東海道あれこれ

江戸時代の東海道は、江戸日本橋から京都の三条大橋までの126里6町1間(約496Km)をいった。その間に53の宿駅があり、旅人達はそこで伝馬や人足を継(次)立てて旅行したので、東海道五十三次の名が生まれた。 この道の幅員は5間(約9m)で、平坦で砂が敷かれ、さらに道路脇の溝浚(みぞさら)いもよくしてあったので、当時としてはよく整備された道であった。

並木
東海道の景観

東海道の景観

 街道の両側に松、杉、欅(けやき)、檜(ひのき)、柳などの木が植えられて並木となっていた。この並木は、街道に風情を添えたばかりでなく夏には暑ささを凌ぎ、冬には寒風を防ぐ役割を果たした。

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一里塚

 日本橋を起点にして、2里(約4Km)ごとに、街道の両側に塚が築いてあった。形は方形で、一辺が五間(約9m)あった。塚には榎(えのき)、松、杉などが植えられており、その中で榎が最も多かった。東海道にはこのような塚が104ケ所にあり、目的地までの距離を計ったり、駕寵代(かごだい)を払う時の目安となつていた。

高さ 20 メートル,幹の直径 1 メートル以上になる落葉高木です。大抵,根本で何本にも分かれているようです。エノキの実は橙色に熟し,食べられるそうです。

榎(えのき)

棒鼻(ぼうはな)

 宿場の外れ(端)で「是より何々領何々宿」と書いた棒が立っていたところを棒鼻という、傍示杭(ぼうじぐい)とも言われた。 境界を示す杭(くい)であった。

関所

関所

 東海道には箱根荒井の二ケ所にあった。江戸の治安維持のため、「入り鉄砲に出女」が厳しく取結まられていた。入り鉄砲とは江戸へ持ち込まれる武器であり、出女とは幕府が人質にとっている大名の妻女を意味した。

関所手形

 関所を通過するのに必要な手形である。これには、旅人の住所氏名や、行先を書き、怪しい者ではないから関所を通して貰いたいと記してあった。手形の発行者は武士の場合は藩の用人、町人の場合は大家と名主、寺の住職であった。

 江州(近江国・滋賀県)蒲生郡内池村の村役人である、「年寄 伊兵衛」と「庄屋 平兵衛」が連印のうえ元治元年(1864)10月19日付けで、各地の関所宛てに証明した文書です。
 証明内容は、「松平周防守」の支配地である近江国蒲生郡内池村の農民「徳右衛門(29)歳」・「藤右門(49)歳」・「新八(50)歳」の3人が、「売用(商売)」のために、武州(武蔵国)埼玉郡加須町(現在の埼玉県加須市)の日野屋平六のもとに行くので、「お関所をまちがいなく通して下さい。」というものです。
 いわゆる、「通行手形」です。
 近江国蒲生郡内池村は、現在の滋賀県蒲生郡日野町内池と推定でき、近くの日野(村)出身の『日野屋』さんへ「売用(商売)」のために行ったことと考えられます。
 蒲生郡日野付近出身の人々の中には「近江商人」・」日野商人」と呼ばれる人たちがいました。かれらは
年に一度か二度村に帰ったという、言い伝えがあります。

女手形

 女性の場合は、関所手形の他に、さらに女手形が必要であった。特に重要な女の場合は町奉行や代官から、人相、体形、髪形までを書き記した証文を受け取り、それを幕府、あるいは、藩の御留守居役(おるすいやく)に提出して署名して貰う必要があった。

宿場

宿場

各宿場は伝馬、休泊、通信の三つの機能を持っていた。

伝馬機能
問屋場

 伝馬や人足を集めて旅行者や荷物を運搬する継立(ツギタテ)業務と、御用旅宿の手配を行う所である。 規則により各宿場では、一日当り馬100疋、人足100人を用意することになっていた。

宿場役人

 問屋場で人馬継立、休泊などの業務を行う役人。
(1)問屋   宿の最高責任者。宿内の有力者が選ばれ、時には村の名主や
         本陣も兼務した。
(2)年寄   開屋の補佐役
(3)帳付   継立人馬の出入や貰銭を帳簿に記入する人。また人馬を雇う
         旅人の身許や行先も記入した。
(4)人馬指 人馬で運ぶ荷物を差配をする人。

人馬賃銭
 賃銭とは、宿場の馬や人足が、次の宿まで人や荷物を運ぶ場合に適用される料金で、道中奉行がこれを定めたので、御定(おさだめ)賃銭といった。ただし幕府の朱印を押した書状を持った公用の役人や、幕府の然るべき役人が発行した証文を持った武士は、この賃銭を払わずに人馬を使うことができた。この公定の賃銭を支払ったのは大名行列の一行や、その他の武士である。一般庶民には定額の賃銭はなく、当事者向志で話し合って決めた。これを相対(あいたい)賃銭といった。
 (1)人足の賃銭
    .人足一人が持つ基準の重さは五貫目(約19kg)とされ、
     それ以上は 目方に応じて賃銭が決められた。
    .長持一棹は30貫目(112・5kg)が基準で、
     これを六人の人足が担いだので、賃銭は六人分となった。
    ・駕寵(かご)かきも人足として扱われた。
 (2)馬の賃銭
     馬の賃銭は次の運送方法に応じて決められた。

 ・本馬(ほんま)   馬に40貫目(150kg)の荷物を積んで運ぶもの。
 ・乗尻(乗掛馬) 荷物を入れた葛籠を馬の背の両側に付け、
                            その上に蒲団を敷いて人が乗るもの。
                            荷物の重量は20貰日(75kg)まで許された。
 ・軽尻(空尻)   馬に人が乗るだけで荷物を積まないもの。
            ただし携帯品は五貫目(19kg)まで許された。

(3)人足の賃銭と馬の賃銭の割合

 本馬と乗尻 は同じ賃銭。軽尻は本馬の三分の二の賃銭。
 人足は本馬の半分の貰銭であった。

(4)相対賃銭

武士以外の一般庶民の旅人が人馬を雇う場合の貨銭は、相対、すなわち旅人と、人足との当事者同志の直接交渉で決めていた。通常御定貰銭の二倍が目安とされていた。

休泊機能
本陣

 本陣で宿泊したのは、幕府の公用の役人、大名、宮家、門跡、公卿、高僧、貴人など
である。 建物は平屋であったが規模は広大で、門、玄関、上段の間、式台等がついていた。ここで宿泊する大名は、食糧から膳、椀、調度品、寝具、風呂桶までも持ち込んだという。宿泊当日には門前に関札を立て、玄関には定紋付の慢幕、門には麻幕を廻らした。夜になると定紋の付いた提灯を掲げ、家臣が周囲の警固に当った。 本陣の主人は大名にお目見えをし、土産物を献上すると、大名よりは金品などの下賜があった。 これが休泊料となった。

脇本陣

 本陣に準ずるもので、大名の家臣達が泊った。多くは大きな旅寵屋が転化したので、本陣が門と玄関をもつのに村し、一方を欠いたものが多かった。

旅籠屋(はたごや)

 本陣、脇本陣で泊まれなかった武士や、一般庶民を宿泊させた旅宿である。街道に
面する間口の長さによってその大きさを決めていた。また客を誘致するために飯盛女(兼娼婦)を置いていたのを飯盛(めしもり)旅寵(はたご)といい、それを置かないのを平旅寵と呼んでいた。旅人は一泊するだけが普通で、夜朝の二食付の宿代となっていた。旅人は草鞋(わらじ)を脱ぎ、足を洗って上へ上った。 中へ入ると、宿帳に姓名や生国などを記入することになっていた。部屋は大抵相部屋で、時にはごまの灰や枕さがしなどの盗人もいて物騒であった。また食事はまずく、夜具は汚なく、風呂は一度しか沸かさなかったので遅くなれば椅麗な苫はなかった。 

木賃宿(きちんやど)

 自分で持参した米麦で自炊し、煮炊きに使う薪代、即ち木賃(木銭)を払って泊る宿をいう。宿賃が安かったので、商人、旅芸人、巡礼などが泊った。ここには特定の部屋はなく、 また夜具も予め頼んでおかない限り出なかった。 そのため客が囲炉裏のまわりでごろ寝するような所も多かった。

茶屋

旅寵崖では昼食を出さなかったので、旅人達は茶屋で昼食をとった。

通信機能

幕府公用の書状を運ぶのも宿場の負担で、これを継飛脚(つぎびきゃく)と呼んでいた。問屋場では人足の一定割合の人数をこの業務に当てていた。

間宿(あいのしゅく)

間宿

宿場と宿場の中間にあって、旅人達が休息するために設けられた。茶屋の他に宿屋のある所もあり、立場(たてば)より規模が大であった。

立場(たてば)

街道沿いにあった茶屋で、人足や馬が休むほか、旅人もお茶や簡単な食事ができた。人足が持っていた杖を立てて休んだことからこの名前が付いた。

立場

川渡(かわわたり)

川渡

船渡し

東海道で船で渡ったのは、六郷川、馬入川、富士川、天龍川などの河川の他に、今切(浜名湖)と七里の渡し(宮〜桑名間の渡海) であった。それぞれの渡し口には船会所があり、旅人達はそこで渡し賃を支払って船に乗った。

徒歩(かち)渡り

東海道で徒歩渡りの川は酒勾川、興津川、安倍川、瀬戸川、大井川であった。これを川越(かわごし)ともいい、その方法には肩車越、輦台(れんだい)越、手曳(てびき)越があった。旅人達は川会所(かわかいしょ)で人足貰や輦台(れんだい)賃を支払い、人足の手をかりて川を渡った。

肩車越

人足の肩にまたがって越す方法。

輦台(れんだい)越

人足が担ぐ輩台に乗って越す方法。 筆台には人間用に、平輦台、半高欄輦台、大高欄輦台があり、また荷物用には荷輦台があった。平輦台は旅人一人を乗せた場合普通人足四人で担いだが、大名の乗った豪華な駕寵を乗せる大高欄輦台になると30人以上もの人足が担いだ。

手曳越

人足に手を取って貰って渡る方法。

川留(かわどめ)

水深が一定の限度を越えると徒歩渡しは中止となった。これを川留といい、大井川では、水深が四尺五寸(136cm)になると川留となった。

旅の費用

旅の費用

旅籠代

上・・・172〜300文
中・・・148〜164文
下・・・108〜140文

木賃宿

上・・・ 72〜100文
中・・・ 48〜 70文
下・・・ 32〜 45文

雑貨

草鞋(三日に一足)・・・・・14〜16文
髪詰銭(三日に一度)・・・24〜33文
按摩・・・・・・・・・・・・・・・・・24〜48文
酒代(一合)・・・・・・・・・・・15〜20文
そば・・・・・・・・・・・・・・・・・16文
うどん(あんかけ)・・・・・・・16文
昼食(茶店)・・・・・・・・・・・・70〜80文
飯盛女(神奈川)・・・・・・・・600文

人馬の費用(二川から吉田宿:1里22町)

荷物一駄(本馬)・・・・・・・・114文
乗掛人共・・・・・・・・・・・・・・114文
軽尻馬一疋・・・・・・・・・・・・・71文
人足一人・・・・・・・・・・・・・・・54文

籠の費用

4里で600文、それに酒手(さかて)が大体一割

渡船の費用

旅人一人・・・・・・・・・・・・・・・10文
本馬一駄口付・・・・・・・・・・・15文
乗掛荷物・・・・・・・・・・・・・・・12文

川越人足の費用
(大井川の川越人足の賃銭(川札)の例)

股通(またどうし)・・・・・・・・・48文
帯下通・・・・・・・・・・・・・・・・・52文
帯上通・・・・・・・・・・・・・・・・・68文
乳通・・・・・・・・・・・・・・・・・・・78文
脇通・・・・・・・・・・・・・・・・・・・94文
 なお、輦台(れんだい)で渡る場合には、輦台の代金(台札)と、
 それを担ぐ人足の数だけの賃銭(川札)を必要とした。 
 (参考)当時の米の値段と職人の一日の手間賃を次に記す。

米の値段

4合5勺・・・・・・・・・・・・・・・・100文
1人1日分の消費量を3合とすると、1日の米代・・・・・・66.6文

職人の1日分の手間賃

32文

旅の日数

旅の日数

目次

徒歩

一日の歩行距離は平均男で10里(39・27km)、女や老人は8里(31・416km)とされていた。 また、晴天で川留なしと仮定した場合、江戸・京都間を男の旅人は13泊14日で歩いたとされている。この場合13泊した宿場は次のように考えられる。@戸塚、A小田原、B三島、C蒲原、D岡部、E日坂、F浜松、G赤坂、H宮、I四日市、J亀山、K土山、L草津。江戸と京都間の距離は126里6町1間(約496km)であるので、単純に14日間で割ってみると、一日当りの歩行距離は35・4kmとなる。当時の人は相当な速度で歩いていたことがこれで分かる。

早駕籠

これは早打駕寵とか、早追いなどとも呼ばれ、宿場の人足が、駕寵に急使を来せて、宿場宿場で引継ぎながら昼夜兼行で走るものである。 ただしこれは公用に限られていた。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩の江戸城内での刃傷事件(元禄14年(1701年))を知らせる早駕寵は、江戸から赤穂までの170里(約668km)を4日半で走ったのが最高の記録とされている。

継飛脚

これは幕府公用の飛脚である。これには、各宿場で担当する人足の所要時間が決められており、人足達はその時間に従って昼夜兼行で走ることになつていた。宝暦13年(1701年)以降は、江戸から京都まで公用の書状を届ける時間は68時間と定められていた。