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藤枝宿(ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場である。

現在の静岡県藤枝市の山沿い、本町および大手にかけての一帯。歴代の城主が江戸幕府の要職を勤めた田中城の城下町として、またの産地であった 相良に至る田沼街道への分岐点として、最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えた。

明治に入り東海道本線が建設される際、蒸気機関車の煙や火の粉を心配した住民が線路の建設を拒み、藤枝駅は町から3キロほども離れて設けられたため、宿場町や商業地としては衰退を余儀なくされたが、市域が広がった現在では工業地域として、また静岡市ベッドタウンとして発展している。

藤枝宿

宿(しゅく)の東と西の入口には、木戸が設けられていました。木戸は朝6時に開けられ、夕方6時に閉まりました。宿の全長はおよそ2キロで、その中心となるのが、人馬の継立(つぎたて)を行う問屋場と、大名・公家などが泊まる本陣でした。また、旅籠や商家などおよそ670軒が軒を連ね、多くの旅人でにぎわいました。また、下伝馬町には田中城へと通じる木戸(大手口)があり、あたりには武家屋敷も設けられていました。

田中城の本丸櫓や茶室が、下屋敷庭園跡に移築・整備されました。
仲間部屋、郷蔵なども復元され、当時の生活を垣間見ることができます。

田中城下屋敷

宿場(しゅくば)とは?
「問屋場」(といやば)

問屋場は宿場でもっとも重要な施設です。問屋場には大きく2つの仕事がありました。一つは人馬の継立業務で、幕府の公用旅行者や大名などがその宿場を利用する際 に、必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場まで運ぶというもので> す。もう一つが幕府公用の書状や品物を次の宿場に届ける飛脚業務で、継飛脚(つぎびきゃく)といいます。
これらの業務を円滑に運営するために、問屋場には宿場の最高責任者である問屋(といや)、問屋の補佐役である年寄(としより)、事務担当の帳付(ちょうづけ)が詰めていました。またその下に、人馬指(じんばさし)とか馬指(うまさし)といった、人足や馬を指図する役職を置いていた宿場もありました。この他にも、参勤交代の大名行列などを宿場の出入り口で出迎えるための迎役(むかえやく)といった役職を設けていた宿場もあります。
問屋場は一つの宿場に一カ所だけとは限らず、一つの宿場に複数の問屋場があった宿場もあります。このような宿場では、交替で業務を担当していました。

武士の供が問屋場の役人に書類を提出し、宿役人が証文と思われる文書を確認している。外では人足たちが前の宿場から運ばれてきた荷物を新しい馬に積み替えている。

本陣と脇本陣

本陣は天皇のおつかいである勅使や、公家、大名、公用で旅をする幕府の役人などが宿泊するための施設です。本陣だけに宿泊できないときに、予備にあてた宿舎が脇本陣です。
本陣と脇本陣は一般の旅籠屋と違い、特権として門、玄関、書院を設けることができました。
本陣は宿泊施設の中でもっとも権威のあるもので、今で言えば高級旅館といったところでしょうが、特定の身分の人だけが宿泊できたというのはあくまで原則であって、時として一般旅行者が宿泊することもありました。しかしこれも頻繁に宿泊させるというわけにはいかなかったようで、経営的には苦しかったようです。
また脇本陣には一般旅行者も宿泊することもできましたが、本陣より格が一段下がるものでした。

格式と体面を重んじる大名の宿泊が一宿に重なる場合、前もって宿泊が重ならないよう大名側も宿場側も調整しますが、川留(かわどめ)などで重なったときには、本陣に入っている大名の身分が後から来た大名より低い場合、本陣を明け渡すこともありました。
また勅使に対しては、将軍の名代や大名でも本陣を明け渡して脇本陣に移らなければなりませんでした。
さらに本陣や脇本陣に不足が生じたときなどは、宿内の寺院が本陣の代用とされることもありました。

本陣間取図

大名行列のような大人数をどうやって泊めたか?

大名行列は小さい藩で100人ほど、大きい藩では2000人から3000人前後になりました。加賀藩の場合は、多いときで約4000人にもなりました。
このような大名行列を円滑に進めるためにはさまざまな準備が必要でした。まず旅行に先立って宿舎や人馬の手配をするために、あらかじめ宿場に「先触」(さきぶれ)といって通達書を出しておきます。これを受け取った各宿では、宿の割り当てや人馬の手配をしておかなければなりません。
実際の旅となると、行列から先行するかたちで宿割りを担当する家臣らが宿場におもむき、本陣や宿場の入り口に関札を高く掲示します。この関札は、これを掲げた以上、いかなる大藩もいっさい宿泊を許さないという厳重なものでした。
大名は本陣に泊まりますが、その家臣らは宿内の旅籠屋に分宿し、時には周辺の寺院も使うこともありました。1つの宿場ですべての人員を収容できない場合は、前後の宿場に分散して泊まることもありました。

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「旅籠屋」(はたごや)と「木賃宿」(きちんやど)

一般の旅行者が宿泊するところには旅籠屋と木賃宿がありました。
旅籠屋と木賃宿との違いは、食事が付いているか付いていないかの違いです。
旅籠屋では夕食と朝食を出し、店によっては昼食の弁当を出すところもありました。
一方、木賃宿は、旅人が米を持参し、薪代を払って自分で米を炊くかまたは炊いてもらいます。「木賃」とはこのときの薪の代金、つまり木銭(きせん)を意味しています。
江戸時代以前には木賃宿が宿泊の本来の姿でしたが、庶民の旅が盛んになるにしたがい、次第に旅籠屋が増え、宿代も天保年間(1830〜1844年)には旅籠屋は木賃宿の5倍以上もするということで、木賃宿は安宿の代名詞となってしまいました。場所も宿場のはずれなどにありました。

旅籠

木賃宿

「東海道53次」の「次」の意味?

慶長5年(1600)、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝つと、天下統一のために全国の街道整備に着手し、翌慶長6年(1601)に東海道に宿駅伝馬制度をしきました。
宿駅伝馬制度とは、街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで送り継ぐという制度です。輸送のために必要な人馬は、宿場が提供するというものです。
輸送の範囲は原則として隣接する宿場までで、これを越えて運ぶことは禁止されていました。したがって人足と馬もそこで交替することになり、隣の宿場に着くと荷物を新しい馬に積み替えることになります。
東海道には江戸から京都までの間に53の宿場がありましたから、江戸から京都まで運ぶ場合、53回の継ぎ替えをすることになります。そのため俗に「53次」と呼ばれるようになりました。

人馬の「継ぎ送り」

「継ぎ送り」とは、江戸幕府の公用で旅をする人たちのために、その人たちの荷物を宿場から宿場へと、次から次へリレー方式で受け継いで送ることをいいます。
このため各宿では、荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていました。はじめ東海道の各宿には36疋の馬を備えさせましたが、寛永15年(1638)以降、100疋の伝馬と100人の伝馬人足の設置および継立が義務づけられました。
このとき、伝馬朱印状を持つ者には伝馬を無料で提供しなければならず、その代わり、宿場は土地の税金が免除されるなどの特典や、公用の荷物以外は有料とし、その際の駄賃稼ぎが宿場の特権として認められていました。
初代広重が描いた浮世絵には継ぎ送りの光景がよく描かれています。題名も「人馬宿継之図」というもので、問屋場の前で馬から降ろし、新しい馬に積み替えています。
問屋場では武士の供が宿役人に書類を提出したのを、宿役人が証文と思われる文書を確認している様子です。

「助郷」(すけごう)

宿場のもっとも重要な役割は、幕府公用の旅人の荷物を次の宿場まで送り届ける継立業務です。この仕事を宿場にまかせるため、幕府は各宿に一定数の人馬を常備するよう義務付けました。しかしその後参勤交代制の確立などにより交通量が増大すると、
宿場に用意されている人馬だけでは足らなくなり、近隣の村々から人馬を集めなければなりませんでした。
これが制度化して宿ごとに補助する村を定めたものを助郷制といいます。たとえば、元禄7年(1694)に助郷が制度化された小田原宿では、周辺の農村79カ村が助郷として指定されています。なかには小田原宿より3里以上も離れた遠方の村もありました。そのため、人馬を提供しなければならない村々は耕作に支障をきたし、経済的にも苦境に陥るなど、深刻な問題も引き起こしました。

茶屋ではどんなものが食べられたのですか?

東海道を旅する人々にとって、茶屋はなによりの楽しみでした。茶屋で売られている名物に舌づつみを打ち、名産品を買い求めながら、旅の疲れを癒したのです。また昼食は茶屋でするのが一般的でした。
元禄10年(1687)刊行の『東海道分間絵図』を見ると、地図中に「茶屋  うどん  そば切有」という注記がいくつか見え、人気があったことがうかがわれます。
江戸時代の後期ごろには、次のような茶屋と名物がよく知られていました。

河崎万年屋
「立場」って、どんなところですか?

「立場(たてば)」とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息する場所のことです。もともと杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれています。
神奈川県下の東海道には18の立場がありましたが、小田原宿と箱根宿のように宿間の長いところに多く、平塚宿と大磯宿のように宿間の短いところには立場がないところもあります。立場は一般に宿場の出入り口や風光明媚な場所に置かれ、「立場茶屋」といって、土地の名物を用意した茶屋なども存在しました。
たとえば、保土ヶ谷宿境木の立場は権太坂を上り切ったきわめて眺望がきく場所、藤沢宿と平塚宿の間の四ツ谷の立場は東海道から大山道へと分かれる分岐点にありました。なかでも茅ヶ崎の南湖(なんご)の立場は江戸から京に向かうと東海道の左側に富士山が見えるところから、「南湖の左富士」と称せられた名所で、二階建ての茶屋が建て並び、茶屋町と呼ばれるような大きな立場でした。

川崎宿の「万年屋」では名物「奈良茶飯」(茶飯に豆腐汁、煮豆)。
鶴見橋近くには「米饅頭」(よねまんじゅう)を売る店があり、なかでも「鶴屋」が老舗。
生麦村(『江戸名所図会』では生麦村だが実際には鶴見村)の「しからき茶屋」では梅干しと梅漬けのショウガを売り物にしていました。
武蔵と相模の国境である境木の立場にあった茶屋の名物は「牡丹餅」などです。