(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
航空写真( 鞠子 )
航空写真( 鞠子 ⇔ 府中 )
とろろ汁の丁字屋 のページを開く
とろろ汁の丁字屋 のページを開く
梅・とろろ汁

八木洋行さんのお話。
芭蕉の俳句の梅若菜と鞠子のとろろ汁との関係? 本来とろろ汁の季節は秋である。 梅の季節は早春である? 貯蔵技術が未発達の江戸時代に、芭蕉の歌は、少々おかしいのではないか? との疑問が湧くが、これにはレッキとした理由があるのである。 八木洋行さんが丁字屋の先代の主に訊ねたところ、実は昔は「とろろ汁」には季節があって、営業は秋から梅の咲く季節までの季節食であって、春夏は「とろろ汁」は扱っていなかった、別の食べ物で凌いでいたそうである。 つまり梅の花が咲いたら「とろろ汁」は、
営業終了の合図であったそうである。 ところがその最後の時期のとろろ汁が最も美味しいんだそうで、客には出さず、自分達だけで堪能していたとのこと。 秋に収穫した自然薯を丁字屋の梅ノ木の近くに穴を掘り、藁とか灰とか草など(秘伝)で包んで穴に入れ、土を被せて貯蔵していたそうである。
  であるから、なぜ芭蕉はわざわざ梅若菜と「とろろ汁」を結び付けたのか、ちゃんとした理由があったのである。 その時期が最も美味なとろろ汁であったのである。  お〜ぉ、食いて〜ぇ! (-_-;)
  ところで丁字屋は2005年の秋に食中毒事件があって一時期営業停止をしたこともあったが、今や不死鳥の如く蘇り、連日大入り満員である。 休日の昼時などは相当待たされる。
  それにしても、芭蕉のこの一句は宣伝効果抜群で、江戸時代以来、丁字屋は今も大繁盛を続けている。  なお丁字屋の田舎風建物は、もともとあったものではなく、昭和46年に古い民家を移築したもの。

この鞠子(丸子)の辺りは、自然薯の採集が昔から盛んで。 自然薯と蕎麦で地元の有名人(市長とか、芸能人)が集まる名物婆さんの蕎麦屋があった。 私も数年前、中学時代の同級生達とその店を訪ねて行ったことがあった。 山の中の古びた一軒家で、壁も椅子もボロボロで、まあ実にど汚い状態の荒家であった。 女性陣達はあまりの汚さに悲鳴をあげていた。 皺だらけの婆さんが、たった1人で切り盛りしていた。 一度に10名ほどで押し寄せてきたので、料理作りが間に合わない。 そこで婆さん、命令で同級生の女性達を料理とか食器洗いを強制的に手伝わせた。 女性陣は、「私達はお客なのに何でこうなるの?」とブーブー文句を言っていた。 変わり者の名物婆さんであった。 そして結局、数十分後、湯を沸かす燃料が足りないということで、その日は蕎麦にありつけなかったのである。 お婆さんは、申し訳なかったからというので、1本の自然薯を我々にお詫びのしるしとして只でくれた。 そして、その自然薯は、最も遠来から来たということで、私が手にすることが出来た。 そしてそれを藤沢市の自宅で美味しく、じっくり味わった。
  後日談、その名物婆さんの蕎麦屋は火事で焼けて無くなってしまった。 気の毒にお婆さんもその火事で死んだそうである。  

吐月峰柴屋寺
と げ っ ぽ う さ い お く じ
今川義忠と氏親に仕えた連歌師・宗長が永正元年(1504)55歳で草案を結び余生を送ったところです。
禅宗の影響で孤独閑寂の生活を楽しむことが流行し、宗長自身もここに京都銀閣寺を模した庭園を築き、四季の風物を眺めて暮らしたといいます。
風雅な庭園は本堂の正面はるか南方にある「丸子富士」や庭の西方にそびえる「天柱山」など美しい自然をたくみに取り入れた借景園で、庵の背景となる枯山水の庭園と合わせ、国の名勝・史跡に指定されています。

鞠子(丸子)の山奥に、やはりとろろ汁の美味しい場所がある。

吐月峰

(とげっぽう)

柴屋寺の近くの「吐月園」のとろろ蕎麦が美味かった。

山芋
自然薯(じねんじょ)

日本の山野に自生する天然の山芋。細長く1mに達します。生命力が強く、都会の公園などでも見かけることがあります。 古来から自生していた株の末裔(まつえい)でしょうか?秋には細長いハート型の葉がきれいな黄色に色づき、 ムカゴを付けます。
自然の状態では芋が土の中の石などをよけてクネクネと曲がって伸び、掘り出すのが大変なので高価な貴重品となっています。 自然の産物でありながら、完ぺきな白さとキレのある旨みがあり、植物臭さの全く無い高貴な味わいです。 天然物は東京の市場ではほとんど売られていませんが、最近は畑で栽培されて売り出されるようになりました。 パイプの中でまっすぐに作られるという事です。

長芋(ながいも)

丸い筒状。粘りが弱くやや水っぽいので、すり下ろすよりも千切りにして食べるのにむいています。 成長が早く手頃な値段で売られています。

銀杏芋(いちょういも)

関東では大和芋(やまといも)と言われます。俗称とろろいも。粘りが強くとろろにむいています。 昔は人の足のような不気味な形?をしたものが多かったのですが、最近は左右対称のバチのような形をしたものがほとんどです。 見た目も品種改良のテーマになっているんでしょうか。

捏芋(つくねいも)

直径10cmぐらいのボール上で、関西で一般的な山芋。粘りが非常に強く濃厚な味で美味。 皮の黒い加賀丸いも、皮の白い伊勢薯があります。関西では大和芋と言われます。

大薯(だいしょ)

九州などで少量栽培される熱帯産の山芋。Yamに近い種類で様々な形があります。名前のとおり大きなイモで、 種類によっては40kgに達するものもあります。

弥次喜多 鞠子宿

丁字屋・岡本かの子・岩のり・由井の嫁達の収入減

八木洋行さんの話で、丁字屋での逸話。
岡本太郎の母親として有名な「岡本かの子」が丁字屋でとろろ汁を食した。 その当時のとろろ汁には由井で採れた岩のりが風味としてとろろ汁の中に混ぜられていたそうである。 ところがそれを当時の有名人だった「岡本かの子」が、「岩のりは香が強すぎて、本来のとろろ汁の風味を損なっている」と論評したため、 そのことを知った丁字屋はあわてて岩のりの混入を止めてしまった。 そのことで、丁字屋に納めていた、由井の岩のり採りの嫁達の現金収入が減ってしまったとのこと。
 有名人の一言が世にあたえる影響の強さが窺い知れる出来事であった。

鞠子(丸子)1〜7丁目の古い町並

トンネルの変遷

明治の文明開化は、静岡市と岡部町を結ぶ旧東海道の交通量を飛躍的に増加させた。「宇津ノ谷峠にトンネルを」と働きかけたのが、安倍川に安水橋をかけた宮崎総五だった。

その後、杉山喜平次ら7人が結社をつくり、明治7年(1874)5月随道掘削に着手した。当時はタガネをセツトウ(大型かなづち)で打つという原始的技術で東西の入口から掘り進んだ。工事は難航し、また測量技術が未熟であったため中央で食い違い「くの字」トンネルとなった。

それでも明治9年(1876)6月に貫通し我が国初の有料トンネルがスタートした。工事費2万4,817円余(官の支給分8,300円))で、その経費は50年間の道銭徴収、大人2厘(後に6厘)、子供1厘(4厘)でまかなうというものだった。

明治トンネル

その後、明治23年の東海道線開通で通行者の激減、29年のトンネル火災で不通などに見舞われたが、静岡県による再度の改修で明治37年(1904)再び開通した。
このトンネルが今残る赤レンガの明治第二トンネルである。

やがて自動車の普及と増加に対応するため新トンネルを求める動きが活発化し、大正15年(1926)工事に着手し昭和5年(1930)12月に開通した。この昭和第一トンネルが国道1号線として戦前戦後の日本の大動脈を支えた。 

昭和第一トンネル

だが、昭和第一トンネルは、断面が扁平すぎる、亀裂や漏水が多い、取りつけ道路のカーブが多いなどの欠陥があり、自動車交通の増大に耐えられないと、昭和32年(1957)に建設省静岡国道工事事務所の設計により新トンネルが着工され、昭和34年11月に完成した。この結果、それまで車で15分だった逆川〜岡部町川原間がわずか数分に短縮された。

平成のトンネル
それでも、モータリゼーションの爆発、志太平野への人口流入などで宇津ノ谷の道は、慢性的な渋滞に見舞われていた。
そこでトンネルの南側に並行する新トンネルの工事が平成2年に始まり、平成7年開通した。
宇津ノ谷峠に初めてトンネルが掘られてから百ニ十年余、道は今も進化しつづけている。
また宇津ノ谷峠は、このように新旧のトンネルが現存する全国でも珍しいところである。

旧東海道筋