(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
航空写真(品川 ⇔ 川崎)
航空写真(川崎 ⇔ 神奈川)
六郷の渡し

現在の多摩川河口部左岸域は、国衛領で六郷保と言われた。古くは大井氏の領地と推定され、鎌倉御家人であった。足利氏により大慈恩寺(現千葉県大栄町)に寄進されたが、江戸蒲田入道に横領された。その後の変遷から、江戸氏一族が六郷一帯を治め、「六郷殿」と名乗ったと見られる。しかし素性は諸説ありハッキリしない。古く河口付近は六郷川と言われ地名に六郷がつくのはそのためである。後北条氏時代には、行永弾正が支配する「後北条水軍」の基地があったらしい。そのことからも海岸沿いに道があったと思われる。

「永禄12年(1569)に江戸に攻め入った武田信玄が、品川を焼いて一転して小田原を襲うかまえをみせた。北条方は六郷の橋を焼き落として甲州勢を通さず」『小田原記』()とある。『北条記』からも六郷橋が存在したと思われる記載があるが定かでない。

家康が建設した六郷橋
橋 は、千住大橋についで古く。最初の長さは百九間(198.4メートル)であったが、貞享元年(1684)に改修された橋は4メートル長くなり、両側に高欄(擬宝珠の付いた)の付いた立派なものであった。当時では規模も大きく橋幅も4メートルほどであった。橋の工事は、多摩川の流路を変える堀を掘るなど大工事であった。六郷橋は両国・千住の大橋と共に「江戸三大大橋」と呼ばれた。
しかし、早くから、たびたびの洪水で破損、1688年の洪水で流されたのち、橋は再建されずに江戸期200年を通じて「渡船渡し」となった。明治7年(1874)に鈴木左内が橋をかけるまで、橋のない状態が続いたのである。

江戸に幕府が開かれたあと、東海道の開設とそれによる交通量の増大のため、重要な『渡し』になった。当初は品川から神奈川までの間(20キロ)に宿場はなかったが、1627年に川崎が宿駅となった。江戸期には六郷側は八幡塚村と言われた。このころ村の人口は、7500人ほどであったという。

渡船の渡し賃
武士や僧侶などの特権階級の人たちは無料であった。渡る人間の7割は無料であったが、それでも庶民の渡し賃だけで年間500両(今に換算すると800万円ほどでしょうか)であったという。渡し賃は、当初、八幡塚村の扱いであったが、不都合があり宝永6年(1709)以後、幕府は疲弊した川崎宿を助けるために渡船権を与えた。この時から、両者の渡船権を巡る争いがおこったのである。

「渡し」は幕府にとって関所と一緒の重要なもので、そのため渡船場は、幕府の「道中奉行」が管轄し、渡河の方法や渡賃を規定した。幕府が定めた場所に定船場(じょうふなば)が決められ、それ以外の場所での渡河は厳しく制限されたという。この話が厳格に運用されていたとすれば、『平間の渡し』や『矢口渡し』は光明寺、新田神社への参拝に利用する庶民の足としての役割が大きく、暗黙の内に許されていたのではないか。

江戸時代の行楽は、寺社参拝を兼ねたもので荏原郡(武蔵の国)の日蓮入滅の霊場「池上本門寺」、歌舞伎で演じられる『神霊矢口渡』で知られる新田義興を祭る「新田神社」、その家来を祭る「十寄神社」、浄土宗の「光明寺」、六郷の渡し近くの「古川薬師」などである。六郷の渡しは対岸の平間寺(川崎大師)にお参りするためにも使われた。池上道も東海道と中原街道の往還に使われたり、庶民の行楽にも利用されたのである。

享保13年(1728)6月7日、広南(いまのベトナム)から、中国の貿易商鄭大成が牡牝(オスメス)2頭の象をつれてきた。牡は7才、牝は5才であったが、牝は9月に死亡した。牡は長崎の十善寺にて飼育され、翌年の5月に江戸将軍家に献上されることになった。

『江戸名所図絵』巻4によれば、牝象の死亡は享保13年9月11日であること、通訳官と象使い2名が付いていること、長崎を享保14年3月13日に長崎を出発、4月16日に大阪、4月26日に京都、5月25日に江戸に着いたと記載している。ほぼ1日3〜5里(12〜20キロ)歩いたようである。京都では中御門天皇の上覧があった。この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられた。江戸にちかずいた5月4日に江戸入府の準備のため、「六郷の渡し」近隣の村に幕府から回状が廻された。

回状の内容は、『象を渡すため六郷の渡しに船を並べ渡河させろ』と命じるものである。象を渡すため30数隻の船を並べ、その上に板を敷き、要所に杭を打ち、船を固定して揺れを防ぐことにした。実際の渡しはどうだったか、子象だが3トンちかくある。困難な作業であったろう。工事の費用は幕府直轄領の六郷領36村と川崎領26村が負担することになった。工事は5月9日に始まり7日間かかった。六郷領だけで延べ805人の人足が参加したという。渡河予定の18日の二日前には幕府から次のような通達があった。

また別の資料「川崎宿御用留」には、渡船三隻をもやい船とし、その上に象小屋を造り渡したとあるが、この可能性もある。
大田区立郷土博物館発行(2005.3.10)博物館ノートNO139『御用象、多摩川を渡る』によれば、『渡し場の長船3艘もやい、上に象小屋を造る、筵バ張り』と記載がある。これは川崎市博物館調査団が調査した、川崎宿の本陣・森家に残る「御用留」の記載によるので確かな記録だと思われる。

江戸近郊八景之内 玉川秋月 歌川広重 天保6-9(1835-38)
この記事の出展サイト
矢口の渡し
『神霊矢口之渡』香蝶楼国定 天保14年-弘化4年(1843-47)
 

浄瑠璃や歌舞伎で有名になった『矢口の渡し』

矢口の渡しは歌舞伎『神霊矢口渡』で有名になった。作者は福内鬼外(ふくうちきがい)こと、讃岐国出身の平賀源内(1729-1779)である。最初は人形浄瑠璃で上演された、好評で江戸浄瑠璃の名作と言われ、その後、歌舞伎にもなって人気を博した。話の場所は『矢口の渡し』で、恋のため我が身を犠牲にする娘の物語。いかにも江戸の人々が好みそうな話である。

『神霊矢口渡』のあらすじ

渡し守の頓兵衛宅の家に一夜の宿を求めて、新田義峯(にったよしみね)と傾城(けいせい)「うてな」がやってきます。二人は恋人で追っ手を逃れてきたのです。頓兵衛の娘お舟は、義峰に一目惚れしました、そのため「かなわぬ恋」と知りながら、追手の足利方に味方する父を裏切って二人を逃します。それを知った頓兵衛はあとを追おうとします。説得のため立ちふさがるお舟を切り捨てあとを追って行きます。瀕死のお舟は二人を逃すために、太鼓をたたいて追って欺むきます。追いすがる頓兵衛に、天から飛んできた新田家重宝の矢(水破兵破)が貫きます。………と言うような悲恋物語。

『神霊矢口渡』は明和七年(1770)の1月16日、江戸の外記座で初演。当初から評判が良く、その秋には大阪の竹本座でも上演されました。歌舞伎の中でも「小芝居」と言われるジャンルに属し、小さな小屋でも演じることが出来ました。地方でも、神社の舞台でも演じられたため日本中で知られることになりました。

彼ひとりの戯作ではなく、浄瑠璃特有の形式や約束事があるため補助(すけ)を頼んでいます。『神霊矢口渡』には補助作者として、吉田冠子、玉泉堂、吉田二一の3名が知られています。

平賀源内について……
晩年の10年間で、平賀源内は全部で9編の浄瑠璃戯作があります。そのうち3編が合作です。彼の戯作の特長として、本草(薬学的なもの)などのトリックを持ち込んだことにあります。例えば「白紙の密書を渡し、水に浸せば文字があらわれる」、「ちん毒などで人を殺す」「水銀を使う」など目新しいものを取り込みました。また、江戸人に受けるように、題材も江戸や近郊のものを選び、言葉も上方から江戸方言や郭言葉を使うなど工夫を凝らしています。江戸の義大夫節の先駆けになったのが平賀源内だったのです。(参考『平賀源内』城福勇著 株式会社 吉川弘文館 昭和46年 発行)

また平賀源内は戯作者としても筆を振るい、「風流志道軒伝」六巻や、浄瑠璃本「神霊矢口渡」などで封建社会を風刺して戯作者の元祖の一人とも言われています。体制を皮肉ったニューアンスが江戸の庶民に受けたのかも知れません。それとも、判官贔屓の日本人の性癖が謀殺された新田義興への同情になったのかも知れません。

源内の生きた時代は、徳川吉宗や大岡越前の改革が動いていた時であり庶民は希望や不安の交錯する気分の中にいた。それらの気分も一役買っていたのだろうか。

平賀源内は何故「矢口の渡し」を舞台にしたのか、それは、渡しに近い新田神社の住職が寺の名を広める、つまり宣伝のため書くことを依頼したのだという。今日、正月に神社で「破魔矢」を売る習慣は平賀源内が考え、新田神社が初めてだという。良く知られている話に「土用のウナギ」は、平賀源内がウナギ屋のために考えた事だそうです。宣伝企画タイプの人間だったでしょう。

江戸から旅に出るとき、南品川から平間街道(古池上道)を通り池上本門寺に参拝、そのまま進み光明寺をお参りして「矢口渡し」から多摩川を超え川崎に至る。こんなコースを選んだ江戸庶民もいたのではないかと考えると楽しい気持ちになる。

矢口の渡し」は大正8年に、すでになくなっていたと言う説もあります。内田和子さんの「多摩川流域の渡河点」(多摩の歩み28、1982年)によれば、「矢口渡しの廃止は昭和24年 多摩川大橋の架設による」ということです。


江戸時代の酒飲み合戦を再現/川崎

江戸時代初期、川崎・大師河原で行われた酒飲み合戦を再現する「水鳥(すいちょう)の祭」が十五日、川崎市川崎区の大師地区で開かれた。往時の装いでの行列、口上や酒飲みの合戦、利き酒コンテストなどが繰り広げられた。地元有志でつくる同祭実行委員会の主催、ことしで十二回目。

 大師河原の開拓者で名主の池上太郎右衛門幸広とその一族一行、江戸の医者で儒学者の茨木春朔と仲間の一行が一六四九(慶安二)年、大師河原で行った壮絶な酒飲み合戦の模様が江戸時代のこっけい仮名草紙「水鳥記」に記載されており、この催しはその故事にちなんで行われている。

 のぼり旗やひょうたんを携え、「水鳥記」の登場人物に扮(ふん)した三十二人の行列参加者は、江戸、川崎側に分かれ川崎大師平間寺、京急・川崎大師駅前など四カ所で合戦を展開。

 口上で気勢を上げ、大きな杯に注がれた日本酒を次々と飲み干した。ユーモア交じりの立ち居振る舞いに、見守っていた大勢の笑いを誘った。

2006年10月15日(日)

江戸時代の酒飲み合戦

六郷渡しの模型が昔の河川を表している

【川崎宿の規模】本陣:2軒 脇本陣:なし 旅籠:72軒
        総家数:541軒
        宿内人別 2,433(男:1,080 女:1,353)
【江戸時代の名物】川崎大師参り、万年屋の奈良茶飯、
         新田屋のハゼ料理
広重 行書東海道より「川崎・六郷の渡し」
1860年代  川崎六郷の渡し   ベアト 撮影