由比の町並みを歩く

由比宿(ゆいしゅく)は、東海道の五十三箇所の宿場のうち、日本橋から数えて16番目にある宿場。現在の静岡県庵原郡由比町に位置する。

バスがバス停で止まる筈だったが乗用車が占拠していて、
停車できなく止むを得ずUターンして反対車線で降りた。
国道1号線を横断歩道で渡ることになった。
さすが日本の大動脈である、大型トラックが凄いスピードで引切り無しに音を立てて通過している。 「赤信号、みんなで渡れば怖くない」?とてもそんな気にはなれなかった。
歩行者用押ボタンを押して5分ほど待って、やっと40名の団体が横断できた。 やれやれ(-_-;)。
旧道(東海道)に入ると早速「一里塚址」の碑が立っていた。
ここが「由比歩行」のスタート地点である。
ここから東の方向へ向って歩く。

由比宿は、江戸期を通じて幕府領であった。 中世から続く宿駅であるが、小宿なため近辺11ヶ村を加宿としていた。
町並は本町と西町・東町からなり、本町には本陣・脇本陣・旅籠屋が置かれ、西町には鍛冶・番匠・桶・畳・紺屋・指物その他の職人や食料・雑貨を商う商人や人足などが住み、東町は全部伝馬役であった。
元禄期(1688〜1704)には東町の東側に新町が出来たので東町が中町となったと推定されている。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内家数160・人数713。本陣1、脇本陣1、旅籠32(大1・中10・小21)、問屋場は2ヶ所(本町)で1ヶ月交代で勤めた。。
由比宿は蒲原宿・興津宿に較べれば規模が小さいので、駅伝馬などの100人・100疋の常備人馬の負担が重く、しばしば幕府に軽減を願い出ている。寛文5年(1665)になると当宿の定宿郷であった今宿・北田・町屋原の三ヶ村が加宿に加わっている。
明治維新後、参勤交代の制度がなくなり、従来の宿駅制度も廃止状態となり、由比の宿場では街道関係で生活していた人が多かっただけに、打撃も大きかった。そして求めた活路は塩生産とミカン栽培であった。その他明治末頃から「サクラエビ漁」が成り立ってきた。
今、伝統的な家屋が残る町並は、本陣や脇本陣のあった由比宿の中心よりも、由比宿に加宿された北田・町屋原・今宿に多く残っている。
本陣跡は本陣公園として整備され、脇本陣跡の表示もされていた。本陣跡の向かいにあるのが正雪紺屋で由井正雪の生家と言われている。


北田の町並

町屋原の町並

町屋原の町並

町屋原の町並

町屋原の町並

由比の町並

由比宿本陣跡

由比の明治の郵便局跡とあった

由比の正雪紺屋

由比の町並

「川島」姓の表札が多かった。 それと赤い昔の郵便ポストが何箇所かにあった。

宮大工の「大隈流」と「立川流」

宮大工には「大隈流」と「立川流」とがあって。 諏訪大社の春宮が大隈流で秋宮が立川流だそうである。

由比にあったこの神社は「大隈流」だそうです。

日本武尊の東征物語では、焼津(草薙?)で焼き討ちにあった時に天群雲御剣で草を薙いで窮地を脱したという有名な物語があります。〈天群雲御剣は、草を薙ぎって災難を逃れた時、草薙の剣と追銘されました〉。 という風に日本各地に草薙の話がある、ここもその一つである。
まあ、所詮、元々作り話であるからか?

八木洋行さんの話では、「大隈流」は龍の爪がこの写真のように鋭く細長い。 「立川流」は丸みを帯びているそうです。

それと「大隈流」はこの写真のように竹薮と寅が大好きで、竹薮と寅の彫り物があったらまず「大隈流」とみなして間違いないそうです。