清見寺
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1300年の歴史を持つ寺で歴史上の有名人も多く関係している由緒深き寺である。

公式ホームページ

 昔々、約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃のことです。東北の蝦夷に備えてこの地に関所が設けられ、 清見関 きよみがせき と呼ばれていました。そして、其の傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されました。この仏堂を以って清見寺の始めと伝えています。平安時代には天台宗の寺院であったと思われます。
 鎌倉時代に中国より伝えらた禅宗は、朝廷や幕府の支持を受け、公家・武家社会を中心に日本に広まりました。この頃清見寺も禅宗に改められました。鎌倉時代の中頃に、関聖上人(かんせいしょうにん)(無伝聖禅禅師)<むでんしょうぜんぜんじ>が駿河の国に来り清見寺を再興しました。弘長2年(1262年)に京都東福寺を開いた聖一国師を大導師に招き、禅寺としての落慶法要を盛大にいとなんでいます。ちなみに関聖上人は、聖一国師(しょういちこくし)の弟子でありました。
 室町幕府を開いた足利尊氏公は、深く清見寺を崇敬し、清見寺山頂に利生塔を建立して戦死者の霊を慰め、天下大平を祈りました。又室町幕府は清見寺を官寺と定め、日本を代表する寺ということで「全国十刹」の中に置き保護しました。
 室町時代に駿河を領せし今川氏は、足利氏と祖を同じくする関係により、常に清見寺を外護しました。六代将軍足利義教、駿河富士遊覧に下伺せし時には、今川範政これを迎えて清見寺に来り和歌などを詠じて清遊しました。
 この時代、画僧雪舟も清見寺に来り後年富士・三保・清見寺の景色を画いています。
 寺の附近の地勢は、山、海にせまり自然の要害となりましたので、戦乱の場合には争奪のちまたとなることが多々ありました。特にこの時代には、今川・徳川・武田・北條等の戦国大名が入り乱れての攻めたり退いたりで、その都度各大名が清見寺に陣をしき城として使用され、甚大な戦禍をこうむることもありました。この戦国時代の一時期、清見寺は堂破れ茨の茂る荒れ寺となりましたが、東海の雄今川義元の後援を受けた 太原崇孚(たいげんすうふ)禅師が清見寺を腹興いたしました。太原和尚は清見寺を妙心寺派に属せしめ、清見寺の第一世となったのです。
 徳川家康公は、幼少時今川氏の人質として駿府に在りし頃、当時の清見寺住職太原和尚(第一世)より教育を受けました。又後年大御所として駿府に隠栖した際には、当時の住職大輝和尚(第三世)に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊しました。
 家康公の三女静照院殿よりは、彿殿の本尊釋迦弁尼仏と大方丈の大玄関の寄進を受けています。これら諸々の因縁により、清見寺は三葉葵の紋を許され江戸時代260年の間、二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けるところとなりました。
 明治維新の変革に際し、寺門も又其の影響を受けました。旧幕府からもらった朱印地や山林は、多くが土地となりましたが、其の経営よろしきを得て荒廃を免れました。明治2年と同11年は明治天皇の鳳輦(ほうれん)を迎え、又大正天皇、皇太子に在りし時代しばしば御成りあり。時には滞泊せらるることもありました。
 其の後、大正・昭和・平成と時代は遷ります。太平洋戦争後の農地開放により、清見寺は経済の基盤を失いましたが、幸い檀信徒の方々にささえられて現在まで1300年の法燈を守っています。
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寺の南側に入口(総門)があって朝鮮通信使(錦谷居士)が書込んだもの。

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寺の中を東海道線が通っている。
踏切があるせいで下り電車は長い警笛を鳴らして通過していく。

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「山門」
慶安4年(1651年)の建築であり、山門の彫刻は左甚五郎の弟子の作と伝えています。

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仏殿

 天保十三年(1842)の再建にして、面は瓦敷であります。
 正面には釈迦如来の坐像(家康公姫君静照院寄付)を泰安し、両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されています。尚、背後に三開山(開山関聖上人)(準開山太原崇孚禪師)(中興開山大輝祥暹禅師)の木像を安置してあります。

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大方丈

 文政八年(1825)の改築にして、内陣には十一面観世音菩薩の坐像を泰安す。正面に琉球王子筆の「永世孝亨」の額を掲げ、両脇の壁面には朝鮮通信使の詩文を掲げてあります。又西の間の奥には家康公「手習いの間」の遺搆を保存しています。

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書院

 桁行20.40m、梁間13.30mに三十四畳の総入側があります。又木材は悉く木曽の檜材を用い上段八畳の間は格天井にして、東面に床及違棚があります。
 慶応三年(1876)に建築されました。

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鐘楼

 石口にて3.7m四方、文久三年(1863)の改築にして、麓鐘は正和三年(1314)の鋳造である。
 天正十八年(1590)四月豊臣秀吉公伊豆韮山城攻伐の際、陣中に於いて使用したと云われている。又高山樗牛の「清見寺の鐘声」と云う名文は、この鐘声を聞いて作ったのであります。

この鐘にまつわる興味ある伝説がある。
昔この地方に浄見長者があった。 ふとしたことから最愛の一人娘が人買にさらわれて行方知らずになった。 その母親は半狂乱になって娘の行方を全国に捜し求めた。 はしなく近江の三井寺に参詣した。 折りしも響く三井寺の梵鐘、「なんとまあこの寺の鐘の音は故郷清見寺の鐘の音を思い出させるではないか」と思わずつぶやいた。 その時不思議に長者の娘も三井寺に来合せていた。 娘は故郷清見寺の名を言う者あるを聞き驚いた。 あたりを見ればそこになつかしの母の姿、母子は思わぬ再会に相擁して泣き、鐘のみちびきに感謝した。

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五百羅漢石像

 天明年間(1781〜1788)の彫造にして、作者不詳なるも形相悉く神異非凡の作である。
 又この羅漢尊者の群像は、島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっています。
 古来より亡者供養の一つとして、石像中より亡き人の面影を偲ばせる方を探し当て、それを供養することで亡き人の冥福を祈ると云う。

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庭園と裏見の石

 この庭の形式は、築山池泉廻遊観賞園で、山が接近しているので、これにさつき、つつじの類の苅込と石組を配し、山麓に、馬蹄型の池を作り、左端に排水口を設けている。
 最初の築庭には家康の意向が入れられ、江戸時代初期に山本道斎によって作られたといわれている。

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裏見の石に芭蕉の句

芭蕉がこの地で読んだ句を後世の地元民が石の碑を建てた、ところがそれを契機にして町が不況をみまわってしまった。 町の人はこの石碑は縁起が悪いといって海へ投げ込もうとした。 そのことを知った清見寺の和尚が「そりゃ、もったいない、ならば寺の目立たぬところに飾ろう」ともちかけた。 一旦は落ち着いたが、不況は一向に改善されていない。 そこで町の衆は再度その石碑を海へ投げ込もうとした。 そこで和尚は妥協案として、清見寺の池に「文字面を裏側にして架け橋とし、文字を見えないようにしよう」ということでこの件は落着した。 そして現在もこの石碑は裏側になったまま、石橋として池に懸かっている。

裏見の石碑