明治維新から日清・日露戦争

 明治維新と地租改正

 徳川家達 静岡学問所 加藤弘之

静岡県は維新によって、まず徳川家達(いえさと)(田安亀之助)の静岡藩への移住とその藩知事としての活動、そして大量の幕府側知識人の静岡住まいからはじまった。 クラーク加藤弘之西周(にしあまね)らの活躍した静岡学問所江原素六(そろく)の活躍した沼津兵学校は、近代国家の成立にあたっての重要な人材供給源として機能した。

 西周 江原素六 沼津兵学校 

 彼らは幕末の知的エリートであった。 最後の将軍慶喜(よしのぶ)にしたがった近代日本の代表的財界人渋沢栄一も静岡に滞在し、日本初の商法会所や近代的な西洋紙会社を設立した。 慶喜は慶応三(1867)年十月将軍職をしりぞき、徳川宗家を家達にゆずり、家達の静岡藩への移住に伴って、宝台院(ほうだいいん)にはいり、謹慎生活を続け、のちに明治三十(1897)年東京に戻り公爵となって、大正二(1913)年に没している。

  宝大院 宝大院

 静岡藩のほかに、浜松県、韮山県の三県が当初の行政組織であった。 これらが明治九年八月二十一日に今日の姿のように、静岡県として統合された。 韮山県は県令柏木忠俊のもと、現在の神奈川県や東京都西部をも包含する大県であった。

 宝大院 大隈重信

 維新の改革にとって重要なものは身分制の廃止、そして地租改正をあげることができるし、静岡県のように富士川、大井川、天竜川の三大河川が流れているところでは、横断する橋や山地と海岸をつなぐ通船などが重要だった。

 こうしてたとえば大井川の川越人足たち100戸は、渡船が明治三年に創業されたために、その長年の職を奪われ、丸尾文六に率いられて牧ノ原開墾を旧武士団と同様に行って、この地を茶の生産地に変えていく事業に取りくんだ。 そのうち、定住に成功したのは、33戸であった。 丸尾たちは富士製茶、商会を経営し、その後にはアメリカのサンフランシスコに支店を経営して、手広く活躍したが、大草高重(たかしげ)や、最後の県令で初代県知事をつとめた薩摩士族関口良輔(りょうすけ)(隆介)ら300人にものぼる士族開墾の場合は、ほとんどが失敗している。

 引佐郡の事業家気賀林(きがりん)も士族授産の一貫として三方原開墾に着手している。 沼津地方では愛鷹山の開墾が移住士族によって取りくまれた。 失敗したとはいえ、江原素六らは牧牛社という搾乳事業を興している。



 地租改正条例が明治六年に発布され、全国的に土地の収穫量の測定にあたる丈量を行うべく、村落名望家である村惣代、百姓代の協力を得ながら、土地の収穫見積もりとそれに基づく地租の算定事業が実施された。

 しかし旧貢租とほぼ同水準の財政収入確保のための地租算定を必要とした維新政府は、ときには強引な算定を行い、農民の反発を招くことも多かった。

 静岡県の場合、地租改正事務局(事務総裁大隈重信)編纂の『地租改正紀要』によれば、当時の浜松と静岡、韮山の三県で、民衆レベルでその対応は相当異なった。 東部、中部では抵抗感はあったものの、目立った動きはまずなかった。

 ところが浜松鼎は異なっていた。 ここでは地価算定の基礎である一反歩(10アール)当り米1.2石は高すぎるというのが地元の反応であり、民会が組織され、浜松県民会として丈量のやりなおしを要求していた。

 この運動の先頭に立ったのは、岡田良一郎ら報徳運動家であった。 しかし政府はこれを開きいれず、強行し、そのかわりに明治十三年の地価修正には応じるからとして、抵抗をかわし、さらに浜松県を廃止して明治九年には三県を統合して、新しく静岡県を設置した。 地租改正は、定額金納方式として行ったために、客観的には農民負担はインフレーションとともに漸減することになった。 つまり農民的余剰が地主を中心に蓄積され、資本主義工業化の原資の一端を構成した。


 自由民権運動の始まり

 自由民権運動は全国的には、明治七(1874)年、板垣退助らが前年の征韓論による下野以後、土佐に帰り、士族を中核とした運動として愛国公党を組織化し、租税共議権をまずは士族にあたえ、その後民衆が目覚めれば、民権として確立せよ、と政府に要求する運動として開始された。

 のち1870年代後半から80年代前半にかけて、とくに明治十年の西南戦争は、軍費調達の必要から多額の財政支出を要し、このために出動を要請された兵士たちはついに十分な給与支払いをうけることもなかった。

 彼らのなかでも、近衛兵は大蔵卿大隈重信邸をおそって、給与支払いを獲得しょうと活動した。 当時、この動きを察知した陸軍卿山県有朋は、彼らの騒ぎを利用して権力的支配の強化につとめたといわれる。

 竹橋事件がこれである。 これは当時の自由民権思想にそまった兵士たちが関与したという。 この事件に参加した兵士はその後、逆賊として、子孫に至るまで、逼塞(ひっそく)して生きねばならなかった。 その一人に旧川根村に帰り着いた兵士もいた。

 さて、この騒動を利用して、山県は軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)と参謀本部条例を発するなど、軍事組織の権力内部での相対的自立化をはかった。 軍人は天皇の軍隊として直隷するとされ、「上官の命は天皇の命と心得よ」、兵士の生命は鴻毛(こうもう)よりも軽いと認識せよとしたのが軍人勅諭であった。

また新聞紙条例、集会条例、讒謗律(ざんぼうりつ)などの弾圧法規と憲兵制度による軍隊内外の規律、思想統制組織をつくった。 これを端緒として、その後の変動はあるものの軍部の政治への影響力が強大になる根拠となっていった(山中永之佑『日本近代国家の形成と官僚制』)。

 この時期、ヨーロッパで経済不況がはじまり、養蚕業を背景とした生糸輸出が困難におちいった。 幕末開港以来、ヨーロッパへの生糸や蚕卵紙の輸出などで景気を拡大していた秩父の養蚕地帯の苦境は、人びとに政治への関心を高めさせていた。 アメリカ向け輸出が好調な信州地方は、安定していた(石井寛治『日本の産業革命』)。

 金貨の流出と貿易赤字の増大、さきの西南戦争での軍費支出による財政インフレーションは激しさを増した。 また大蔵卿大隈重信らはこの状況を克服する政策手段として、一方で、酒造税を増徴し、他方で、士族への金禄公債証書支払いを、イギリスからの外債導入で処理しょうともくろんだ。

 士族ばかりか地域の名望家を始め下層農民たちも租税共議権要求の運動に広く結集していった。 自由民権運動が士族の枠を越え、下層民衆を含む全国的運動となり、また国会開設と憲法制定要求へと、地域間題から全国問題へと広がりをみせていった。

 静岡県でも全国にさきがけて国会開設要求が提出されていった。 こうした運動をささえたのは、政治結社と日常的な農事改良のための「扶桑社(ふそうしゃ)」などの学習結社などであった(色川大吉『自由民権』)。 多彩な結社が組織され、農民たちの夜学会や青年組織が登場した。 直接にはこの運動に結びつかなかったが、県内各地の報徳運動によって、掛川の岡田良一郎らの冀北学舎(きほくがくしや)や片平信明らの杉山報徳社などの夜学会組織を手がかりに、青年会が組織化されたりしたのも1870年代から90年代にかけての時期であった。


 明治十四年政変と静岡事件の発覚

 武蔵国秩父の運動は民権運動の先頭を切った。 静岡県では下層農民を中心に、秩父の困民党のように、とくに伊豆地域を始めとして、活貧党・借金党などの名称をもち、借財の棒引きといった高利貸商人への要求、集会、襲撃準備といった動きが全県的に拡がった(樋口雄彦「東駿・北豆の貧民党・借金党」『民衆運動の(近代)』)。

 これは板垣らの自由党が解党し、黒田清隆ら北海道開拓使官僚が官有物の不当に安い価格での払下げを策謀し、一旦天皇によって裁可されたからである。

 しかし民権派新開などのキャンペーンもあり、さらに政府部内では大蔵卿大隈重信による民権派の議会開設要求への同調もあって、政府としては官有物払下げの停止を行う一方、大隈の下野と政商三井の支援を得たとされる板垣の洋行によって、沈静化がはかられた。

 これを明治十四(1881)年の政変という。 1880年代前半は大隈のあとをおそった松方正義による財政政策で、財政インフレから引締施策がとられ、国立銀行券の明治十五年設立の日本銀行による貨幣統一へ、貿易活動では十三年設置の横浜正金(しょうきん)銀行設立で貿易金融の一元化がはかられ、資本主義的蓄積をめざして、十三年の工場払下概則に基づき、官営事業の民間への払下げを積極的に推進して、財政負担を軽減する一方で、政商資本の財閥独占への転化を促進し、海外取引の面で関税自主権の回復と治外法権を撤廃する目的で、国力増強に邁進するとの方向性が顕著となった。

 こうして全国的にも物価、地価下落は時代の流れとなり、地租払いに苦慮した中間層や、一部上層農民の土地の手離しがあいついだ。 報徳結社組織化ともあいまって、地元資産家の力による二俣紡績や島田紡績が活躍し、第三十五や浜松第二十人、見付第百二十四、沼津第五十四、二俣第百三十人国立銀行など全国的にみても多数の国立銀行、銀行類似会社が多数設置されたのもこうした時代背景をうけてのことであった。 当時元老院議官関口隆吉は東海各県を訪問して、静岡県には金融機関が多く、活発な製茶取引などが行われていることを報告している。

 静岡県でも米価は明治十六年ごろには松方財政の開始した十四年に比して半額となり、地価も三分の一に下落した。 むろん財政緊縮とともに、壬午(じんご)・甲申(こうしん)両事変を契機とした朝鮮への干渉・出兵を始めとして軍費増強のためにこの時期、国税、地方税の増徴も行われていて、県全体で酒造石数は十五年から翌年にかけて実に半減するほどの経営危機を招いていたのである。

 徴兵制度が明治五年に導入されてから、忌避なはかる民衆は免除規定を利用して対抗してきた。 そこで徴兵令を改めて徴兵強化が行われたのもこの時期であった。 これらに対して民衆の不満は増大していた。 戸長制度の官選への転換は民衆への支配強化を目して十七年に行われた。 県下では民衆の生活圧迫に対して借金党の形をとって各地で借金の無利息長期払いを商人にせまるなどの運動が行われている。 明治十七、十八年前後はそれが活発化し、ときには地域の金貸しや銀行機関に対して武装襲撃の噂が乱れとぶほどであった。

 明治十七年六月、自由民権運動左派の大臣暗殺計画が発覚し、検挙された。 検挙された人びとの中心が静岡県人であったので、これを静岡事件とよぶ。 湊省太郎・鈴木音高・宮本鏡太郎・鈴木辰三の静岡出身者、中野二郎三郎・山田八十太郎ら浜松グループ、広瀬重雄・小池勇らの県外人であった。

 彼らは明治十六年末から翌年二月ごろに武装蜂起で政府転覆をめざす方針を決めたらしい。 その軍資金を確保するために、強盗などを働いたが、たいした成果をあげたわけではない。 そのうち十七年十二月には名古屋・長野児飯田などの激化諸事件の検挙者もではじめた。

 十九年五月下旬には湊・鈴木らは東京に転住し警視庁の手で逮捕されたのは六月十二日であった。 彼らは大臣暗殺の嫌疑をうけた。 しかし彼らは国事犯として扱われたのではなく、強盗罪であった。 彼らの家族や縁者はその後も周囲からは冷たい目でみられ、今日に至るも真相は闇のなかである。 明治三十年特赦により出獄した鈴木音高は、シアトルにわたり、東洋貿易会社を経営し、三十二年に憲政会自由派の県内町村長、郡長の支援を得て1660人の農工業視察を名目とした移民者を渡米させて、当時のアメリカの移民禁止と日本政府の渡航制限に違反したという事件を引きおこし、憲政会松本君平派の攻撃をうけた(『ドキュメント静岡県の自由民権』)。


 東海道線の開通と国会開設

 静岡県では早くも明治五(1871)年には浜松藩庁に磐田郡彦嶋村の名倉太郎馬らが畦畔(けいはん)改良を出願し、届が認められたのは十二年、一区画程度の小さな規模ではあったが、県下でも全国的にも最初の畦畔改良、のちの時代の耕地整理事業が実施された。 これは江戸時代の農民の分散的で複雑な農地占有を、二宮尊徳の報徳思想に基づく正条植えが可能で、水利条件の改善のための水路の区画に沿った流路変更、所有地の交換分合を行ったのである。

 これによって農作業の合理化がはかられ、生産性の上昇につながったことを知った地域の豪農たちのなかでも耕地整理の重要性への認識が深まっていった。 また松方の財政政策がインフレから緊縮への大転換をつうじて、資本の原始的蓄積を開始する重要な梃(てこ)となった。

 この過程は産業的には、綿糸紡績の近代工業が官営事業から脱して民営で発展を開始する契機となった。 また国内綿花依存を離脱して、清国、インドへと供給先が変わり、三井物産の綿花商売がはじまった。 農業分野でも米のほかにその他商業的農産物の生産へと大きく変貌した。 とくに県西部地域の煙草・藺草(いぐさ)・ヘチマ・乾燥イモの生産など、バラエティにとんだ展開がみられた。 県中部や東部では製茶・ミカン生産が進められ、富士山麓の山岳地帯や中部、西部の農村を中心に農家による養蚕業の兼業化が急速に進められていったのも、こうした商業的農業の発展を示した(『静岡県主要産物調査書』『静岡県蚕糸業沿革』)。

 近代静岡県は他の地域と同様に、当初は河川の舟運や県を取りまく海洋を利用した沿岸海運、素封家の道路やトンネル開削への資金提供などに依存して、交通網の整備をはかってきた。

 東海道はむろん幹線交通路であった。 交通手段は陸路はまだ荷車を牛馬に牽かせる程度のものであった。 これが一変するのは、明治五年の東京新橋と横浜間に開通した路線を別とすれば、東京にガス灯がともり、鉄道がしかれるようになってからである。



 静岡県でも官設鉄道として東海道鉄道が国会開設にまにあうように着工され、開通するのは二十二年四月であった。 ときの県令関口隆吉は開通式のための試乗で運悪く、静岡用宗付近の石部で転落し大けがをして、それがもとで死去するという痛ましい事故に遭った(『静岡県史』資料編18)。

 この前後から民間の出資者による民営軽便鉄道敷設の動きが活発化して、1890〜1910年代の鉄道ブームがおこっている。 静岡県でも東海道鉄道工事のために明治二十年蛇松(じゃまつ)線が沼津・蛇松間に、二十三年富士馬車鉄道が鈴川・入山瀬間に、神奈川の小田原と伊豆熱海を結ぶ人車鉄道が二十八年に、また静岡茶町と江尻港を結ぶ茶輸出のための静岡鉄道が開通したり、さらに浜松に大日本軌道が営業した。

 この時期から1910年代に県下では鉄道網が充実し、東西を結ぶ東海道線に対して南北や都市内部を結ぶことが必要となっていった。 静岡県は「鉄道王国」さながらの観があった(山本義彦『静岡県鉄道写真集』)。

 明治二十二年帝国憲法が発布された。 また帝国議会は二十三年に開設された。 これは明治十四年政変に際して、議会開設を約束したことに基づく。 そのための総選挙は二十三年七月に実施された。

 第一にそれは国税一五円以上を納付するものに被選挙権を、また10円以上の納付者に選挙権を付与するという制限されたものであり、全国民の1%程度を対象としていたにとどまる。

 現にこの道挙での有権者は全県で11,648人で当時の人口は109万3134人であるから、1.1%であった。 第二に小選挙区制度のために供応買収が頻繁に行われた。 全県七区までの立候補者は72人の乱立ぶりで、当選者は得票率として第一区39.3%、二区46.0%、三区46.0%、四区51.7%、五区34.1%、六区19.3%、七区は二人で各74.2%、47.2%である。

 また投票率を割りだしてみると、七区は二名連記制のため除外すると95.7%に達している。 当選した大成会派の西尾伝蔵の選挙参謀であった久野治太郎の日誌は興味深い(『袋井市史』資料編4)。

 大成会は政府吏党とされていて、とくに同時に当選した岡田良一郎がこれに参加したのには批半があいついだ。 かって彼は地租改正のやりなおしを要求した浜松県民会議長だったからである。 県内選出議員は当選後の態度を含めて吏党派にくみしたものが多数で、その後の選挙でもその傾向は変わらなかった。


 日清・日露戦争と民衆

 日清・日露戦争は近代日本のはじめての本格的な対外戦争であった。 日清戦争は明治二十七(1894)年八月にはじまり、翌年四月に日本の勝利による馬関(下関)講和条約の締結をみた。 この条約は、中国が台湾・膨湖(ほうこ)諸島を日本領とすることに同意し、また朝鮮に対する影響力行使を承認し、五市の開港を承認した。 また日本は中国における経済活動の自由を獲得した。

 これらの諸条項は最恵国条規により、既存の国際条約にも援用され、イギリス・アメリカなどが清国を経済的な領土分割の条件を得るきっかけとなった。 そればかりか三億余円の賭償金を獲得できたことが、その後の軍備拡張と金本位制の成立に多大の役割をになった(高橋誠『明治財政史研究』)。

 日清戦争は、それほど多くの軍隊の犠牲を伴った戦争とはいえなかったが、ただこの戦争がきっかけで、日本は台湾を獲得して植民地経営にのりだすことになった。 台湾銀行が政府直轄の日本銀行券を発券基礎とした台湾銀行券を発行する任務をもちつつも、他方で植民地経営のための資金供給商業銀行的任務もおびて、福建省を中心に中国南部への影響力を広めていった。

 また日本は庶農(しょのう)を収奪してサトウキビ栽培に積極的に取りくみ、製糖業をおこした。 周智郡森町出身の精糖王鈴木藤三郎もこの時期に前後して世界の製糖業の調査にでかけた。 製糖用機械技術の習得のための欧米視察とジャワ・台湾のサトウキビ生産実態の調査も行った。 彼は帰国後、東京小名木川に工場を設け、製糖機械製造と製糖業をいとなんだ。 さらに大日本精糖や台湾精糖に出資するなどの活躍を続けた(『森町史』資料編)。

 これに対して日露戦争は、巨大な戦争資金負担とそのための非常特別税や地租増徴に人びとは苦しめられたばかりか、世界一の大陸軍国ロシアとの対決は多大の人命なおとす結果となり、アメリカの仲裁がなければ、わが国の勝利もおぼつかないという状態であった。

 そしてこの大量の人命を失ったことに対して、各町村では篝火(かがりび)を焚いて弔い行事を繰り返し、他方で応召者への稿軍(こうぐん)行事もいとなみ、村の学校長を始め訓導・児童・青年団・愛国婦人会などの教化団体を上から組織して村民ぐるみ、国民ぐるみの戦争動員体制にのみこんでいった。

 庶民にとっては大黒柱である男手が多数犠牲者となったことが、支配者の推進する排外主義的な反ロシアのキャンペーンにのっていく結果をもたらした。 そしてその後の戦争体制の基本はこの時期につくりだされたといっても過言ではない。

 村葬や稿軍の祝典に際して地域の女性たちは米の炊出しなどにかりだされ、筆者の調査ではその回数も愛国婦人会会員一人当り年間52回にもおよぶ地域もあった。 むろんこうした動員にたえることのできる家は多くはない。 明治三十六年の磐田郡ではなんと全女性人口の21%でしかなかった(『袋井市史』通史編)。

 全国民的動員はのちの第二次大戦で本格化した。

 日清戦争末の、明治二十八年に清水港は外国貿易港外貿易港として政府が許可した。 つまり同港は横浜開港場以外に、県内から外国への貿易取引が可能となったのである。

 当時の主力はなんといっても製茶であった。 従来、横浜まで輸送されて外国にむかっていた製茶は、これ以降、もっぱら清水港から直接に輸出されることになり、現に「横浜商業会議所月報」でみても一気に横浜港からの製茶輸出量は激減し、他方、清水港からの輸出が激増をみせた。

 この動向はおよそ第一次世界大戦まで続き、その後、日本の製茶輸出は衰退する。 それは1900年代にはいって、インド・アッサム地方の製茶の質と能力が高まったために、静岡県産への需要が凋落したからである。 当時、静岡県知事は北米シアトル駐在日本総領事館にあてて、現地の人びとの茶の噂好調査の依頼を行っており、いかに製茶農家に外国市場での需要の傾向に気配りしていたかを知ることができる(外務省外交史料館所蔵文書)。
 おりしも当時はアメリカで排日気運が高まっていた時期でもある。 またそれ以前、1880年代の「磐田郡茶業組合報」にも、インドの紅茶やウーロン茶の製法に関しての情報が掲載されていた。 それほどに地域では国際的情報が流されていたのである。


 地方改良運動と産業革命

 日露戦争は軍費の約60%をロンドン金融市場で獲得した外債によってまかなわれたばかりか、国内的にも公債、非常特別税、地租、営業税その他間接税の増税によった。 こうして明治政府はこれによって疲弊する村落社会の活性化をはかるために「地方改良運動」に取りくむほかなかった。

 地方団体の財政力強化による中央政府負担の軽減をはかり、そのうえで、軍拡財政を実行していったのである。 部落有財産の統一の提起はその一つであった。 明治三十二(1899)年に導入された町村制により、伝統的な村落が財政規模の確保のためにあらたなより広域の町村に合併されたさいに生じた封建時代から続いてきた自然村である旧部落の共有財産をあらたな行政町村に寄付して、もって地方財政強化をはからせたのである。

 また人びとの生産の統一をはかるために教化組織を結集して、学校長、訓導、男女の青年会、愛国婦人会、在郷軍人会、村の鎮守、村社、報徳社の集まりなどを多様に結集させていった。 また「模範村」を指定して、勤倹貯蓄、村社の共同清掃、時間観念の励行、模範者の奨励などの徳目と行動を村ぐるみで一体化させ、民衆統合をはかっていった。

 静岡県での模範村として経済計画を設定したのは、田方郡田中村、安部郡浅磯村、引佐郡井伊谷村などである(『引佐町史』下巻)。 もっともそのようなことをしても人びとの暮らしむきが一向に変わるわけではないので、心底からこの運動に人びとが期待できるものではなかった。

 さきに述べたように1890年代にはじまる地域鉄道網の発達は地域の産業革命を推進するうえでの大きな役割をになった。 日清戦争前後から浜松地域では綿織物業の織機が改良工夫されていった。 80年代以降織機の技術開発に努力してきた豊田佐吉は郷里の鷲津をはなれて愛知県で活躍したとはいえ、彼のカ織機開発が遠州地域の織物業に多大の貢献をしたことは逸することはできないし、鈴木道雄(鈴木織機)鈴木政次郎(鈴政式織機)の織機生産はこの時期から開始され、第一次大戦期には、サロン織りを行い、南洋方面の需要にもこたえられるようになった(『静岡県の昭和史』)。

 そして和歌山県出身の時計職人山葉寅楠が飾り職人河合小市の協力ではじめたピアノ生産もこの時期軌道にのった。 富士川周辺の製紙業でも機械式の洋紙が製造されるようになり、和紙製造にとってかわった。 もっとも洋式製紙は渋沢栄一が明治八年に創業した「抄紙会社」に16歳で入社した渋沢の甥大川平三郎が二十二年に開業した王子製紙気田工場を先駆けとして、富士製紙がわが国最初の砕木パルプ製造に成功して、本格化していった。

 鉄道院浜松工場が進出してきた浜松では機械金属下請工業が成長をはじめ、日本楽器が好調な輸出品としてピアノを製造していった(『静岡県史』通史編5)。 さきにみた鈴木藤三郎も佐吉もともに80件を超す特許件数の多いことで知られる。 藤三郎は製糖技術から乾燥器、蒸留器など、多角的な技術開発をしたことで、また佐吉は織機技術の改良で一貫していた点で、それぞれに独自性をもっている。

 彼らはまさに「特許王」の異名がたてまつられるにふさわしい。 大正期にはいると、動力源が蒸気力から電力に移行するにつれて、地域の小経営にも小型電動機が導入され、力織機の電化が進展していった。


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