興津坐漁荘

西園寺公望公の別邸

 坐漁荘は、最後の元老「西園寺公望」公が晩年過ごした別荘です。
 西園寺公は、総理大臣を二度経験し、第一線を退いた後も、元老としてときの政治に大きな影響を与えており、政府に事ある毎に総理要職が坐漁荘を訪れ、「興津詣で」とまで言われました。
 当時の坐漁荘は、玄関前には清見寺の山がそびえ、庭の向こうには清見潟が広がり、その向こうには富士山と三保の松原を望む、非常に風光明媚なところでした。
 坐漁荘は、現在愛知県犬山市の明治村に移築されていますが、明治村のご協力をいただき移築時の図面をお借りし、当時のまま忠実に再現したものが、この興津坐漁荘です。

坐漁荘入口の門
玄関
全面ガラス戸の縁側
建物全景
復元前からの記念碑
建物内部の和室

2階からの眺め

内部の装飾品も忠実に再現

風呂桶

坐漁荘は、西園寺公望が政治の第一線から退いた後、別邸として1920年に興津の旧東海道沿いに建てられたものです。その後、老朽化のために取り壊されて愛知県犬山市の明治村に移築されましたが、清水市(当時)が興津地区の観光拠点整備事業として2003年1月から復元工事を始め、2004年4月25日から一般公開されました。建物は木造2階建ての京風数寄屋造りで、詳細な図面を基に細部まで忠実に再現されています。開館時間は平日10時〜17時・休日9時30分〜17時30分(但し月曜休館)、入館料は無料です。

「坐漁荘」の名は、周の文王が呂尚(太公望)が坐漁する場に会い、礼厚く迎え軍師としたという中国の故事に因る。

田子の浦

この坐漁荘で講演が行われていた。 山部赤人の歌の解説であった。

【解説】 田子の浦(興津説)からは富士山は見えない、見るためには舟で沖に出て由比の方向へ漕ぎ出す必要があった。 その当時は薩?峠の海は「親知らず子知らず」といって舟でなければ通行は困難であった。 その舟で東へ向っていくと、突然、雄大な富士山が姿を現す。 感激の瞬間である。 そこで「万葉集」版では、田子の浦となっていて「ゆ」というのは舟で移動している状態を表現している言葉である。 田子の浦からうち出でて(移動して)突然現れる富士山の雄大な景色に感動する様を表現しているのである。 
  又その解説者は70年以上もこの地に住んでいるが、雪が降ってる場合に富士山が見えたことなぞ一度も無かった。 従って万葉集版の雪は降りけるというように過去完了形で2〜3日前に雪が降ったが、今は晴れて真っ白な雪が鮮やかに輝いている、美しい富士山が見えている。 というふうに万葉集版は理にかなっており百人一首版のように矛盾がない。
百人一首の歌はあくまでも想像(イメージ)したもので、創造美化したものである。
雪が現在進行形で降っている動的な富士であり、万葉集版の雪は過去完了形で静的な富士である。 しかし、何れの歌も見事な秀作である。