戦後改革から現代へ

 GHQの占領体制と農地改革、工業の再建



 第二次世界大戦が日本の敗北によって終結し、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は全国各都道府県に民政部を設置し、神がかり教育の禁止(墨塗り教科書、日の丸掲揚と君が代斉唱禁止)、団結権・争議行為など労働者の諸権利の承認、農地改革などに着手した。



 ここで近代立憲制に基づく、民主主義国家の成立をみたのである。 静岡県も日本国憲法地方自治法に基づく国家から自立した自治体として再生し、公選制の地方議会とアメリカ大統領制に擬せられた首長をもった。 つまり公選制首長の権限はかなり大きいのである。 人びとも言論思想の自由を立脚点とした男女平等の参政権を享受することになった。

 第二次世界大戦が終結して、連合軍占領下の三年目にして静岡県は、知事を会長とした県振興審議会を組織した。 何よりも当時にあっては、食料増産が緊急不可欠の課題であった。

 農地改革の実施過程であることから、「残存する小作契約の文書化を図」ることとした。 ここには、わが国小作契約が文書をもって行われないことを通例とする事態そのものが「封建的」とみられていたことへの、占領当局の配慮がにじみでている。 欧米では、社会的契約とは文書をもってなされるべきであって、口約束では意味をなさないというわけである。

 そして農業生産力の向上をめざして、農業者の組織化、集団化、協同化、経営の多角化が目標とされた。

  

 「農業協同組合」がそれである。 戦時下の農業会では、統制的役割が主としてあったのに対して、ここでは自主的協同性がうちだされた。 昭和二十四(1949)年度を目標として農地の買収・売渡しの完了をはかった。
 また商工業についても農業と同様に、県商工業再建委員会を組織し、業種別の再建方針を提起している。

 そのさい、繊維・木工業・製紙業などの特産的分野の復興に力をそそいで、「重要生産資材の工場誘致」につとめるとしている。 さらに「農村工業と都市工業との間に適当な調和を図り、進んで労働行政との緊密な連けいによって生産増強と輸出貿易の振興を」期するというのである。

 ここに「労働行政」との連携がうたわれているのは、当時の県議会委員会での論議などをみるかぎり、生産向上をはかるためにも、旧来の親方意識から脱却した労使関係の近代化が必要であるとの認識がみられていることからも、戦後民主化への志向の強さをうかがい知ることができよう。

 そして在来産業の復興を出発点としつつ、「重要工業」の誘致なはかるという思想がきわめて早期に登場していることが注目されよう。 ここにいう「重要工業」はとくに規定されているわけではないが、重化学工業であることが自明である。

 

 繊維工業では別珍・コール天が有望な特産物であるから、これらを中心に生産力の回復なはかること、25%にしか達していない稼働率の状況にある工作機械の生産を100%稼働にもっていくために、特産工業と関連する織機・製茶機・製紙機の復興に力をそそぎつつ、時計・自転車などの新興分野の海外輸出に力をかたむけるというのである (『静岡県史』資料編21)。


 教育の民主化

 教育面では軍国主義賛美から平和な民主教育を掲げ、公選制の教育委員会制度によって、民意を反映する教育行政がめざされた。 これは戦前の皇国臣民教育、天皇制の国家教育権の立場から、国民教育権を主体とする立場への180度の転換であった。

 昭和二十三(1948)年には六・三・三制に基づく小学校・中学校が発足し、旧制中学校・女学校の男女共学を旨とする高等学校への昇格と旧名称の使用が禁止され、教育面での刷新がはかられていった。 新制中学校の場合、施設的にも不十分なままで発足せざるなえなかったので、周智郡森町では地域住民から、燃料として薪の寄付などをうけたりした。

 教育の民主化のために、戦前の父兄会にかわってアメリカ式の父母と教師の会、PTAの組織化がはかられた。 また次頁のコラムにみるように住民による自主的教育組織として「自由大学三島庶民教室」が組織された。

 さらに「民主主義のはなし」や「憲法のはなし」などを文部省がみずから発行して全国的にその啓蒙をはかった。 占領軍の存在は、戦後教育の推進にとってきわめて大きく、たしかに国内からも南原繁東京大学総長ら教育刷新委員会の働きは自主的な民主化という点で大きかったものの、その動きをささえるうしろだてとして、逸することはできない(加藤節『南原繁』)。

 また神がかり的教育に大きく寄与した視野のせまい師範教育を根本的に改めて、師範学校の廃止と新制の学芸学部への転換、教師の養成は広く一般学部にも依存することとされたのである。 静岡県内では、師範学校・高校・工業専門学校廃止による国立静岡大学設置の要請が自治体ぐるみで行われ、「静岡大学後援会」が各地で組織され、国立学校設置法の施行により、昭和二十四年六月に同大学が発足した(佐久間町蔵「旧浦河町文書」)。



 自由大学三島庶民教室

 戦後まもない昭和二十(1945)年十二月、木部達二・拝司静夫(はいししずお)・伊藤三千夫(いとうみちお)らによって、三島神社の社務所を会場に開かれた庶民大学講座が自由大学三島庶民教室の出発であった。

 東京から戦後価値の担い手、新進気鋭の石母田正(いしもだしょう)・丸山真男(まるやままさお)・武谷三男(たけやみつお)・川島武宜(たけよし)らの中堅・若手学者を中心とした知識人を三島に招き、憲法や、人権、平和、民主主義など幅広く講座が組織されて、人びとの知的関心の高さを示した。

 二年間に動員された学者は100人近く、聴講者は延べ5000人というから、いかに爆発的な学習意欲の発露であったかがわかる。 「庶民大学通信」をみると(上原信博氏所蔵資料)、会員を組織する総務部、研究部、一口20円以上の読書部、そして連絡部などからなっていて、新刊図書案内が掲載されている。

 「私達の庶民大学三島教室は、或特定グループの意見を一方的に発表する為の学校ではない。 三島を中心とする一般庶民の為の学究機関である。 もっと具体的に言へば誰でも自由に会員に入り、そして同時に大学の経営に発言することのできる、聴講生の為の、聴講生のものである」という記事もみえる。

 そして翌二十一年六月二日に憲法草案検討会も開催している。 ここでは日本国憲法の自主的学習も行われていた。 こうした庶民的な講座への取組みは地域における民主的教育運動として注目され、今日でも戦後民主化の歴史に積極的位置づけがあたえられている。

 二十二年八月には教員を対象とした夏期公開講座も開設された。 しかし木部が二十三年二月急逝し、また「逆コース」の時勢のなかで、この教室は休止した。 むろんここで育った人材はその後、地方政治や社会運動で大きな足跡を残しっづけた。



 第五福龍丸事件と平和運動

 

 昭和二十九(1954)年三月一日、ビキニ環礁付近で操業中の焼津漁港所属第五福龍丸がアメリカの水爆実験の死の灰に被曝し、「原爆マグロ」とさわがれた水揚げと被災者をのせて十六日に焼津に帰港した。 多数の被災者のなかでも、久保山愛吉は、九月二十一日に死去した。

 

 この事件は、全国的な原水爆実験禁止署名運動を展開する契機となり、その後の平和運動の出発点となった(焼津市『第五福龍丸事件』)。 というのは日本が占領統治から独立を回復した昭和二十七年前後までは米軍の広島・長崎原爆投下問題を正面からとりあげることはきわめて困難であったので、この事件こそはそうした事態を一変させた。

 大井川町や焼津町では広範な署名運動と町議会での原水爆実験禁止決議、静岡県議会での決議などが新聞紙上をにぎわせた。 これには静岡大学教授塩川孝信などが調査に協力した。

 そればかりか昭和三十年の原水爆禁止世界大会、日本母親大会を実現させることにもなり、さらに保守・革新の政党・政派を超えた国民的運動としても貴重な経験をすることになった。 また昭和二十五年に勃発した朝鮮戦争により一時は軍需物資供給で息を吹き返したかにみえた日本産業界がこの事件をきっかけに、民需産業を中心とした発展に方向づけなすることにもなった点で、重要な歴史の転換点でもあった(山本義彦「『経済自立』と日米経済関係の形成」『日本同時代史』3)。


 高度成長の条件としての地域開発、経済自立

 昭和二十五(1950)年の国土総合開発法をうけて天竜東三河特定地域経済開発計画が開始され、電源開発株式会社によって昭和三十年には最大出力35万キロワットの佐久間発電所を建設し、その下流の秋葉に三十三年8万5000キロワットの逆調整発電所を設置した。 東京電力と中部電力に電力供給することとされ、かつ水量の調整によって台風・豪雨による頻発する災害をふせぐなどの多目的性もかねられた。

 これは高度成長への基盤となった。 「経済自立五力年計画」は、昭和三十一年度を初年度として、三十五年度に至るまさに高度成長第二段階にあたる時期のことであった。 その趣旨はアメリカの援助や特需に依存しない経済の自立の達成と急激に増加する生産年齢人口に対する雇用機会の増大との二つであり、国際収支の拡大均衡と雇用問題の解決を同時にはかるというねらいをもっていた。

 この経済計画による産業発展政策は三十二年の新長期経済計画、1960年代の第一・二次総合開発政策と、昭和三十五年の所得倍増政策などに引きつがれていった。 また県レベルでも、1950年代の第一次総会計画から五次におよぶ、電源開発と国土保全、水利事業を経て、1960年代の第六次からその後期計画、第七次計画、そして1970年代初頭の第八次総会計画までに至る諸計画に具体化されていった。

 しかしこれらは概して工業誘致政策を基調としていて、県は全国有数の公害発生県となった。 公害反対住民運動を上げてみると、昭和三十八、九年の沼津・三島の石油化学コンビナート問題、四十一、二年の日本軽金属蒲原工場増設、四十四、五年の富士市から蒲原町におよんだ火力発電所設置問題、四十六年沼津港拡張反対、四十六年から四十九年の田子浦ヘドロ問題、四十八年東亜燃料清水工場増設問題など、まさに公害オンパレードであった。

 四十五年には労働組合、住民組織、政党を糾合した「公害対策静岡県連絡会議」も組織された。 昭和四十六年には浜岡原子力発電所が着工され、これに対しても想定される東海大地震との関連、従業員放射能被曝問題(鴫橋青年被曝問題は労災認定を獲得)など課題は残されてきている。 宮本憲一『経済大国』によると、三十六年段階で県庁で公害課や係が設置されたのは東京都、大阪府とならんで全国最初であった。

  

 ここで沼津・三島のコンビナート問題に限定して述べておきたい。 昭和三十六年、政府は石油化学コンビナートを太平洋岸ベルト地帯中心に配置し、高度成長のいっそうの推進なはかる方策として、新産業都市の建設をうたい、またそれともかかわって、工業整備特別地域を全国一一カ所に配置することを決め、静岡県では浜松周辺と東駿河湾地域とが検討の対象として名乗りをあげ、結果として東駿河湾工業整備特別地域が設定された。

 この地域の目玉として沼津・三島両市と清水町が整備対象として住友化学の進出と東京電力火力発電所誘致などを決定した。 しかし住民の反対意見は堅く、ついに県はこの誘致を断念している。

 まさに昭和三十年を境として塩化ビニール・ナイロン・ビニロンなど合成繊維も普及をはじめ、石油化学工業の増設を背景としてつぎつぎに新製品が登場した。

 四日市・岩国・新居浜・川崎のナフサセンターなどを基地とした、15カ所の工場がいっせいに設備工事を完了したのは三十四年度のことであった。

 

 三十一年十二月の電力五力年計画は従来の水主火従から火主水従へと大きく転換した。 テレビの普及状況は上表によって鮮明に知ることができる。

 つまり昭和三十年の高度成長開始期には1000世帯につき3世帯という、きわめて希少性の高いテレビ普及の状態であった。 当時の報道写真にしばしば、隣り近所の親子が、一つの家のテレビをみるというよりは、映画館での鑑賞のように集まっている写真をみることがあるのは、まさにこの普及不足によって知ることができる。 また重化学工業化の進展は前表に示すとおりである。

 昭和二十七年度に水力31%、国内石炭50%、石油12%というエネルギー供給構成比であったのが、三十四年には水力29、国内石炭34、石油31%と、みごとな転換をとげていった。

 ちなみに翌三十五年の三井三池大争議の敗北と貿易および為替の自由化が決定されたときには、水力24、国内石炭32、石油36%へと加速度的に石油依存の方向を決定的としていった。

 こうして日本経済は、水力・国内石炭両エネルギー依存から輸入石油依存へ、そして石油化学工業依存へと展開をみせながら、高度成長の本格化、1960年代成長へとぱく進していったのである。 なお『静岡県総合計画』(昭和五十二年二月)によると、戦後の静岡県の経済発展史を総括して、第一期(資源開発)、第二期(経済開発)、第三期(社会開発)と三区分している。


 安保闘争と高度経済成長

 昭和二十六(1951)年の占領体制からの独立は、同時に日米安全保障条約の締結によって、占領時代のアメリカ軍の駐留を継続し、また沖縄県の本土からの切りはなし、米軍政下におくことを確定した。

 しかし安保条約によって、日本はアメリカを中心とした西側陣営に属することを宣言した結果となり、またその片務条約的性格のゆえに対米従属性の濃さが際だった。

 いわば米ソ冷戦体制の環境がそこに投影したのである。 静岡県では東富士演習場が、戦後長く米軍演習場として活用されてきたのは、この条約と日米行政協定、その後の地位協定に基づいている。

 戦後の静岡県工業の生産構造変化を計算すると、まず従業員の拡大は昭和三十年、同三十五年の時期にかけて、きわめて大きかったことが示される。
 二十三年のおよそ二倍であった。 これに対して、出荷額に関しては、すでに二十三年から二十五年で三倍、さらに二十五年から三十年でその三倍、つごう二十三年から三十年で九倍と、驚異的な成長をとげ、一方で戦争による打撃の大きさを示すとともに、他方ではそれにもまして戦後の復興期の成長力の高さを感じさせるし、しかもこの時期までに全国的にみても、技術革新がみられたとはいえ、従業員の拡大をはるかに上回る成長を示したことからして、産業界全般の生産力の発展の大きさを物語っている。

 そうした発展を前提として、三十年から三十五年にかけて1.6倍、出荷額では2.4倍という成長ぶりであった。 出荷額でみると、昭和二十三年から三十五年で21.5倍であった。

 以上の数字での成長を確認してみるだけでも、少なくとも戦後再建復興から高度成長第一段階の13年間で基調として生産力の拡大が従業員数の伸びをリードしたことが、特徴となっている。

 単純にみると、この間の生産性の伸びは従業員一人当りほぼ10倍といってよいのである。 その間、食料品工業は従業員の面でも、出荷額の面でも一定の地歩を占めていて、昭和三十五年ごろには低下をはじめた。

 また繊維工業では従業員の比重は食料工業とであるが、出荷額では三十年前後をピークとして低下をはじめていることが明確に示されている。 これら軽工業に対して、化学工業では従業員、出荷額の両面で、ほぼ位置を変えることなく持続し、他方で金属工業では従業員数の変化はあたえられた数値の問題があるので、これをのぞいて出荷額でみると、じりじりと比重をあげていて、機械工業では三十年前後からほぼ確実に従業員、出荷額ともに比重を高めて、とくに三十五年には従業員比率で全体のほぼ四分の一を占めるに至ったが、これは輸送用機械工業の発展によっている。

 さて静岡県を代表する産業である紙パルプ工業、機械工業のうち輸送用機械工業の推移と位置をこの時期についてとらえると、まず紙パルプ工業は経済成長とともに、従業員・出荷額とも急成長の一角を構成していた。 これに対して輸送用機械工業は、まだ動揺を含みつつ、ようやく1960年代にはいるころから、出荷額での比率を増加させる傾向を顕著にしていった。

 まさにモータリゼーションが本格化する時期と照応した変化をみせていたといってよいであろう。 それにこの時期をつうじて県工業構造は依然として高度成長前の軽工業主力の態勢であったことも容易にみることができる。出荷額の構成では、昭和三十五年の化学・金属・機械の合計がようやく20%程度にすぎなかったからである。



 高度成長をささえる要素として不可欠なのは、昭和三十九年に開通した東海道新幹線と四十四年に開通した東名高速道路であろう。 これら二つの交通インフラは県内経済と東西経済圏との結びつきをますます強める一方、大企業進出が農村地帯におよび、上表に示すように農業労働力の工業への活用、兼業形態の農業経営をさらに加速したのである。 なお、この間の産業別就業者数の変化は前下表に掲げるとおりである。


 高度成長期以降の動向



 ここで、高度成長期から低成長期を含む静岡県経済の成長動向を概括的にとらえておきたい。 というのは以下の静岡経済と産業発展を記述するうえで、理解が容易になると思われるからである。 そのために、戦後の高度成長期における静岡県経済の変化を県内総生産の動向でとらえた上表によってみておこう。

 それによると、全国的動向と同様に農林漁業などの第一次産業の急速な地位低下が進行していることであり、他方、工業生産を中心として第二次産業の地位上昇がきわだっている。 農林漁業などは昭和三十(1955)年の16.2%から四十二年に9.4%と一割を切り、高度成長が終焉した四十八・四十九年にはついに5%と激減し一九八〇年代には3%、九〇年代には2%を切るまでに至ったのである。

 他方で、第二次産業は昭和三十年の三分の一から、1960年代中葉、四割台へと前進し、その後第一次オイルショックにもかかわらず、増大し、およそ二分の一におよんでいる。

 この点は石油化学工業と鉄鋼業を中心に工場誘致を進めた他の地域とは相当に様相を異にした、堅調な成長を示し、1960年代には人口、工業出荷額などで全国比率にして「3%経済」と特徴づけられていた静岡県は、人口比率の変化、また農業生産額や農業人口はそれほど変化はないものの、工業出荷額などではついに5〜6%にも達する成長ぶりを示したのである。



 この表では省略したが、成長率でみると、三十二年や三十五、三十六、三十七年に11〜13%にも達する前年比での伸びが記録されてのち、四十年の「不況」によるマイナス4.7%の低迷を経て、四十二〜四十五年の連年10%強から14%にもおよぶ高度成長を、全国とともに歩んでいる。

 しかしこの間の伸び率は、それでも全国比九割程度の達成であり、そのことは石油化学コンビナートなど当時の花形産業誘致を行わなかったことの一帰結ではあった。 ただし県内総生産の全国総生産への比率は工業出荷額などのように上昇傾向を示してはいない。 それは全国的には脱工業生産、サービス経済化の進行した度会いが静岡県よりも高かったことを意味する。

 それでもとくに昭和四十八年オイルショックを経過して以降の、全国的には低迷を続けた成長の過程では、むしろ相対的にはより高いテンポの成長を記録して、全国的な減退期でも落込みはやや低めで、さきに述べたように、工業出荷額などの比率で、地位を高めていったのである。 これは在来の産業集積が持続的成長を保障したといってよいであろう。

 以上にみたように、高度成長期には花形産業の旗手であった石油化学工業や鉄鋼業は、あきらかに1960年代末からは過剰生産と過剰設備、市場の制約、そして七〇年代オイルショックによる原油価格の高騰から発現した世界同時不況とその後の石油資源の節約的活用、資本集約化などをつうじて、長期の構造的不況に追い込まれるに至り、県内では部分的に清水市城の構造不況化、富士地区の製紙業不振という現象をもたらしはしたものの、県内経済全般としてはそれは打撃的には作用しなかったのである。 このことは重要な論点となる。

 ここでは、県内主要工業都市である静岡市・浜松市・沼津市・富士市・清水市の製造品出荷額などをとおして、高度成長期の県内産業立地のうえでの比重変化を前頁表によってみておきたい。 ここからわかることは、県内五市の工業上の地位は、ほぼ高度成長前半期に確立していて、その後他地域への工場進出によって五市の相対的地位が低下をみせていることである。 これは高度成長期の県内企業立地動向を具体的にみることができる一つの指標となろう。


 石油危機と高度成長の終焉

 さて高度成長は1960年代をつうじて石油化学コンビナートの全国的誘致ともかかわって、安い原油を背景に持続していったが、同時にさきにみたように、それは公害のバラ撒きを伴い、世界第一の公害国として著名になった。 そして昭和四十二(1967)年の公害対策基本法が「経済と環境の調和」条項をもっていたのに対して、県民を始めとする国民運動の取組みのなかから、四十六年には「健康の保護」「生活環境の保全」をうちだした。

 しかし四十五年の「新経済社会発展計画」は依然として超高度成長を追求すべく外国原油にいっそう依存する路線を強調し、さらに佐藤栄作首相のあとがまをねらった通産大臣田中角栄は著書『列島改造計画』を発表し、工場再配置計画を推進して、過密化した大都市圏の公害型企業の過疎地城への分散配置などを主張した。 この路線に基づいて従来の企業誘致政策は「工場再配置」と衣替えをし、農村地域工業導入促進法とも連動して「公害列島化」を推進した。

 ところが田中角栄が首相となり、昭和四十七年懸案であった中国との国交正常化を実現する一方で、四十八年秋には第四次中東戦争をきっかけとして石油危機がはじまり、原油価格は一バーレル当り二ドル程度であったのが、一挙に一一ドルとはねあがり(実際、原粗油は四十七年の1バーレル当り2.51ドルが翌年には3.29ドル、四十九年には一気に10.79ドルへー『経済要覧一九九〇年版』)、「物価狂乱」 (福田赴夫)時代を出現した。

 四十九年の春闘ではついに給与上昇率29%程度のレベルとなった。 こうして企業経営は従来の長期年功賃金型労働力を削減し、短期的・パートタイム的労働を多用し、内部蓄積資金力を活用して外部借入金を圧縮して減量経営を実現していった。

 そして景気の低迷に対して、政府は大幅赤字財政を展開して大量の赤字国債を発行した。 また昭和五十三年には一方で「集中豪雨型」輸出をアメリカなど先進国にむけて強行し、「貿易摩擦」問題を激化させ、他方で「ロボット元年」といわれるマイクロエレクトロニクス・コンピュータ開発を進め、労働節約的で資本・技術集約的な企業経営を推し進めていった。


 円高問題・バブル化と今後の展望

 昭和四十八(1973)年までは国際通賃制度として、「固定為替相場制」が維持されていて、1ドル=360円の四十六年末までと308円への円の引上げによる固定相場が維持されていたものの、この年の二月以降、対米貿易大幅黒字を背景として円高が進んだ。

 1980年代には、電子情報機器などの高度先端技術部門でも輸出競争力がつき対米貿易摩擦の内容は1970年代前半までの繊維、鉄鋼、テレビなど家庭電化品、自動車から産業のコメ半導体、電子機器などの分野での摩擦へと変化していった。

 静岡県の場合も、1960年代後半から70年代をつうじた自動車、二輪車、ピアノから電子楽器を含む電子機券の生産と輸出へと大きく変貌したのである。



 昭和六十年九月、プラザホテルでの日米間の合意に基づいた1ドル=240円前後に、またその後平成六(1994)年四月には80円にまで引きあげられていった。

 貿易摩擦は自動車、半導体など目本製品の対米輸出「自主規制」をせまるアメリカ側の要求をうけいれつつ、他方で円高を利用した資本進出を強行し、わが国はついに昭和六十年以降世界最大の債権大国となり、他方アメリカは最大の債務大国となっていった。

 静岡県の企業体が積極的に海外進出を開始したのは、比較的早く、ピアノや二輪車、別珍・コール天などの輸出はもとより、用材の買付けでも1970年代には急速に進み、その後は商品輸出ではなく、資本輸出が進展し、その対米依存だけではなく、アジアを対象とするものも大きく増加していった。

 とくに金型などの中小下請的企業体さえも、低賃金を求めて中国などへの進出を増大させていった。

 しかし国内的には依然として景気を活性化させる新産業分野をみいだせず、ここから大量の余剰資金が土地、株式などへの投機的買付け、テナントビルやマンション建設で荒稼ぎなはかる動きがみられ、こうした資本の運動がとくに1980年代後半に強まった。 バブル経済の始まりである。

 静岡県でも都市部のビルの買いあさりやマンション建設などがこの時期に急速に進み、その割にはテナントや買い手がつかず、1990年代初頭には値崩れ現象を示し、全国とも連動してバブル期の担保ではとうてい未決済資金の処理が困難となった。

 バブル開始時点の昭和六十年に対して、一時、三倍を超える上昇を示した地価は平成九年末には、ようやく、昭和六十年の水準に戻った。 平成七年四月に1ドル=80円という超円高を経過してのち、同九年秋以降の東南アジア、香港、韓国と打ち続く急激な高度成長のあとをうけた金融混乱にも影響されつつ、これらの状況が進行している。

 静岡の地域社会は全国と同様に、今日、高齢化と少子化の時代を迎え、また全国と対比しても国際化の傾向の強い特色をもっている。 今後、高齢者福祉の一環としての在宅看護、ボランティア活動の充実とケア、女性の労働力化のいっそうの進展による児童福祉が求められていくであろう。

 そうした変化のなかで、住民の生涯学習への意欲も確実に増大しっつある。 県内の公教育機関がそうした意欲に積極的にこたえつつ、施策の充実なはかることはいっそう求められていくであろう。

 こうした一連の施策が展開されるさいに、量的拡充とともにクオリティも重要な要素となっている。 景気の低迷の長期化のもとで、きびしい財政環境が今後も予想されるとはいえ、これらの施策には公的政策の裏付けがますます要請されるであろう。

 また、一部ではじめられているゴミの分別回収を始め「地球環境にやさしい」経済運営と、人びとの暮らしの改善がこの静岡の地でもますます求められている。 平成九年のリサイクル法にもみられる、地域自治体でも、環境政策の積極化が要請されるところである。 

 さらに、昭和五十三年以降、大規模地震対策措置法の強化指定地城とされている静岡県の防災システムの充実も、人びとの暮らしの安全なはかるうえで不可欠となっている。 きびしい財政環境とはいっても、以上のような福祉、教育、環境、女性などに配慮ある施策が、県レベルのこれまでの弱点を克服するうえで重要である。


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