幕末の社会状況

 下田開港

 十九世紀にはいると、欧米やロシアのアジアへの侵出が激しくなり、日本にもしだいにその影響がおよびはじめた。 幕府は天11(1840)年のアへン戦争で清国がやぶれたことに衝撃をうけ、その二年後には異国船打払令を緩和し、漂着船などがあれば薪・水・食料をあたえることにしたが、鎖国政策はなお堅持していた。

  

 この200年余におよぶ鎖国政策は、嘉永六(1853)年のペリー来航によって打破されることになった。 すなわち、同年六月三日に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが率いる四隻の艦隊が、江戸湾入口の浦賀沖にやってきたのである。 そして、武力で威嚇しながら大統領の国書を受領させ、その返答をうけとるため明年再渡航することを通告して去っていった。

 翌嘉永七年一月、ペリーは七隻の艦隊を率いて再度来航し、幕府との交渉の結果、三月に日米和親条約が結ばれたのである。 それによって、幕府は通商は拒否したものの、下田・箱館の両港を開き、アメリカ船に薪・水・食料・石炭などを僕給すること、漂流民を救助すること、などを約束させられた。 そして翌年にかけて、イギリス・ロシア・オランダともほぼ同様の和親条約を結んだ。 こうして幕末の一時期、伊豆の下田は歴史の表舞台に登場することになったのである。

 アメリカは和親条約で満足せず、さらに通商を求めてハリスを送り込んできた。 和親条約調印後18カ月経過すれば、アメリカ領事が下田に駐在することを認めることがある、という規定によるものであった。

ハリスが通訳としてヒユースケンをつれて下田に到着したのは、安政三(1856)年七月のことであった。

   

 下田奉行は当初ハリスの滞在をこばもうとしたが、強硬な要求に屈して玉泉寺を提供した。 そしてその玉泉寺は、以後三年近くにわたり、アメリカ総領事館となったのである。 上陸した翌日にはきっそく旗竿が立てられ、日本の空にはじめて星条旗がひるがえった。

     

 ハリスは下田の領事館を拠点として通商条約の交渉を行い、江戸出府を強く求めた。 幕府はこれをかわし続けたが、ついに拒否しきれなくなり、翌四年十月にハリスは念願の江戸にはいったのである。

 同年十二月からはじまった通商条約の交渉は、翌五年一月まで14回におよんだ。 そして、条約の勅許が得られないまま、四月に大老となった井伊直弼のもとで、安政五年六月十九日に日米修好通商条約貿易章程(しょうてい)が調印されたのである。

    

 この通商条約により、開港場は神奈川・長崎・箱館、ついで新潟・兵庫となった。 下田は神奈川開港後六カ月で閉鎖されることになった。 それに伴って、玉泉寺のアメリカ領事館も、翌年五月に閉鎖されたのであった。


 プチャーチンの来航

 日米和親条約や通商条約にみられるように、日本の開港はアメリカの圧力によってもたらされた。 しかし、それ以前から諸国の通商要求はあり、シベリア開発を進めていたロシアも意欲的であった。 寛政四(1792)年にはラックスマンが漂流民大黒屋幸太夫(こうだゆう)を伴って根室に、ついで文化元(1804)年にレザノフが国書を持参して長崎に釆航した。 しかし幕府は鎖国の方針を堅持して、いずれも交渉を拒否したのである。

   

 アメリカが強力な使節を派遣したことがわかると、ロシア政府もきっそくプチャーチンを派遣することにした。 プチャーチンは嘉永六(1853)年七月に、ペリーより一カ月遅れて長崎にやってきた。 そして、千島・樺太の国境問題と通商を求める国書を呈し、幕府との交渉をはじめた。 しかし、十二月からはじまった交渉は妥結に至らないまま、翌嘉永七年一月にプチャーチンはマニラに退去した。 三月に勃発したイギリス・フランスとのいわゆるクリミヤ戦争を懸念してのものだった。

  

 同年三月、ディアナ号にのったプチャーチンはふたたび長崎にやってきたが、強力なイギリス艦隊との遭遇をさけてわずか一週間で北上・退去した。そして、箱館に寄港したのち、九月に大坂沖にあらわれ、幕府に下田での交渉を約束させたのである。

 下田でのプチャーチンとの交渉の日本側全権は、大目付筒井政憲(つついまさのり)・勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)であった。 十一月一日にはプチャーチンを下田郊外の福泉寺に招き、翌二日には逆にディアナ号上での饗応があり、実際の交渉は福泉寺で三日からはじまった。 ところが翌四日朝に大地震が勃発し、下田は地震の被害とともに大津波にもおそわれた。 二十七日に安政と改元されたので、この地震は一般に安政東海大地震とよばれている。 そのような災難に遭遇しながらもやっと交渉はまとまり、十二月二十一日に日露和親条約が結ばれた。 国境問題については、千島はエトロフ島とウルップ島とのあいだを国境とし、樺太は両国民雑居のままとされた。

 ところで、さきの大地震のため、下田町では全戸数856戸がほぼ全滅・流失し、85人が溺死した。 ディアナ号も大波に翻弄され、マストを折り、船底を大破し、五人の死傷者をだした。 そのため、戸田港(田方郡戸田村)で修理しょうとしたが、途中で沈没してしまった。 プチャーチンらはただちに代船の建造を願いでたところ、幕府もこれを許可し、韮山代官江川英竜(ひでたつ)の取り締まりのもとに、戸田港で造船されることになった。

  

 戸田港で建造された日本最初の西洋型帆船は、二本マストで全長25m・最大幅7m、排水量87トンの小型船であった。 ロシア人将兵の設計・指導で、戸田はもとより、土肥・松崎などからも集められた船大工・頭領・人夫らが建造にあたった。 翌安政二(1855)年三月十日に完成した帆船に、プチャーチンは感謝の意をこめてへダ号と名づけた。 そして、十八日にこの新造船へダ号で、帰国の途についたのである。

 ディアナ号の遭難と救助、そしてへダ号の建造は、日露の交渉史において、まさに両国民の友好関係を象徴する出来事であった。 それはまた、わが国の造船史上でも画期的なことであり、戸田は近代造船業の発祥の地となったのである。


 韮山代官江川英竜(ひでたつ)

 幕末期の伊豆で忘れてはならない人物に、韮山代官であった江川英竜(坦庵(たんあん))がいる(仲田正之『江川坦庵』)。 江川家は中世以来の名家で、英長(ひでなが)の代の小田原攻めで徳川家康にしたがい、韮山の地で世襲代官としての地位を得た。 また、家康と江川氏の養女お万の方(養珠院(ようじゅいん))とのあいだに、いわゆる御三家である紀伊の頼宣(よりのぶ)・水戸の頼房(よりふさ)がうまれたことも、江川氏の立場を強くした。

   

 この韮山代官江川氏のなかで、もっとも著名なものが英竜(坦庵)であった。 英竜は享和元(1801)年に英毅(ひでたけ)の次男としてうまれたが、兄の死によって文政四(1821)年に嫡子となり、父の死で天保六(1835)年に代官職をついだ。 就任当時の支配高は五万四〇〇〇石余、当分領地二万四〇〇〇石余をあわせると八万石に近かった。 質素倹約を旨とし、食事は一汁一菜、冬でも火鉢を使わず、袷(あわせ)一枚ですごしたという。

 英竜は代官就任当初から民政にはげみ、公正な政治、人材の登用を心がけたが、他方で、はやくから海防問題に関心を示していた。 その海防に関する建議書は、30通を超えているのである。 異国船の来航がみられるなかで、伊豆諸島や下田の重要性、浦賀水道の防禦案、海軍や砲台の整備の必要性などが主張されている。 とくにユニークなのは農兵論で、農兵を採用して海防にあたらせようとしたことである。 幕府はなかなかこれを許そうとはしなかったが、ペリー来航の直前、嘉永六(1853)年五月に下田警備の足軽についてのみ許可した。 そして、実際に農兵が取りたてられたのは、英竜の没後になった。

 水野忠邦には親任され、天保十年に相模・安房・上総および伊豆沿岸の巡見に抜擢されて副使となった。

 ところが、海岸測量で蘭学者を用いたため正使の鳥居耀蔵(ようぞう)と対立し、いわゆる蛮社(ばんしゃ)の獄(洋学を憎む鳥居耀蔵の譲訴(ざんそ)により、渡辺華山・高野長英らが捕らえられ自殺した)の誘因となるというようなこともあった。

 しかし、時代の流れは洋学を忌避するだけではすまなくなっており、幕府も兵制改革にのりださざるをえなくなった。 天保十二年には英竜は高島秋帆(しゅうはん)に入門し、徳丸原(とくまるがはら)(東京都板橋区)演練(えんれん)に参加するなど、西洋砲術を学んだ。

 同十四年五月には鉄砲方兼帯を命ぜられ、募兵の装備の改革を企てるが、閏九月に水野忠邦が失脚して沙汰止みとなった。 その後は韮山を中心に砲術教授や西洋砲の鋳造などを行い、晩年には韮山郊外に反射炉をきずくが、その完成は没後になった。

 嘉永二年にイギリスの軍艦マリナー号が下田に入港したさいには、英竜はみずからこの応接にあたり、退帆交渉に成功している。 ペリーの来航直後には、勘定吟味役格に列せられ、海防の議に参画することになった。 ところが、下田開港や日露交渉問題などに忙殺されて病状が悪化し、安政元(1854)年十二月に幕命により出府したが登城できず、翌年正月江戸屋敷で死去した。 満五四歳であった。


 東征軍と神主諸隊

 欧米列強との開港後、260年余続いた幕藩体制は急速に崩壊していった。 ペリーの来航から明治新政府の成立までは、わずか15年にすぎなかったのである。 尊皇攘夷運動の過程で朝廷の権威が高まり、朝廷と幕府との協調をはかろうとする公武合体などの動きもあったが、やがて慶応二(1866)年一月に薩長連合が成立すると、討幕運動へと激化していった。

  

 一橋慶喜(よしのぶ)が十五代将軍になったのは、同年十二月のことであった。 慶喜はフランスの援助を得て陸海軍の強化をはかり、老中以下の職制を見直して人材を登用するなど、幕政改革を強力に進めた。 しかし、大勢はいかんともしがたく、翌慶応三年十月に朝廷に大政奉還を行った。 ところが、ほぼ同時期に薩長両藩に倒幕の密勅がくだされ、十二月には王政復古の大号令が発せられるとともに、慶喜に対しては「辞官・納地」の方針が決定された。

 

 当時慶喜は二条城から大坂城にしりぞいていたが、この方針に憤激した幕府方は、募兵および会津・桑名両藩の兵をもって、京都へ進撃することになった。 そして、これを迎え討とうとする薩長両藩を中心とする兵とのあいだで、慶応四(閏四月に明治と改元)年一月に鳥羽・伏見で合戦となった。 激戦の詰果、幕府方の大敗北となり、慶喜は大坂城を脱出し、海路江戸へと逃げ帰ったのである。 いわゆる戊辰戦争の始まりであった。

 薩長両藩兵を中心とする東征軍は、二月に東海道・東山道に分かれて進撃を開始し、三月の西郷隆盛・勝海舟の会見を経て、四月に江戸城にはいったのである。 東海道を進んだ東征軍は、まったく戦闘がないまま江戸にはいったが、東海地域では神主諸隊がこれに加わった。 すなわち、遠州報国隊・駿州赤心隊(せきしんたい)・豆州伊吹隊(いぶきたい)などであるが、国学運動との関わりもあって、とくに遠州報国隊が注目される。

 鳥羽・伏見の戦いの結果が遠州地方にもたらされると、浜松井上藩の御用商人で国学研究会の池田庄三郎らは京都にむかい、官軍に協力しょうとした。 しかし、桑名での従軍希望はかなわず、ひとまず浜松に帰って、役に立つ隊を編成する準備をはじめた。

 そのころ京都の吉田神道本家や尾張藩勤王誘因係などのよびかけもあって、西遠地方の神主たちは二月十七日に浜松諏訪社の杉浦大学の家に集まって協議し、翌十八日に桑原真清と杉浦の名前で同士勧誘の檄文をまわした。

 これに応じた200余人で一団、中・東遠でも石川依平らの門人たちが中心になって100余人、これらが合併して300余人で報国隊を結成したのである。

 これらの参加者のうち、神主・社家が三分の二を超えていて、身分不明のものも多いが、ほかに農民・藩士・商人・医師などが数人ずついた。 必ずしも全員が勤王精神でつらぬかれていたというわけではなく、神職相続や神葬祭実現など、みずからの利害のために参加したものも多かったといわれている。

 報国隊ではきっそく従軍の嘆願書をだすが、当初は天竜川などの警衛しか許されなかった。 三月二十二日になってやっと従軍が許可され、二十八日までに駿府に集合したものは、桑原・杉浦を始め80余人であった。駿州赤心隊100余人のなかからも、従軍するものがあった。 彼らは江戸では諸門の警衛にあたったり、上野の彰義隊の討伐隊にも参加した。 そして、十月に有栖川宮(ありすがわのみや)の凱旋が決まると、これに供奉(ぐぶ)して帰国・解散することになった。 報国隊が浜松に帰着したのは、十一月十五日のことであった。

 ところが、彼らの帰国よりはやい八月に、こともあろうに徳川宗家の後継者として田安亀之助(徳川家達(いえさと))が、駿・遠70万着の大名として駿府城にはいっていたのである。 報国隊や赤心隊の参加者たちが危供していたとおり、両隊員に対する旧幕臣たちの怨みは深く、報復行為が頻発した。御穂(みほ)神社の神主太田健太郎は殺害され、草薙神社神主森斎宮(いつき)は重傷を負わされた。

 このため、隊員救済の目的で、軍務官大村益次郎は東京に招魂社(しょうこんしゃ)を設立し、その社司に両隊員を採用しょうとした。 国元では、東京移住をめぐって「移住論」と「不移論」とが対立したが、翌年秋に両隊から各31人ずつ、あわせて62人が東京で招魂社に奉仕することになった。 そしてこの招魂社が、のちに日本軍国主義の精神的・宗教的な支柱ともいうべき靖国神社となっていったのである。



ええじゃないか




 幕末の一時期、慶応三(1867)年七月なかばごろから翌年四月ごろにかけて、東海地方や近畿地方を中心に、一般に「ええじゃないか」とよばれた狂乱的な民衆運動がおこった。 その名称の由来は、民衆が踊りながら、「ええじゃないか」「よいじゃないか」などととなえたからであるが、すべての地域でこのはやし言葉で乱舞したというわけではなかった。 これは関西地方に特有だったようで、東海地方では「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」「このおかげさん」などといっていたようである。

 伊勢神宮や秋葉大権現を始め、諸社の御札が降ったということを契機にはじまるのであるが、これまでに知られているもっともはやい事例は、確実なところ七月十四日の三河牟呂(むろ)村(愛知県豊橋市)の御札降りであるといわれている(田村貞雄『ええじゃないか始まる』)。

 それ以後、吉田宿(愛知県豊橋市)から、西では八月にはいって御油宿(愛知県豊川市)、ついで十一月にかけて藤川宿(愛知県岡崎市)、刈谷町(愛知児刈谷市)、名古屋城下へと広がった。 東では八月九日に新居宿(浜名郡新居町)、十日に浜松城下、そして浜松周辺に御札降りがあり、十五日には見付宿(磐田市)に達した。 九月にはいって四日に横須賀城下(小笠郡大須賀町)、十二日には金谷宿(榛原郡金谷町)にも本格的な御礼降りがあり、「ええじゃないか」がはじまった。 そして、この運動はさらに大井川を越えて、駿河に至るのである。

  

 このように、「ええじゃないか」の乱舞は東海道の宿伝いで広がっていった。 降った御札の内容は多種多様であるが、東海地方では秋葉大権現のものが多かった。 秋葉三尺坊大権現は遠州秋葉山に鎮座し、火伏(ひぶせ)の神として知られており、各地の秋葉講にもみられるように、秋葉信仰は遠州を中心に、東海地方に広がっていたからである。
 この御札降りは、もとより人為的なものであった。 富裕な家に降ることが多く、民衆はそこで酒食の振舞いにあずかった。 それがさらに狂乱的な乱舞に発展していったのは、お蔭参り御鍬祭(おくわまつり)の記憶の復活ともみられている。 討幕派がこれを利用したともいわれているが、いずれにしてもこの「ええじゃをいか」は、幕末から明治初年にかけての「世直し一揆」とよばれた一揆・打ちこわしとは別の意味で、民衆の「世直し」要求の特異なあらわれ方であったといえよう。






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