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三保の松原の天女伝説
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海上で興津鯛を釣り、料理(昼食)

三保で一泊

今川家の客人接待コース

今川家が全盛の頃、都からの客人(貴族)への特別接待コースが用意されていて、当時の都でも評判の観光接待コースであったらしい。 内容は下記の絵の通りであるが、すごいじゃん、今でも最高の接待コースじゃ〜ん、あ〜ぁ、接待されたいな〜、最高じゃん。

早朝に今川屋方を牛車にのって出発し、江尻から舟で三保に渡り、そこで一泊、天女の舞を披露?。 翌朝、舟で興津鯛を釣りながら、船上で料理して、酒を振舞いながらの新鮮な鯛料理の昼食を堪能して興津へ向かう。 こりゃ堪らんぜ!!

江尻宿は巴川が造る砂州の上にできた宿で、現在の静岡市清水区にあたります。南に天然の良港である清水湊をかかえ、江戸以前から物資運輸・軍事の重要な拠点となっていました。江戸時代になってからは大坂・江戸航路の寄港地そして隣接する駿府の外港としての発展をみせました。

ここはまた伝説とのゆかりの深い土地です。日本武尊はここで悪党の放った火に囲まれ窮地に落ちた時に愛用の宝刀・天叢雲(あめのむらくも)で草を切り危機を脱したといわれており、この逸話から雨叢雲は草薙の剣と呼ばれました。その物語は江尻にある草薙神社の名として今に伝説をとどめています。また天の羽衣の伝説もこの地のものです。

大正時代になり江尻と周りの数町村が合併して清水市へとなりました。合併後、清水市という名前を巡って江尻町で様々な反対運動がおこったと聞きますが、いずれにせよ今も昔も漁業基地として重要な役割を担い続けています。

現在は、静岡市と合併して静岡市清水区となっている。

開港百年の清水港

近代の清水港は、明治32年(1899)に外国貿易ができる港として指定され、以来100年たった。当初はお茶の輸出が盛んで、大正6年に三万トンが輸出された。
「ジャパニーズ ティー」の輸出用茶箱は、清水市のフェルケール博物館(0543-52-8060)で見ることが出来るが、華やかなデザインに当時の活気をうかがい知ることができる。

国際貿易港清水の輸出額は、約1兆6、600億円、輸入は5、500億円(平成10年)と過去最高だった。
1999年8月1日、開港百年を迎えた清水港では、自衛艦の艦隊が入港した。
そして駿河湾体験航海があって市民らでにぎわった。
清水次郎長

清水 次郎長(しみずの じろちょう、本名:山本 長五郎(やまもと ちょうごろう)、1820年2月14日文政3年1月1日) - 1893年明治26年)6月12日)は、幕末明治侠客

博徒・次郎長の誕生

1820年(文政3年)、駿河国有渡郡清水湊(後の静岡県静岡市清水区)の船持ち船頭・三右衛門の三男に生まれ、母方の叔父で米穀商の甲田屋の主の次郎八の養子となった。幼少時代の仲間に「長」(正式の名称は不明)という子供がいたために周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、次郎長と呼び、長じてからも呼称されることになった。

1843年天保14年)、甲田屋の主人となっていた次郎長は人を斬り清水を出奔、無宿渡世の門をくぐった。諸国を旅して修行を積み交際を広げ成長した次郎長は清水湊に一家を構えた。この時代の次郎長の事跡については明治の初期に養子であった天田五郎の『東海遊侠伝』に詳しい。

幕末における次郎長

1868年慶応4年)3月、東征府判事の伏谷如水から街道警固役を任命され、この役を7月まで務めた。

同年8月、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、暴風雨により房州沖で破船し修理のため清水湊に停泊した咸臨丸が新政府海軍に発見され、見張りのため船に残っていた船員全員が交戦により死亡した際には、駿河湾に放置されていた遺体を小船を出して収容し向島の砂浜に埋葬した。当時、静岡藩大参事の任にあった旧幕臣山岡鉄舟は これを深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡、榎本と交際を持ったとされる。

明治における次郎長

博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためにはお茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を立ち上げている。この他にも県令大迫貞清の奨めにより静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾による英語教育の熱心な後援をしたという口碑がある。

ただし血腥い事件も彼の周辺で起こっており、次郎長不在中に久能山の衛士に3番目の妻を殺されている。また有栖川宮に従っていた元官軍の駿州赤心隊遠州報国隊の旧隊士たちが故郷へ戻ってきた際には駿河へ移住させられた旧幕臣が恨みを込めてテロ行為を繰り返す事件が起き、次郎長は地元で血を流させないために弱い者をかばっている。

1893年(明治26年)、風邪をこじらせ74歳で死去。

天叢雲剣

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とは、三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣(くさなぎのつるぎ)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)とも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。

神話での記述

須佐之男命出雲国で倒した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきた太刀で、天叢雲という名前は、八岐大蛇の頭上に常に叢雲が掛かっていたためとしている。剣は須佐之男命から天照大神に奉納され、天皇家に天照大神の神体として八咫鏡とともに手渡されたとしている。

そのようにして皇居内に天照大神の御神体として八咫鏡とともに祭られていたが、崇神天皇(紀元前148年-紀元前30年)の時代に皇女豊鋤入姫命により八咫鏡とともに皇居の外に祭るようになり、途中で垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命(ヤマトヒメのみこと)に引き継がれ、あわせて約60年をかけて現在の伊勢神宮内宮に落ち着いた。(詳細記事:元伊勢

その後、倭姫命から、蛮族の討伐に東へ向かう日本武尊(ヤマトタケル)に渡された。討伐の後、尾張で結婚した宮簀媛(ミヤズヒメ)の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、山の神によって病を得、途中で亡くなってしまった。宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てた。

なお、古語拾遺岩戸隠れの段において、天目一箇神が金属製の武具を作ったとの記述があり、また、古事記の同段で登場する天津麻羅が何をしたのかが書かれていないことから、このときに天叢雲剣も作られていたとする説もある。そうであれば、このときに三種の神器が全て作られたことになる。

草薙の剣
 高天原でのスサノオの荒々しい行動は姉の天照大神を天岩戸に隠れさせるという事態を招き、そのあとスサノオは髪を抜かれ、手足の爪を抜かれて追放された。

 スサノオは出雲の国の簸の川上に到着し、うちひしがれる老翁と老婆と少女に出会う。ヤマタノオロチが原因と知り、大蛇に酒を飲ませるなどの計略をめぐらし、十握剣(とつかのつるぎ)で寸断したところ尾を切った時に剣の刃先が少し欠けた。そこで尾を輪切りにすると中に一つの剣があった。これが草薙剣で一書では、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の名も伝えられている。大蛇がいる場所はいつも雲気があったからその名がついた。名の由来について水野祐氏は「霊剣が大蛇の尾から出たという連想から、蛇は龍であり、龍は水神である。龍神は常に雲を呼び集めるので、大蛇の尾より出現したこの霊剣は龍神の霊力を秘めた剣であるからムラクモという名称が起こった」とした。

 これをスサノオは神剣として天照大神に献上した。
 スサノオが天照大神に奉った草薙剣は、その後しばらく記紀には姿をあらわさないが、日本武尊が「東夷の叛」の平定を父景行天皇から命じられた際、本来のルートから外れて伊勢神宮を拝み、天照大神(八咫鏡)を祀る叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授けられ、東国へ携えて出征した。この記事は、ある時期三種の神器のうち八咫鏡と草薙剣が伊勢神宮にあり、倭姫命によって皇位継承者として認められたとする伝承の存在を示している。 日本武尊の東征物語では、焼津で焼き討ちにあった時に天群雲御剣で草を薙いで窮地を脱したという有名な物語があります。〈天群雲御剣は、草を薙ぎって災難を逃れた時、草薙の剣と追銘されました〉。東征は窮地の連続でした。走水神の折には妻を日本武尊を慕ってついてきた弟橘比売(オトタチバナヒメ)も失ってしまいます。愛する妻である弟橘比売が、その命を犠牲としたとき「あづまはや」と心がはちきれんばかりに泣き叫びました。そこから、東国を、【あづま】と呼ぶようになりました。  古事記では、日本武尊は草薙剣を受け取った後、尾張国へ行き尾張国造の祖ミヤズヒメの家に滞在した。このことは、当時すでに尾張王朝が成立しており、日本武尊は尾張氏に入婿し、尾張勢力を利用して即位を宣言した可能性が有る。熱田神宮の縁起では、記紀には出てこないミヤズヒメの兄である「武稲種」(たけいなだね)という尾張氏の祖先がタケルの東国征伐に随行している。姫とは東国平定の後、尾張に戻り結婚し長く滞在した。

 その後、不思議なことに大切な草薙剣をミヤズヒメのもとにおいて、近江・伊吹山の神を鎮めに行き、敗北して命を落す。

神話は後の世の作り話である。 天皇制擁護に利用されたものであって
歴史上の事実ではないので(当然!)単なる寓話話として扱うように!

さくらももこ

さくら ももこ(本名:三浦 美紀(みうら みき)、1965年5月8日 - )は静岡県清水市(現静岡市清水区)出身の漫画家。また、自身の少女時代をモデルとした代表作『ちびまる子ちゃん』の主人公の名前でもある。血液型はA型。身長159cm。

エッセイストとしても活躍しており、独特のユーモラスかつクールな視点と語り口で、初期エッセイ集三部作『もものかんづめ』『さるのこしかけ』『たいのおかしら』はいずれもミリオンセラーを記録した。

経歴