大正デモクラシーと地域社会


 第一次世界大戦と米騒動

 第一次世界大戦が勃発すると、初めのうちは大戦前からの慢性不況を引きついで、しばらく景気が低迷した。 しかし大正四(1915)年のころには、景気は拡大基調になった。

 イギリスがドイツとの戦争のために、とうてい既得の東アジア市場をまもることができず、空白となったからである。 日本の綿製品はこの時期、この地域に大量進出した。 これらの地域では広幅物が利用されていたので、広幅に対応する織機の生産も必要となった。

 すでに述べたように、静岡県でも浜松地域の綿業界はこの時期から輸出向け産地として活躍をはじめた。 鈴木政次郎が広幅用織機を開発したのは、まさに時代の要請に応えるものであった。 鈴木道雄が日清戦争以降に織機製作につとめ、また大戦期以降、山東の日本楽器が輸出品としてのピアノを製造する力量をつけた。

 むろん当時、日本楽器といっても世界的に知られていたわけではないので、後発のものがよくやるように、ドイツなどの有名ブランド名をつけて販売につとめたこともあった(くわしくは静岡県内務部『静岡県之産業』参照)。

       

 ここで逸することのできないのは、静岡市に設立された静岡燐寸(マツチ)が虎燐寸の商品名で東南アジア市場を席巻しはじめたことであろう。 というのは大戦まで、スウェーデンのマッチトラストが支配していたが、戦乱でここでも日本企業に敗過したのである(山本義彦『戦問期日本資本主義と経済政策』)。

 大正七年四月前後には大戦景気をうけて、物価の高騰と品不足があいついだが、ちょうどその時期、前年のロシア革命に恐怖感をいだいた日本・イギリス・アメリカなどの諸国が社会主義革命干渉戦争に打ってでた。

 シベリア出兵がこれである。 シベリアの反革命地方政権を防衛するというのである。 わが国農商務省は三井物産・鈴木商店に対してシベリア派遣兵士の糧食として米の買付けを命じた。

 これを機として人びとは一気に怒りを爆発させ、富山県婦負(ねい)郡魚津町の半農半漁、しかも沖仲士に従事していた女性たちの騒動が最初であったが、物価の高騰という可燃材料は各地にあったわけで、神戸市の鈴木商店焼打ち、京都市内の焼打ちなど、零細な商店主、低賃金労働者、被差別部落民などを中心として全国的な都市部での騒擾状態となった。

 静岡県でも静岡市・清水市・浜松市・掛川市・三島町・沼津町・袋井町・笠西村・二俣町・藤枝町・見付町・金谷町・犬居村などほぼ全域で発生した。

 米商人を襲撃する傾向が共通した特徴であった。 筆者が調べた袋井町・笠西村の騒動参加者の所得階層によれば、低所得者層、また租税をはらえず不明者とされた人物、それに町中の傘職人などの職人、民営鉄道職員など野次馬半分の人たちを含んでいた。

 要するに激しい物価騰貴で人びとのなかには不満が充満していて、その暴発的雰囲気が多分にみられたのである(山本義彦「米騒動期袋井地域の一断面」『静岡県近代史研究』4)。

 それだけに当時の騒動がいかに巨大な意味をもっていたかは、内務省警保局で図書検閲にあたっていた堀切善次郎が昭和三十八(1963)年になって回想している談話(内政史研究会記録)によっても知ることができる。

 彼は、この運動には国際共産主義の影響があったとしている。 むろん事実はそうではなく、組織化されてはいない民衆の運動であり、これを機として労働組合や小作人組合など運動の組織化が行われていった。

 これに対抗する工業倶楽部や経済連盟といった財界団体の形成はその直後の大正十一年である。 また沈静化をはかるために、政府は天皇下賜金(かしきん)を下付して、騒動の各地に低所得者を中心としてその所得階層に応じて、下賜米や金の配布を行い、有力企業ばかりか地方の素封家たちの町村役場への寄付、それに半強制的とみられる租税支払いの格付けにあわせた地元民からの寄付などを組織した。

 静岡県の場合もこうした動きが判をついたようにどこでも行われている。 この騒動をうけて大正七年から政府は「民力涵養運動」を提起した。 これは都市民の社会運動が階級闘争的になることをおそれて「諧和(かいわ)」=階級協調を願望して地域社会を組織化しょうとしたが、いずれの土地でも地方改良運動の城を超えず、デモクラシーへの志向性をもつ人びとには影響をあたえなかった。


 工業化と農業発展

 大正期にはいると、まず都市化が大きな流れとなった。 それは都市の大工業が発展し、都市勤労者層が出現したし、第一次世界大戦のブームがそれまでの沈滞ムードを一変させたからである。 静岡県の場合も、浜松市に鉄道院浜松工場が設置され(大正元(1912)年)、綿織物工業が内外市場をめざして発展し、さきにも述べたように、ピアノ製造も当時、ドイツ製ピアノに対抗して輸出が実現していった。 さらに静岡市でも伝統工芸品である蒔絵(まきえ)や塗り物、マッチなどが輸出品として珍重されていった。 そして1900年代以降には都市部にガス会社が登場し、電灯業も1910年代後半に各地に創立され、これらは都市生活をささえる基盤となった。

 さて、この都市化がどのように形成されていったか、一つには静岡市では大戦期から都市計画が実施され、また電気やガスが敷設されていったし、明治四十一(1908)年に静岡鉄道が清水港まで軽便鉄道として開通し、市内電車も大正九年には市内鷹匠町から静岡駅前間に、また同十四年には安西までが全通した。

 これは静岡御用邸、県庁、市役所前を経由した。 清水市は港橋と横砂が昭和八(1933)年に全通している。 明治四十二年に遠州地方で最初に開通した浜松・中ノ町間の浜松鉄道は同四十一年には二俣まで開通し、大正十二年に元城と奥山半僧坊を結ぶ浜松軽便鉄道が開通している。

 この間の人口の変化をみると、現在人口で、大正元年の県総人口は146万人、同九年は155万2878へと6.2%増大したが、静岡市は6万1138から7万4093人へ23.3%、浜松市は3万8985人から6万4749人へと66.1%の増加を示している。



 なかでも浜松市の著しい急増を知ることができよう。 これは鉄道院浜松工場の成立を含めて、めざましい工業化がこの地で進行したことを表現している。 とくに沼津・清水両市の成立で、都市人口はいっそう増大した。 むろん静岡・浜松両市の県人口比率で大正初期以降、昭和五年の約20年間、確実にその比率は増大している。

 県内の農業人口は大正元年から昭和五年に14万1218人、商業人口は3万7254人、工業人口は2万473人から、それぞれ14万7250人、4万7675人、2万9763人へと変化した。 つまり農業7、商業1.8、工業1.5の比率から6.5、2.1、1.3となった(『静岡県統計書』より計算)。

 農業生産は4310万円から8631万円へ2.1倍、製造業は1805万円から7532万2000円へと4.2倍の変化を示し、この間の県内総生産は1億107万1000円から2億8069万2000円へと2.8倍の激増であった。

 ここで知られることは、第一次世界大戦期をつうじて、静岡県産業は、いずれの分野でも大きく成長したが、なかでも製造業は他の二倍を圧して四倍を超していた。

 静岡県を代表した綿織物でみると、大正元年598万円から同九年3999万円へと6.7倍の激増であった。 農業生産では、米の収穫高は大正元年の24万石から同九年に1920年代のほぼピークに近い315万石に達した(ピークは大正十一年)。

 作付け面積は6万5768町歩から6万6527町歩であまり拡大したわけではないので、ここに生産力の向上をうかがい知ることができる(『静岡県史』資料編型。

 こうした数字だけでもあさらかなように、第一次大戦期は、米騒動に象徴される急激な物価上昇により、あらゆる生産分野で急増を示しているとはいえ、大正九年はその年三月の戦後恐慌を経過していることを考慮すれば、生産活動がこの時期をつうじて大きな跳躍を記録したとしても過言ではあるまい。

 また農業分野もさきに述べたように、この時期は全般的に生産拡大を記録していて、世界大恐慌期の1930年代とは大きく異なっている。


 農業技術の発展と地域利害

 大正デモクラシー期の特徴は地域利害を代弁する政治活動が活発に展開する一方で、階層間の利害対立が表面化し、またその利害を代表する政治勢力が政党として組織化されていった面がみられることであろう。

 明治四十四(1911)年の総選挙では県内代議士10人中政友会は7人を占めた。 県政は県会を支配した自由党の専横がめだち、農工銀行への支配などの私物化がおきたのは明治末期の静岡県の実態であった。

 また静岡市電気事業の創設も長年の懸案であったが、それは政友派と非政友派の争いのためであった。 第二次大隈内閣のもとで行われた大正四(1915)年総選挙で、県内代議士の10人のうち政友派は県内で一気に2議席に後退し、県知事湯浅倉平が議会の反対を押し切って災害復旧費、安倍川堤防修築、汐見阪改良や下田港の浚渫(しゅんせつ)を実行した。

 大正六年四月総選挙では政友会6対非政友4と勢力挽回に成功している(『静岡県政史話』)。 大正初期の鉄道院浜松工場誘致問題をめぐる政党間駆引き、民営鉄道である浜松鉄道奥山線の敷設路線、中速鉄道敷設をめぐる地域利害の調整、藤相鉄道創立をめぐる地元資本と東京系資本の対立(『静岡県史』資料編19)、中期の高等工業学校誘致をめぐる浜松市と静岡市の有力者間の対立、また引佐郡立養蚕学校の改廃をめぐる政党間対立(『土に生きる 静岡県立農業経営高等学校盲周年誌』)、これらはいずれも、そのような動向を反映しているであろう。

 少なくとも明治中末期には鉄道線敷設に関して政党間や地域利害の対立は顕著ではなかったし、学校の改廃をめぐる対立もそれほどあらわれてはいなかったのである。 そして政党では政友と非政友、憲政会派系の対立としてあらわれた。

 また原敬(はらたかし)の政友会が地方政治を牛耳るにさいして、利権を振りかざしたことは有名であるが、静岡県でも大戦期以降こうした動きは顕著であり、筆者の調べによると、久努西村や久努村といった農村地帯でさえ、政争のために村長でもある村会議長や議員が辞任を繰り返しては再選挙で「みそぎ」をすまして返り咲くなどのケースがあとを絶たなかった。

 これと対照的なのは同じ袋井市域といっても、秋葉路の山梨町では、物資集散地として栄えた町場ということもあってか、政争のなかで失墜した政治家は、再起するという傾向はほとんどみられなかった(いずれも現在の袋井市、各旧町村沿革誌により取材、『袋井市史』通史編)。

 この時期の特色としては、明治後期からの耕地整理事業(明治三十三年、耕地整理法施行)が各地で展開され、そのさいの経費は受益者負担主義によっていた。 そればかりか、この時期に内務省と農商務省(のちに農林省)がそれぞれの判断による、水利事業、一級河川指定への取組みなどはこの動きの反映であり、その努力が実って生産力の一定の向上に結びついていったのである。

 天竜川、菊川、大井川、安倍川、富士川、浮島沼干拓、狩野川−これらの改修事業は明治末期からこの時期にかけて積極的に推進されていった(『静岡県の土木史』)。

 そのさい、たいていは政党間対立に利用され、政友会と憲政会がこれにかかわった。 静岡県の地主制は、明治期以来、経営規模の零細性と手作り地主の相対的な多さだけではなしに、とくに遠州地域でみられるように、毎年、それもたび重なる風水害によって、田畑が流出する危険性を絶えずはらんでいた。

 そうした事情は地主の小作人に対する協調主義的対応を特徴づけることになった。 県東部は小作争議が活発であり、富士郡のミカン園の小作争議は報告書に登場するほどであった(『静岡県史』通史編5)

 このような特色のもとで、顕著な争議、紛争はみられなかった(農林省『小作調停年報』など)。 これは内務省報告でも指摘されていた。 実際、筆者が袋井市春岡で取材した地主の場合、昭和十三(1938)年現在で、田八反九畝、畑九反二畝、雑地七反二畝、共同所有山林一町六反九畝の規模であったが、明治二十八年から戦後改革までの散田帳が残されていて、毎年「違作引き」が登場し、しかもついに連年実施され、明治三十年で総高の二割、大正七年で一割三分といった状況であった。

 これらは何を意味するか。基本的には地主は小作経営を維持するうえで、風水害による生産量の減少、田畑の流失に対して、小作米の割引によってしか、対処できなかったことを示している。 しかもヒアリングによっても、自然発生的ともいうべき協力姿勢が知られた。

 この点は新潟・宮城・山形・秋田県の千町歩地主地帯のような支配形態とは相当に異質であった。 これらの地域では、土地資料保存会の調査によれば、協調性よりも対立的側面がより強かった。 また経営規模では静岡地域とあまり相異のない都市部に隣接している大阪府三島郡山田村の場合にはやはり対決型であった。 内務省の調査報告によると、これは指導者が思想的にも人格的にも労働運動と直結していたことともかかわっていよう。


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