(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
航空写真(平塚 ⇔ 藤沢)
航空写真(大磯 ⇔ 平塚)

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江戸時代の時間

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江戸時代の貨幣

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【平塚宿の規模】
本陣:1 脇本陣:1 
旅籠:54軒 総家数:443軒
町並 東西に十四町六間(約1.5km)
宿内人別 2,114人
(男:1,106 女:1,008)
東海道は江戸をでて、ここ相模川で再び(多摩川に次いで)分断されます。
旅人は「馬入の渡し」で船に乗り川を渡りました。
江戸時代の馬入の渡しは次のようなものでした。
船着場は中島村と馬入村にあったが川会所、川高札は馬入村にあった。
川会所には川名主3人、川年寄3人が詰め、船頭は昼夜を問わず16人が詰めていた。
渡しで使用される船は御召船、役船、馬船、平田船、小船が有った。
小船は定員20名余で長さ5間2尺(約9m)、
馬船は馬が荷物を積んだまま横向きに乗る ことが出る大型の船であった、
平田船は船底が平らで、大きい物は長さ7間、幅9尺ほど もあったという。
渡しには川止めがつきものだが、相模川の川止めは1月〜6月は水丈が7尺より3尺
増水すると川止め、7月〜12月は水丈5尺に対し、やはり3尺増水すると川止めとなった。
川明けは1尺減水(2尺の増水)で川明けとなった。
また、馬入川も、寛永11年(1634)7月将軍家光が上洛の時と、
慶応元年5月19日 将軍家持 が長州征伐に際して舟橋を架けたとの記録がある
宮の前(新宿)を抜け、明石町、見附町となり見附の交差点から
70mほど先の左手に2001年 10月に復元された江戸方見附がある。
江戸見附の大きさは長さ3.6m 幅1.5m 高さ1.6mで上には矢来がある。
明治14年頃の平塚江戸方見附の写真を載せるので、比較してみてください。
大正7年頃の高麗山の写真
歌川広重 保永堂版より「平塚・縄手道」
平塚と大磯の境の古花水川にかかる木橋と、高麗山と富士山 年代不明
平塚新宿の風景 明治末頃