(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
航空写真(日本橋 ⇔ 品川)
江戸時代の時間を開く
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江戸時代の時間

高輪の大木戸のサイトを開く

高輪の大木戸

右上に石垣があり、これが現在残っている。本来は柵、門があり、その名の通り「木戸」であった。右下が高札場。

増上寺のサイトを開く
芝の増上寺

中世以降、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかでないが、通説では天正18年(1590年)、家康が江戸入府の折、たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが菩提寺となるきっかけだったという。貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)、徳川家康によって現在地のへ移された。

風水学的には、寛永寺を江戸の鬼門である上野に配し、裏鬼門の芝の抑えに増上寺を移したものと考えられる。

また、徳川家の菩提寺であるとともに、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭となった。なお、延宝8年(1680年6月24日に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。

明治時代には半官半民の神仏共同教導職養成機関である大教院の本部となり大教院神殿が置かれた。のち排仏主義者により放火される。徳川幕府の崩壊、明治維新の政教分離によって境内の広範囲が芝公園となるが、現在なお、大寺の風格を残している。

第二次世界大戦の空襲によって徳川家霊廟、五重塔をはじめとした遺構を失う大きな被害を受けた。

なお、この付近の町名や地下鉄の駅名に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門はコンクリート造である。

増上寺の起源と歴史
広重 江都名所より「日本橋・雪の朝」
日本橋(明治5年頃)  マイケル・モーゼル撮影
日本橋小舟町岸 左手に見えているのが江戸橋。正面が荒布(あらめ)橋。明治5年頃
広重「名所江戸百景」より「日本橋通り一丁目略図」
日本橋通り一丁目 明治10年頃 右手に見えるのが白木屋呉服店

今の日本橋が開橋した時の様子を伝える絵葉書(明治44年)

( 大正10年頃・山田庄一氏による推定) 日本橋の賑わいが伝わってきます。 左後方のビルは三越百貨店です。