(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
(21)岡部、藤枝、島田、金谷、(25)日坂
旧国名を表示する

米の単位

米の単位を開く

江戸時代の時間

江戸時代の時間

江戸の物価

江戸の物価を開く

江戸時代の貨幣

江戸時代の貨幣のサイトを開く
宇津の谷の古い町並みサイトを開く
宇津の谷の古い町並みサイトを開く
静岡市宇津の谷の町並み

 宇津の谷村は丸子宿の西に位置し、東海道が通っていて旅人の休憩所として茶店を構え、十団子・田楽などを商っていた集落である。
宇津の谷峠は宇津の谷集落と岡部宿の間にある峠で標高約170m。東海道は奈良期・平安期には焼津の花沢から日本坂を越えたのだが、峠が急峻なため、平安中期以降は「葛の細道越え」を通り、江戸時代には宇津の谷峠が東海道筋となったのである。
「葛の細道」は在原業平の「伊勢物語」の文言がからの引用であり、その後の「平治物語」「平家物語」「源平盛衰記」「義経記」「太平記」「十六夜日記」「新古今集」など多くの軍記物や日記に登場する。
そして戦国期になると、蔦の細道に西方約750mの峠を通る東海道が開かれた。この峠は標高も低く緩い斜面で、集落も多いことから街道としての価値を高め、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めのときに大幅に整備された。そして江戸時代に一般的なルートとなり明治初年まで栄えた。江戸時代の宇津の谷峠の道幅は9尺であった。
宇津の谷村はこの江戸期の東海道沿いにある集落で、今でもこの集落では「車屋」「石屋」「角屋」「伊勢屋」「丸子屋」などの屋号が民家の玄関先に掲げられていて、江戸時代の街道筋の面影を留めている。
そんな中に「御羽織屋」の屋号を揚げた家があった。小田原遠征の途中、豊臣秀吉が休息したおり、主人が戦勝に結びつく縁起のよい返答をした褒美として、帰途、綿入れ紙衣の羽織を与えたのに由来する。この羽織は今でも大切に保存されているそうである。
江戸時代からの建物は少なく殆どが改築や建替えられているが、それでも旧街道筋を歩くと、坂道に屋号を掲げた板貼りの民家が連なり、東海道を行き来した旅人がそこに現れるかと錯覚するほどの町並であった。  

岡部町の町並みを開く
岡部町の町並みを開く
岡部町の町並み

 岡部宿は鎌倉時代から静岡県の丸子から宇津の谷峠を経て岡部宿と、東海道の宿駅として栄えた。
「吾妻鏡」文治元年(1185)12月16日条に「駿河国岡部宿」とみえ、上洛途中の幕府の使者が当宿で発病し床に伏してしまったので、代人を派遣したなどの記載がある。
江戸時代はじめは幕府領、その後田中藩領を経て、享保15年(1730)幕府領となり幕末に至る。
鎌倉時代から東海道の宿場町であったが、正式な宿場町になったのは慶長20年(1615)であった。寛永12年(1635)に参勤交代制が布かれ増加した東海道の交通量を賄うため、内谷村新町が加宿に指定された。これに伴い問屋場が岡部宿本町と内谷村新町の2ヶ所に置かれた。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内町並は南北13町50間余、家数487・人数2,322(加宿を含む)。本町に本陣2・脇本陣2あり旅籠屋27(大3・中7・小17)。
岡部宿は小規模な宿であったから、大大名などの大規模の通行があると夜具などが不足し、燐宿や近在の村々から借りていたようだ。
岡部宿の次は藤枝宿、そして次が大井川を抱える島田宿。増水になり川越えが困難になると、二つ手前のこの岡部宿も賑わった。岡部の宿の客引きも、「川が止まりました。さきへお出になっても、お大名が五ッかしら、島田と藤枝におとまりでございますから、あなたさまのお宿はござりませぬ」と旅人の袖を引いたようだ。
明治22年東海道線が開通したが、遠くの海岸近くの焼津辺りを通り、交通の要衝としての地理的な利便性がなくなり、ミカンや茶などの農業を中心として発展していくこととなった。
岡部宿の本陣や脇本陣、大型旅籠などのあった宿中心部は、街道が拡張され、最近まで国道1号線として整備されてしまい、古い町並の面影は旅籠一軒になってしまい、当時の面影は全くなくなってしまった。しかし、宿内南半分の内谷に入ると国道1号線から外れたため、古い町並が残り、宿場町当時の面影が各所に残っていて、訪ねたものに安らぎを与えている。 

以下の文章は「古い町並み」サイトからの転写である。

蔦の細道

宇津の山ごえと云われた宇津の谷峠には四本のトンネルと、旧東海道と元東海道(現県道)と古道の
蔦の細道があり、旧東海道には、秀吉から拝領した羽織のある「お羽織屋」「十団子」の慶竜寺がある。

静岡市丸子の里の西はずれの宇津の谷峠は、「宇津の山ごえ」といわれる静岡の古道で、遠く1100年前の平安時代から
鎌倉時代を過ぎ、室町時代にいたる
700年間、都と東国を往来する旅人が利用した道でした。静岡市と志太郡岡部町との境の峠道で宇津の谷トンネルの手前の左脇から入るのが「つたの細道」です当時の紀行文などの文献に記録されています「伊勢物語」の作者、在原業平(ありはらのなりひら)は、駿河の国に入った。名高い宇津山にさしかかって、行く手を見ると、これから分け入ろうとする山道は木々が生え繁った暗い細道で、蔦や葛が延び絡んで心細く、とんでもないところへ来てしまったものだ、えらい目にあったと思っていた時、修行者に出会った。その人に「おや、思いがけない、まあどうしてこんな山道へおいでになりましたか」と声をかけられてよく見れば見知った人だった。そこで、これ幸いと手紙を書いて京都の知人のところへ届けて貰った。「駿河なるうつの山べのうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり」この手紙のように当時は蔦かずらの繁った暗く細い峠道であったことがわかります。

国道一号線写真上方面が静岡側、右手建物が「道の駅」である

蔦(つた)の細道の静岡側からの入口

(つたのほそみち)

少し険しい坂道ですが20〜30分登れば峠の頂上に辿り着く

頂上から岡部町を望む

岡部町側の入口

在原業平朝臣(825〜880)は六歌仙・三十六歌仙の一人、平城天皇の孫で、中納言行平の異母弟に当たります。好色の美男として有名で、「伊勢物語」の主人公は業平であると古くから信じられていました。清和天皇の妃となる藤原高子(たかいこ・二条后)と恋におち、ついに高子を盗み出して逃げたのですが、追手に取り戻されてしまいます。この悲恋が伊勢物語の「鬼ひとくち」のモデルであると考えられています。詞書は「二条后の東宮の御息所と申しける時に、御屏風に龍田川に紅葉流れたる形を描けりけるを題にてよめる」となっており、悲恋の相手であった高子の屏風を題にして詠まれたものでした。 余談ですが、この歌を元にした「竜田川という相撲取りが千早という遊女を口説いたが振られてしまい……」という落語「千早ふる」もあります。