昭和恐慌からアジア・太平洋戦争期


 世界大恐慌と農村の窮状

   

 昭和恐慌とは通例、アメリカのニューヨーク株式市場での株の暴落(1929年十月二十四日の「暗い木曜日」、実は87年のバブル下の十月十九日の株式暴落の方が率としては高い記録となった)によってはじまった世界大恐慌が、日本では対米生糸輸出の破綻を契機として、製糸・紡績を始め工業恐慌をもたらし、さらには農業生産力の拡大をうけての米の過剰生産と価格暴落を始め深刻な農業恐慌を伴ったことをさす。

 むろんわが国は先行する1920年代に戦後不況をくぐりぬけて、工業化がめざましく展開する一方で、大戦期からの金融界の膨張がこの時期に銀行経営の不振をもたらし、昭和二(1927)年の金融恐慌を前提として、銀行法の制定をつうじて金融界の再編成が行われつつあったこともあって、欧米諸国のような金融恐慌をも伴う姿をとらなかった。 静岡県では恐慌は、どのようにあらわれたのであろうか。

 伊豆の賀茂郡稲生沢村の報告によると「繭は昨年の平価に近く、尚気候穏和の為重量も少ない、又山間の地として特産の木炭も半価と云ふ有様で、其の上余り変動の少ないと云はれる蜜柑も今年(昭和七年)は非常に安いので、こうした物を産して居る我村は実に不況風に襲はれて居る」、また同郡中川村は「農産物惨落収入減のため納税の不納又は電気料等殆ど大半は不納の状態、納税完納能力あるものは殆んど指を屈する程に僅少なり、正に一銭の金にも窮する有様、村の維持も今後一ヶ年は保たざる様なり」としている。

   

 さらに磐田郡福嶋村は「過去三カ年の未曾有の農村不況は、益々深刻化し、農産物価の暴落により稲、麦作、養蚕、養鶏、蔬菜(そさい)栽培等悉(ことごと)く損失、殊に養蚕に於いては生産費すら償ふことは能はず、負債は増加、金融不回、疲弊困憊の極に達せり。 若しこのままに経過せられんには産業萎縮、回復困難なり。 農村も自力更生の道を行ふと雖も此際救済方法を施行せられ其安定を計られんことを懇願し居る次第なり」と窮状を切々と訴えている。

 そして同郡於保村は「蚕業不振に依る養蚕家の経済は頓(とみ)に逼迫し、愛してゐた桑園も涙を落しゝ抜根したるも、農産物価の下落により進んで蔬菜(そさい)其の他を栽培する意気込みなく広々とした桑園抜根の後を眺めて只青息吐息するのみ。 本村金融は根強さ信用組合により運転されるも、租税の延納するもの追々増加し之の不況が回復しないならば遠からず滞納者続出するとて一般に憂慮されてゐる」としている(静岡県農会『農村不況実態調査』)。

 米の生産は昭和五年に149万9000石となり、その後スローダウンして同六年122万石をボトムに、八年には150万2000石に上昇している。

 しかし生産額では同じ時期に2504万円から2134万円、2765万円であって、恐慌直前の四年の26万9600石、3039万円とくらべれば、販売価格の下落による減収は間違いない。

 養蚕業はどうであろうか。繭生産量は昭和五年1047万キログラム、836万円から同六年949万キログラム、634万円となった。 恐慌直前の四年には1070万キログラム、1764万円であったから、その暴落ぶりがうかがえる。

 しかも養蚕農家数は昭和五年で6万5146戸、このときの全農家戸数は16万3354戸であったから、40%の農家は養蚕を兼業していた。 製造業従業者数では昭和五年の5万2052人から同六年5万5266人、八年7万4636人へとむしろ増加を続けた。

 しかも職工は男女ともに微増を続けていた。 その半数を超える紡織工業でも増加を示している。 比率としてはなお低いとはいえ、機械、金属などでも、増勢を示していた。 以上のことから、当時の静岡県は、なお農業県であり、昭和恐慌の影響は農業・農村であらわれた。 昭和六年九月十八日の「満州事変」の勃発は、さきにみてきたような経済状況のもとでは、不景気風をふっとばし、人びとの不安をかき消す役割を果たした。 新開は慰問と献金を募集して人びとに戦争協力意識を植えつけた。


 労働・農民運動と経済更生運動

 ここで原口清・海野福寿『静岡県の百年』などによって、少し時代をさかのぼらせて、静岡県の労働・農民運動の組織化をみておこう。 大正二(11913)年七月の駿東郡小山町に組織された友愛会小山支部は、鈴木文治が大正元年に東京で発足させた友愛会の支部であり、富士瓦斯紡績小山工場の労働者約70人が参加した。

 彼らは高山豊三牧師夫妻の指導をうけた。 その後会社側の工作や牧師の転任で弱体化し、大正十二年八月労働総同盟組合員の解雇をめぐって組合再建が実現したものの、九月の関東大震災による死者百数十人という犠牲もあり雲散霧消した。

 大井川通船組合の労組も組織されていた。 そして全県的には大正十一年で労働団体は72、加盟人員は2万605人と報告されている。 同十四年前後には総同盟の労働運動は共産党支持と社会民主主義、労働組合主義派の左右分裂の状況が生まれ、前者が関東地方評議会を基礎に日本労働組合評議会を組織し、静岡では東部会同労働組合がこれに参加し、翌年静岡地方評議会の結成にこぎつけている。

 合同労組の争議取組みは大正十五年ごろから昭和四(1929)年にかけて各地で積極的に行われた。 これを背景に日本楽器争議は大正十五年四月から105日間の争議を含めて八月にかけてたたかわれた(谷口善太郎『日本労働組合評議会史』、大庭伸介『日本楽器争議の研究』、吉見和子『静岡県無産青年運動の群像』)。

 昭和三年三月十五日日本共産党への大弾圧事件があり、評議会は解散させられた。 これに抗して日本労働組合全国協議会が組織され、県内でも左翼労働組合の結集がはかられていったが、1930年代なかばまでには指導者の検挙があいつぎ壊滅させられた。 また右派労働運動としては総同盟系で山田重太郎の指導した昭和二年にはじまる東京モスリン紡織沼津工場の待遇改善などの要求運動、東京麻糸紡績、持越鉱山などが組織化された。 労働組合は、農民組織とも結合して昭和三年の普通選挙法に基づく最初の総選挙で積極的に社会主義政党を支持してたたかった。

 農民運動は米騒動を機に本格的にはじまり、大正七年七月と九月に暴風雨による被害をうけて小作料減免運動が組織された。 富士郡田子浦争議がこれである。 減免を要求する小作人数百人が地主宅に押しかけたので、これに対して郡長・吉原警察署長が調停にのりだし、地主・小作立会いのもとで坪刈りによって減免額を確定することで決着したが、調査の当日に地主が立ちあわず、騒擾(そうじょう)となった。

 その後安倍郡・志太郡・榛原郡などで、争議があいついだ。 また要求内容としては小作料の永久減額から耕作権確立が提起された。 そして小作組合から農民組合への組織化が行われた。

 そこで農林省は、農山村の経済更生運動を展開することとし、救農土木事業をはじめ、昭和七年後半以降同九年までにおよそ20億円程度の資金を農山村に散布し、時局匡救(きょうきゅう)土木事業として農家労働力の雇用により景気回復なはかろうとした。

 昭和七、八年の年間一般会計決算がそれぞれ19億5000万円、22億5000万円程度の時代のことである。 また同時に更生運動を推進する農村「中堅人物」を発掘、組織化することも行った。

 たしかに20億円とは当時の国家予算規模からすれば、決して少額であったとはいえないが、深刻な農村不況を救済するにはなお不十分な施策にとどまった(猪俣津南雄『窮乏下の農村』)。 実際、農林省決算では昭和六年の5500万円から七年9900万、八年1億2000万、九年1億3000万円(経常部と臨時会計を合算した数値)へと膨脹した。

 しかしこうした力がそそがれたにもかかわらず、農村に関しては、戦時体制が本格化するまで、ついに景気回復を実現するには至らなかった。 この事業費は補助金の形態で末端におろされ、町村では「救農土木事業」を特別会計でくむが、大蔵・内務両省の許可をうけて事業費の相当部分を公債発行でまかない、残余をこの農林省の経費によって充当しなければならない。

 とすれば、そもそも町村財政は窮地におちいっていたのであって、そのうえで、公債発行となるので、十分な計画を設定できない事情にあった。 公債発行額もその町村の租税徴収額によって返済することになっているので、そもそもその地域の経済力に大きく依存して事業規模が決まらざるなえない。

 また他方では昭和四年以来の井上準之助蔵相の財政緊縮・金解禁政策を放棄した高橋是清蔵相の財政政策は、つぎのようであった。 昭和六年九月に勃発した「満州事変」を転機として日本銀行引受けをつうじた赤字国債発行に依存し、低金利政策、日銀券発行条件の緩和、貿易管理令の施行、低為替政策の展開をつうじて、景気回復のためのリフレーション政策を開始した。
 結果的には、低為替による東アジア=英領植民地などへ、綿製品の大量輸出を契機として、他の諸国をしりめにいち早い景気回復に成功し、工業生産高で計算すると、昭和十二年には恐慌直前の1.7倍の成長をとげていった。 もしも恐慌直前までの成長経過を前提とすれば、この間にたかだか四割程度の増加を記録するはずのものだったのである(山本義彦『戦間期日本資本主義と経済政策』の試算)。


 日中戦争の勃発と県民の戦争動員

 昭和十二(1937)年七月の日中戦争の勃発は、ロンドン軍縮条約の効力の消滅を背景に「三五、六年の危機」が意図的にさわがれ、軍部青年将校による二・二六事件、景気回復とインフレーションの再燃した時期に前後したのである。

 「国民政府を対手にせず」との近衛文麿首相の声明、賀屋輿宣(おきのぶ)蔵相の需給均衡、国際収支均衡、財政収支適合などの財政経済三原則の方針、戦争直前の国家総動員法、臨時資金調整法、輸出入品等臨時措置法のいわゆる戦時三法を合図に、戦争体制を本格化させた。

 これは要するに、不要不急産業への資金供給の抑制と、輸出入為替の軍需関連優先の供給を行うというものであった。 さらに昭和十五年の「紀元二六〇〇年」式典でいっそう国民の戦争動員への引寄せが行われた。

 近衛の、政党間の紛争を解消し天皇政治への協力を強要する「大政翼賛運動」「国民精神総動員運動」は日本における「総力戦体制」の実現を示した。 国会議席はもはや翼賛政治連盟の推薦するものが圧倒的に占め、非推薦議員はきわめて少数に押しこめられ、戦争体制への批判を行うものは、獄中の共産主義者、自由主義者、キリスト教・仏教などの宗教者の「消極的抵抗」にとどまった(家永三郎『戦争責任』)。

 県や郡市町村レベルの各段階に大政翼賛会支部が結成され、地方自治団体はすべてこれに解消された。

 警防団、隣保堆、町内会長、隣組、国防婦人会、翼賛青年団などの多様な組織化によって、戦時動員なはかるというこの形態は、一人の人物が多数の役職をかねたために、会議招集があっても十分に参加できないから、整理できないかといった要望が小笠郡の幾人かの村長から郡協力会議に提出されているのをみても(『菊川町史』通史編)、いかに官僚主義的な煩雑さが横行していたかはいうまでもない。

 戦後になって海軍大将井上成美(しげよし)が、良心的にも日本を戦争体制一色にもちこんだ一因は共産党などの反戦組織を解体したことにあったのではないかと回想しているほどのものである。 むろん静岡県内でも、旧制静岡高校の読書サークルや社会科学研究会、のちの文学研究会などでのマルクス主義の影響をうけた反戦運動(草深会『抗いの青春』)や、小学校教師たちのつづり方運動、教育科学研究会の組織化、あるいは左翼労働運動などへの同調の動きはねぼり強く展開されていたが、それらは大きな力を発揮するには至らなかった(治安維持法犠牲者国籍要求同盟静岡県本部『礎を築いた人々の記録』)。

 さて昭和十五年を転機として、日本の西太平洋地域に拡大する軍事膨脹政策と日中戦争は中国人民の抵抗、国民党と共産党の合作によっていっそう著しい膠着状態となった。 一方、軍戦備に不可欠の石油、鉄屑、精密工作機械などのアメリカからの輸入はさびしい状態となり、とりわけ対日石油禁輸措置、在米日本資産の凍結などの対抗措置が、日米対決強行戦略を誘発した。

 そもそも日本側の中国人民に対する民族的抵抗力の軽視が、情勢判断をあやまる根源にあり、また抜きさりがたい精神主義が科学的判断を見失わせ、極秘判断としては対米軍事対決が客観的条件を欠いていたことはわかっていても、なお奇襲攻撃的な行動によって勝利の可能性を信ずるといった認識が天皇、軍部を始め戦争指導者をおおったのである。

 こうした諸点を的確に戦時下告発した人物として清沢洌(きよし)をあげておこう。 彼は信州穂高に生まれ、青年時代に北米に移民し、在米日系紙の記者として活躍後、1920年代以降、日本の各紙記者を歴任し戦時下官憲の圧力を感じながらなおかつ戦争指導体制に近いところから、戦争指導の非科学性を告発し、『暗黒日記』を残した。

 国内的には資源不足が生産を著しく軍事的に傾斜させ、国民消費を徹底的に圧縮し、ついには綿織物などの繊維産業その他消費財工業の軍需転換、労働力の戦争への駆出しの結果、中等学校の男女生徒の学徒勤労動員、広く地域社会から募集した女子勤労挺身隊、朝鮮人・中国人労働力の鉱山などへの大量投入をはかった強制連行に基づく不払い労働などを随伴した。

  

 さきの非科学的見通しとも重なって、賀茂郡河津町の戦時下行政資料などにも所蔵されているが、松根油・ひま油の採取や芋掘りへの動員までも、若い女学生の仕事とされた。

 県内でも峰之沢鉱山、持越鉱山などや大井川久野脇発電所開発、掛川原谷の中島飛行機地下工場などに大量の朝鮮人労働力が投入された(朝鮮人強制連行真相調査団『朝鮮人強制連行の記録 中部編』)し、東京麻糸紡績沼津工場、富士紡績小山工場などにも大量の朝鮮人女子勤労挺身隊員として、国際条約にも反する13歳以下の児童を含む労働力が強制的に朝鮮半島から連行され働かされていた。

 彼女たちは日本人勤労挺身隊員とは異なって、報酬をあたえられることはなかった(『東京麻糸沼津工場朝鮮人女子勤労挺身隊公式謝罪等請求事件 訴状』平成九(1997)年および西成田豊『在日朝鮮人の「世界」と「帝国」国家』)。

 むろん軍需工場の県内移駐に伴って、日本人男女学徒が労務動員に従事させられた。 軍事徴用では焼津漁港の遠洋漁業船90%が機関銃をそなえつけ、敵艦の情報収集にあたり大きな犠牲をはらった(服部雅徳編著『漁船の太平洋戦争』)。


 郷土部隊の活動

 静岡県民は大井川から西部は豊橋歩兵第十人連隊に、東部は静岡歩兵第三十四連隊にそれぞれ動員され、また海軍では横須賀鎮守府に動員されて、一部は「満州」派遣部隊に編入されて、他の一部は中国本土に派遣されていった。

 静岡連隊に動員が下令されたのは、慮溝橋事件の約一カ月後の昭和十二 (1937)年八月十五日であった。 そして上海戦に二カ月余を要し、しかも出征兵士3800人のうち死傷者合わせて3456人という犠牲をはらった。

 そして十二月には南京を陥落させた(『浅羽町史』資料編三には南京事件に関与した兵士の生々しい軍事郵便が収められている)。 豊橋連隊も静岡連隊と同様な戦歴をもっている。 静岡連隊は南京周辺にはりついただけではない。 戦争終結時期には一部がビスマルク島に残留した。

 「満州」に派遣されたものも戦局の悪化と最終段階にはいると中国本土、フィリピン戦、そして沖縄戦にと移動を余儀なくされ、物量に物をいわせたアメリカ軍の犠牲となったり、たたかわずして移送中の台湾とフィリピン群島のあいだのバシー海峡で海底深くしずめられるなどの犠牲をはらった。

 昭和十八年十月になると、大学生・専門学校生の繰上げ卒業によって学徒出陣も実施され、静岡城内からも多数の出陣姿がみられた。

 まず最初は旧制高校生・経済専門学校などの生徒たち、また文科系の大学生たちであった。 さらに悲劇的なのは、筆者の調査によると、北辺の守り手としての期待と希望をもってとびだしていった満蒙開拓団の男たちは現地召集をうけて、「満州」でではなく、台湾海峡や南洋の島々、沖縄でその死を迎えなければならなかったことであろう(『袋井市史』通史編、『豊岡村史』通史編、『菊川町史』通史編、『森町史』通史編下巻はいずれも同一の手法で出征兵士の階級、戦死時期・場所などの統計をとっている)。


 経済更生特別指定村と満蒙開拓

 さて、もう一つ忘れてはならないのが、満蒙開拓団への県民の送出であった。 これは満州事変がはじまってまもなく関東軍参謀石原莞爾らが東宮鉄夫少佐らと語らって、関東軍だけではとうていまもりきれない広大な大地の補助的な守備と、農村恐慌で苦しむ農民たちに本土では「過剰農家」となったとして、一戸当り10町歩以上の土地が耕作地として分けあたえられるというキャンペーンが大々的に行われていた。

 しかし当初は募集に応じるものを組織するという方法であったが、極寒の地である「満州」には安定して居住して「北辺の守り手」としては十分には機能するはずもなかった。 そこでこうした「試験移民期」をのりこえて、むしろ経済更生運動にからめて各地の村落ぐるみで動員すること、つまり分村移民の形式をとって「満州に○○村を建設しよう」とのスローガンで多くの民衆をかりだすことをはかっていった。

 拓務省によると、その意図は同一の村の一定数のまとまった人びとが開拓団を編成することで、郷愁(屯墾病)にかられることのないようにという点にあった(山本義彦「経済更生運動と『満洲』移民」『静岡県史研究』2)。

 こうして経済更生特別指定村となった村を中心に全国的にも分村移民が強行され、20年後の「満州国」の人口5000万人として、その一割500万人、100万戸を送出するという壮大な計画であった。

 また小学校をおえて農村に残っている若者や、中等学校生徒を「満蒙開拓青少年義勇軍」として募集し、さらに彼らに「満州」での定着をはからせるために、「大陸花嫁」を募集することなどが行われた。

 開拓団と義勇軍に参加する男子は茨城県内原に設置された加藤完治を指導者とする訓練所での訓練を経て、現地に派遣された。 また県内でも、小笠郡堀之内町や引佐郡井伊谷村に女子拓務訓練所が設置され、ここでの訓練を経て、「満州」に送出されたり福田開拓団がでかけた吉林省白城子(パイチヤンツ)(白城)近辺の龍山に県立の開拓女塾が設置されて、現地での訓練も行われた(寺田ふさ子『無告の大地』、矢崎秀一編『春光−元龍山』)。

 静岡県下からも、駿東郡原里村・富士郡白糸村・榛原郡中川枝村・引佐郡井伊谷村・磐田郡福田町などから多くの人びとが、分村の夢をもたされて渡消した。 いずれも小規模の田畑を所有し養蚕をいとなむ貧しい村か、戦時の軍需生産への転換から、廃業を余儀なくされた人びとが参加をせまられたものであった。

 こうして県内から送出された開拓団民は6595人、うち死亡は1475人、未帰還者は212人(死亡、未帰還率は25.6%)であり、そのなかで青少年義勇軍は1933人であった。

 そして開拓団の女子供は、男子がいなくなった村をまもり、ついにソ連軍の怒涛のような突進のなかで、また現地の人びとの恨みによる襲撃のなかで、命からがらの逃避行の末、少なからず命を落としたり、わが子を無念の殺害のはて、集団自決も余儀なくされた人びともあった(『静岡県海外移住史』)。



東南海地震と戦争
 昭和十九(1944)年十二月七日、ちょうど三年前の八日は天皇の対米英蘭戦争開始の詔勅がだされた日にあたることから、毎年大詔奉戴日として村の神社にでかけてこぞって戦勝祈願を行うこととされていた前日であった。

 この日の昼下がり午後一時三五分に熊野灘を震源地とする東南海地震が発生した。 マグニチュードにして8.3、その規模は7.9の関東大震災を超えるものであった。 むろん明治年間の濃尾地震、安政二(1855)年の安政大地震以来の打撃と被害であった。

 濃尾地震のさいに、静岡県は郡を経由して各町村に対して、安政大地震の状況について古老の記憶を集めさせたことがある。 家屋の倒壊状況、屋内の状態、道路や掛塚、福田湊の隆起や陥没の如何を問うていた。

 さて問題は戦時下のパニックとなった東南海地震の場合、有感半径600Kmにもおよぶ大規模なものであり、とくに県西部の袋井・掛川・菊川・磐田方面に甚大な被害が発生し、御前崎付近では海岸が15cmの隆起をおこした。

 この地震全体の死者1202人のうち実に295人が静岡県民であった。負傷者も全体で2835人のうち県内で815人という巨大な被災となった。 袋井町で67人、今井村で10人、久努西村で8人、田原村3人の計88人、負傷者のうち同地域で155人にものぼった。

 全壊家屋は清水市の840戸、袋井町で575戸、今井村322戸、山梨町244戸、久努西村182戸、田原村167戸という規模であり、全壊率は今井村95.8%、田原村43.5%、山梨町39.0%といったように大きく、なかでも袋井酉国民学校では児童の死者20人、重軽傷30人、袋井保育所の園児22人の圧死、保母1人が殉職した。 それだけではない。 学童疎開中であった東京都世田谷区麹谷国民学校児童も袋井町で2人、山梨町で2人が、生命を奪われてしまった。 校舎の全半壊が全地区で多くみられるのは、老朽化したまま放置されていたからだといわれる。

 これだけの激甚災害であったために、半世紀をすぎた今日でも、戦争による機銃掃射への恐怖など以上に大きな記憶として地域の人びとに被害の大きな事件として、認識されてきた。

 しかし報道管制のために他地域の人びとに記憶はほとんど残されていない。 この地震は地元では大詔奉戴日前日のアメリカ軍による攻撃とうけとめられたほどの大きな不安をかきたてられたという。 だから、この地域の人びとにとっての戦時下の記憶とは空襲や艦砲射撃ではなく、この地震災害とその後の資材不足でままならぬ生活の再建と復旧事業ということになる。

 むろん報道は少なかったものの、戦時下に歯に衣を着せぬ自由主義的外交評論家として活躍し、さすがに官憲による執筆禁止措置をいくたびか経験していた清沢洌(きよし)は、つぎのように書きとめている。 「外務省に行くべく玄関に出ると大きな地震あり。 水平動の強きもの。 奈良君によって、名古屋方面の地震で電話不通、蒲原駅陥落、汽車不通という事実を聞く。 その被害は甚大であろうと考えられる。 被害者に無限に供給すべき医療その他の無いのはむろんで、何でも二百万戸ぐらいしか保存して居らないそうだ。……地震のことは新聞にも書かず、ラジオにも報道せぬ」(『暗黒日記』昭和十九年十二月七日)。






   前のページへ戻る              目次へ戻る              次のページへ飛ぶ