天明三(1783)年から同七年ごろまで続き、幕藩制が成立して以来、最大の被害をもたらした。 そもそも、日本列島自体が十八世紀なかばごろから寒冷期にはいったといわれていて、冷害にみまわれることが多くなっていた。 とくに奥羽地方の各地では、冷害による飢饉の被害がすさまじく、餓死者・疫病死者が続出した。

 

 天明三年には、それに加えて七月に浅間山の大噴火があり、その降灰の被害は信濃・上野を始め北開東一帯におよんだ。 また、噴煙が太陽の光を遮ったことにより、冷害の被害はいっそう大きくなった。 このような自然災害による凶作が飢饉をもたらし、それが翌年の端境期の食料不足を倍加させ、さらに凶作が重なると救いようのない深刻な事態を引きおこすことになった。 この天明大飢饉の犠牲者は、餓死者・疫病死者をあわせると数十万にのぼると推定されている。

 豆駿遠の三国でも、この天明年間(1781〜89)には長雨が続くなど、気候不順による凶作・飢饉に見舞われた。 たとえば、遠州榛原郡吉永村(大井川町)では、天明元年に飢人288人をだし、同六年から翌年にかけては、400人以上になったという。

 山間部の被害はいっそう深刻で、天明四年に周智郡熊切組12力村(春野町)は、前年は皆無同様の凶作であったとして、夫食(ふじき)の拝借を願いでている。 駿河・伊豆でも同様の状況で、伊豆では天明六年に山木・滝山両村(田方郡韮山町)が、田方の虫付・青立被害の検分を願いでているが、皆無・大痛・小痛に分けた田地のうち、皆無ないし大痛の申告が八割近くにのぼっているのである。

 ところで、このような凶作が続くと、江戸や大坂を始めとする都市でも米不足が深刻となり、各地で米価の高騰、米の買占めに対する騒動・打ちこわしがおこった。 とくに天明七年には、全国各地の主要都市でほぼ同時に打ちこわしがおこり、なかでも五月の江戸の打ちこわしは大規模なものであった。

 天保の大飢饉もまた、天保四(1833)年から同十年ごろまでと長期にわたった。 天保四年は春先から長雨が続いて気温があがらず、典型的な冷害となった。 そのうえ、六月に出羽地方の大洪水、八月に関東の大風雨という災害が重なり、関東から東北にかけて大凶作となったのである。 さらに、天保七年にはそれ以上の全国的な飢饉となり、やはり奥羽地方の被害が大きかった。 この間三国においても、『静岡県史』の「自然災害編」にみられるように、長雨と大風雨が重なって、大きな被害をこうむったのであった。 そして、時代がくだるにつれて幕藩制の矛盾が深まっていたこともあり、一揆や打ちこわしの発生件数は、天明期のそれを上まわったのである。


 三国の一揆・打ちこわし

 いわゆる百姓一揆は近世の初めからおこっていたが、当初は村役人たちが代表となった訴願闘争が多かった。 それが十八世紀になるころから惣百姓による強訴が多くなり、とくに十八世紀もなかば以降には、全藩一揆からさらに領主支配の枠を越えた広域闘争、大規模な強訴・打ちこわしがみられるようになっていったのである。

 豆駿遠の三国でも、その規模や形態はさまざまであるが、かなりの一揆・打ちこわしがみられた。 ある程度資料が残っているおもなものとしては、つぎのような事例があげられる。

 年代順にみると、まず明和元(1764)年の駿河国小島藩の惣百姓一揆がある。 これは領主財政立直しのための藩政改革によって、年貢増徴政策および藩支出費用の農民への転嫁策が推進されたため、百姓たちが改革を推進してきた新役人の罷免と改革以前の仕法に戻すことなどを要求して、出訴・一揆に至ったものであった。 藩当局は、藩主が大坂加番の任から帰国する翌年秋まで問題を棚上げしようとしたが、惣百姓らは新役人の罷免を要求してゆずらず、年内に要求どおりの内済を勝ちとったのである。

 天明三(1783)年の駿河御厨一揆は別項にゆずり、同六年には遠江で笠井・二俣騒動がおこった。 いわゆる天明大飢饉の最中で、笠井村・二俣村の商人らが穀物や諸品を買い占め、売り惜しみをして暴利をむさぼっているとの風間が流れ、周辺村々の百姓らが商家や名主宅の打ちこわしを行ったものである。

 また、同七年には駿河でも、米穀の他所売禁止や値下げを要求する山方騒動がおこった。そのときに村々にまわした廻状は、いわゆる傘(からかさ)連判状(首謀者をはっきりさせないために、円型放射状に署名した連判状)の形式をとっていた。

 文化十三(1816)年の蓑着(みのぎ)騒動も別項で取りあげることとして、つぎは天保期の事例である。 天保四(1833)年には遠江の新居町で打ちこわしがおこった。 吉田藩では穀物が領外に流出するのをふせぐため、この年二度目の津留令(つどめれい)をだした。 ところが、川口屋万平(まんペい)がこの通達に反して、麦を船積みしているところを発見され、大騒動がはじまった。 小前(こまえ)百姓らはその麦を押さえ、万平方に押しょせ、麦700俵借用などの要求をつきつけた。 しかし万平がこれをこばんだため、家・土蔵・諸道具類の打ちこわしになった。 そして、さらに数軒の商家に、穀物の放出を約束させたのである。

 天保七年には、伊豆の下田町で打ちこわしがあった。 下田町の場合は背後に米作地帯をもたなかったため、米価の高騰や米穀の払底(ふりてい)はとりわけ深刻であった。 同年は天保大飢饉のいわばピークの年でもあり、町内の米小売商四軒がつぎつぎに打ちこわされたのであった。 同八年には駿河の大富町でも、その日の夫食にも差しっかえるという困窮した小前百姓らが、低利の米価借用を要求するという騒動が勃発している。

 このようにみてくると、三国の場合も天明・天保の大飢饉の影響を強くうけていたことがわかる。 主要な一揆や打ちこわしも、まさにその両時期に頻発しているのである。 そこでつぎに、実態が比較的よくわかる東部・中部・西部の個別事例について、ややくわしくみてみょう。


 御厨一揆

 駿河国駿東郡の御厨地方は、隣国相模の小田原藩領であったが、当時慢性的な窮乏に見舞われていた。 そのうえ、天明二(1782)年七月には大地震があり、翌三年五月ごろからは長雨が続き、九月ごろにやっと晴れたかと思うと早霜が降り、冷害による大凶作となった。 まさに、天明大飢饉の始まりであった。

 それまでは、御厨地方の農民たちは、あまり検見願や年貢減免願などをださなかったようである。 しかし、この年はこれまでにない大凶作に直面し、十月の年貢割付の時期を迎えると、小田原表へ年貢減免の嘆願を行うことになった。 ところが、藩側の対応ははかばかしくなく、ついに十一月十七日に至って、実力行使にふみきることになった(内田哲夫「安永・天明期の小田原藩と御厨一揆」『小田原地方史研究』五号)。

 すなわち、小田原城下へ嘆願に出向くということで、一揆に参加したのは28力村、500人を超える人数になったようである。

 

 一揆勢は箱根関所へとむかい、同日夜にはその手前の山中村(三島市)に到着した。 ところが、そこで箱根宿の名主佐五右衛門と藩から急派された小奉行らの必死の説得により、一揆勢は要求内容の確認も取らずに、あっけなく退散してしまったのである。

 御厨に戻った農民たちは再度年貢減免願を提出するが、箱根開所を前にして引き返した農民たちの立場は弱く、藩の譲歩を十分に引きだすことはできなかった。 十二月十一日には、一揆で遅れていた年貢割付状が下付されたのである。 そこでは藩の譲歩として、割付高のあとにある程度の用捨引(ようしやぴき)はなされていた。 しかし、それは御厨地方の農民たちの要求からみて、不十分なものでしかなかったことはいうまでもない。

 他方、翌天明四年二月から御厨一揆の参加者に対する糺明がはじまり、八月になってそれぞれへの処分が申しわたされた。 萩原村の小百姓久右衛門が死罪、新橋村の常右衛門が永牢となり、両人の居屋敷・田畑は没収されて村役人にあずけられた。 その他、村払(むらはらい)になったものが、御殿場村の小百姓庄左衛門など9人あった。


 蓑着騒動

 文化十三(1816)年の簑着騒動とよばれる一揆は、いわゆる義民増田五郎右衛門伝承をうみだしたことでも知られている。 騒動のきっかけは、この年閏八月四日の台風により、遠州・駿州の南部二帯が大きな被害にあったことによる。 そのために、十一月になると年貢減免要求が広汎におこり、田中藩・掛川藩・横須賀藩・浜松藩の各城下、それに中泉(なかいずみ)陣屋にも、蓑などをきた百姓らが数百人も押しょせたのである。

 

 内山真竜の日記によると、その二十日の条に、「○伴六子、今日有玉上島にて美薗村辺八村之百姓凡六百人計、蓑を着浜松城へ願出、其辺ノ名主差留二出、有玉橋占上島堤迄人立傍、○今日下山梨村辺村々、横すか城へ百姓凶作取面引願二出立、○今月十日頃、掛川城領地大井川東ノ百姓五、六百人掛川城へつめ、大手ノ門二両達願、家老取計ひ宜て引返ル」と、騒動のようすをなまなましく伝えている。

 その結果、たとえば掛川藩領では、当初定免の村々では五厘引きということであったが、一揆の成果で四度に分けて総計三分五厘の減免となった。 同時期に、藩領を超えて広範囲にたたかわれた一揆であったため、おそらく他領でもほぼ同様の成果を勝ちとったことと思われる。

 そのような成果の反面、一揆参加者に対するその後の吟味は、なかなかきびしいものであった。 田中藩領についてみると、翌年三月より詮議がはじまり、翌年六月に判決がくだされた。

 細島村五郎右衛門(増田五郎右衛門)が頭取として打首・家財没収となったのを始め、永牢・家財没収2人、村払5人、手鎖は数を知れずというありさまであった。 さらに、請免一人力村。 検見村60カ村に対する強訴の過料(かりよう)(罰金のこと)として、庄屋三貫文・年寄一貫文・小前百姓200文ずつが課せられたのである。


 浜松藩領の打ちこわし

 最後に取りあげるのは、弘化三(1846)年の遠州浜松藩領の打ちこわしである(曽根ひろみ「浜松藩弘化三年打毀し」『歴史評論』三二六号)。
 この打ちこわしは、藩主水野忠精の転封と井上氏の入封という領主の交代期に、とくに水野氏の悪政に対する怒りが、二度にわたる勧農長(かんのうおさ)庄屋=大地主への烈しい打ちこわしとなって爆発したものであった。 勧農長とは、天保十(1839)年に浜松藩の天保改革の一環として、凶作にそなえて囲米・貯穀を推進する目的で藩権力に登用された有力庄屋であるが、職務を乱用して私腹を肥やすものが多かったといわれている。

 

 打ちこわしの背景としては、まず、転封する水野氏が、それまで御用金・無尽諸事など、多様な形態で収奪した金子(きんす)についてはそのままにして、領内貧民に高利で貸し付けていた金子のみをさびしく取りたてようとしたことへの反発である。 ついで、打ちこわしに至る前段階として、庄屋をつうじて訴願運動がみられたが、高利貸付金の返済猶予の要求が藩によって拒否されたことである。

 さらに、積穀・無尽掛金の割返し要求の過程で、勧農長の積穀不正が露見したこと、などがあげられている。

 打ちこわしは閏五月十日に、浜松東北部の有玉村陣屋支配下の53力村の農民たちによっておこされた。

 羽鳥村の勧農長庄屋卯右衛門を手始めに、高畑村・橋爪村・上前嶋村・有玉畑屋村・有玉下村の各勧農長庄屋宅におよんだ。 ついで六月二十二日には、浜松東南部一帯でおこり、向宿村・瓜内村・江ノ島村・金折村・上松村の各勧農長庄屋宅が打ちこわされた。 三嶋村・自羽村の庄屋は、あずかっていた積穀金を差しだして、やっと打ちこわしをまぬがれた。 この間に打ちこわし勢は一万人余になったともいわれており、まさに全藩一揆の様相を呈していた。

 このように、打ちこわしの対象となったものは、村方ではほぼ例外なく勧農長庄屋であった。 城下で目標とされたのは、主として藩出入りの米穀商人と、それと結んだ藩役人であったといわれている。 しかし、打ちこわし勢が浜松城下にむかおうとしたところ、新藩主井上氏の調停により退散・帰村したため、襲撃をまぬがれたのであった。

 打ちこわしの参加層としては、この地方の地主小作関係の矛盾もあって小作人=貧農が中心で、これに水野藩政下の農民収奪の強化に反発する一部上層農民・庄屋層を含み込んで展開したものであったといわれている。 そして、当初は庄屋をつうじて藩への訴願として展開していた運動が、実力行使による積穀割戻しに発展し、さらに勧農長庄屋への打ちこわしへと激化していったものであった。



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