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金谷宿は、室町のころはちいさな宿場で、当時は菊川の方が栄えていたといいます。本格的に宿場として利用されるようになったのは、東に大井川、西に小夜の中山峠という難所をひかえて、江戸時代東海道五十三次の主要な宿駅のひとつとなってからでした。
 金谷宿は、金谷本町と金谷河原町の二町にわかれていて、金谷本町が他の宿場と同じように伝馬役を務め、河原町が大井川の川越しを取り仕切る川越役・徒渉(かち/歩行)役目を担っていました。
 天保十四年の記録『東海道宿大概帳(だいがいちょう)』によると、金谷宿の全長は東西16町24間、宿内人口は4,271人、宿内家数は1,400軒でした。
 宿内には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒(他に木賃宿も)などの宿泊施設と、川合所などの川越し施設があり、宿場に常備しておかなければならない馬や人足の数は人足が155人5分、馬が100疋で、加えて水害にも苦しみ、これらは町の大きな負担となっていました。のちに川越しのための人足を確保するため、周辺の村々が助郷村に組み入れられました(元禄七年)。

島田河原町から大井川を渡ると金谷宿の東側の金谷河原町。この金谷宿東側の入り口には、八軒屋橋という板橋がかかっていました。通常宿の入り口に左右一対置かれていた桝形が金谷宿には無く、橋がその役割をしていました。大井川の岸からこの橋までの街道の両側は一町五十間ほど松並木になっていて、橋を渡ると川会所(かわいしょ)、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいました。

 河原町から西へ向かって十五軒あたりから先が宿の中心街。本町には三軒の本陣と脇本陣、助郷会所があり、要人の宿泊など町の重要な役割を担っていました。街道の両わきには、これらの施設とともに五十一軒の旅籠が立ち並び、大井川を渡る旅人たちを迎えました。上本町には問屋場や町飛脚があり、人々は農業、旅籠屋、茶店、諸商人などを営んで暮らしていました。
 新町に入り長光寺(ちょうこうじ)の門前を抜けると、金谷宿の西の入り口である土橋に出て、その西側には石畳が敷かれた金谷坂がひかえていました。途中右手には庚申堂があり、中腹まで登ると金谷の町が一望でき、さらに登ると富士山が見えます。金谷坂を登りきると左手から菊川の鎌倉街道につながり、右手には諏訪原城の森が広がっていました。

芭蕉の句碑

街道の面影を今に伝える金谷坂と菊川坂の石畳。
金谷坂の石畳は平成3年『町民一人一石運動』によって、約430メートルが復元されました。
平成13年には、『石畳菊坂助郷伝説』と銘打ち、菊川坂に町内外の方々の手によって山石が敷かれ、611メートルの石畳が復元されました。また菊川坂の一部には江戸時代後期の石畳(平成12年に発掘)が残っています。

石畳茶屋
煎茶セット・300円
(写真は2人分)
金谷の石畳
『江戸時代の大泥棒日本左衛門にっぽんざえもん
享保四年〜延享4年
(1719−1747)

「知らざぁ言ってきかせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、…名さえ由縁の弁天小僧菊之助たぁ、おれがことだ」。これは、歌舞伎『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』浜松屋での弁天小僧の名せりふ。5人の盗賊衆が七五調で名乗りをあげる、次幕「稲瀬川勢揃」で、大親分日本駄衛門は「問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の、沖を超えたる夜働き、盗みはすれども非道はせじ、人に情けを掛川から、金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に…」と大見栄を切る。
文久二(1862)年、江戸市村座初演で大当たりし、現在も上演されるこの芝居。弁天小僧は架空の人物といわれますが、統領の日本駄衛門は、実在の人「日本左衛門」をモデルに描かれました。

生い立ちと資質

日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい、生まれは享保4年(1719)。父は尾張藩の下級武士で、父が七里役として金谷宿に赴任した折に同行したらしい。通称を尾張十(重)、幼名は友五郎。幼い頃から聡明な子どもでしたが、17〜18歳の頃から飲む打つ買うの放蕩者となり、20歳でとうとう勘当されてしまいました。本格的に盗賊活動に入った時期は寛保元年(1741)、日本左衛門が23歳のときといわれ、遠州の豊田郡貴平村に本拠を構えて東海八ヶ国を荒しまわったと伝えられます。

伝記と人物像

『浜島竹枝記』という本では、日本左衛門の人物像について、「日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら、知恵深く、威勢強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手なずけ…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」と述べています。また『窓のすさみ』という書物によれば、率いる強盗の人数は「従う者五、六百」と記されており、大袈裟だとしてもその勢力の大きさを示しています。また『甲子夜話』(肥前平戸藩主松浦静山著)には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人その家をはかりて、盗み入りしとぞ」とあり、日本左衛門は、「箱を砕いて包みから、難儀な者に施し」「盗みはすれど非道はせず」などの盗みの哲学を手下に説いたとされています。 寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは健気である」と大親分らしく悠然と姿を消したというエピソードも残され、大掛かりで派手な義賊の姿は伝えられるごとに脚色され「恰好良い大泥棒」になっていきます。しかし、三右衛門の訴状(後述)によると、娘の婚家に日本左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像はかなり荒っぽい盗賊だったようです。
また、日本左衛門の姿について、指名手配の人相書きから伺うことができますが、たいそう豪快な男が浮かんできます。身の丈五尺八、九寸(身長175cm位)、年は29歳程、鼻筋が通って色白、面長、頭に5cmほどの傷あり。 また、自分からは手を下さず、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗、金筋入りの半纏(はんてん)に黒縮緬の小袖を着、黒繻子(しゅす)の小手、脛(すね)当てをつけ、銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、腰に早縄をさげた出立ち…といいますから、相当派手な強盗の親分です。芝居に登場するのも当然でしょう。

盗みの手口

日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録にあります。「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には5〜60人余りを使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が五、六人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案内させて強奪する」と『浜島竹枝記』に記されています。延享三(1746)年には掛川藩領の大池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪ったといい、芝居『白浪五人男』浜松屋の場も、駿府の呉服屋「唐金屋」で起こった日本左衛門一味の巧妙な詐欺を描いた話であるともいわれます。

また、東海道金谷の石畳上り口にある庚申塔は、夜盗に出る前に身支度をした所であるという伝承もあります。「見ざる、言わざる、聞かざる」の庚申さんと、夜盗に出る日本左衛門の組み合わせとは、いかにも洒落がきいたエピソードです。

日本左衛門捕まる

一味の狼藉は、天領、旗本領、藩領が入り組んだ治安の弱い地域を狙ったもので、地元の代官所では手に負えず、向笠村の豪農三右衛門の直訴もあって、幕府が直接に捕らえることになりました。それに伴い地元である掛川城主の小笠原長恭は責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相良藩の本多忠如も福島県の泉に移されました。
幕府直接の捕物として、江戸火付盗賊改めの徳山五兵衛に命が下り、同心22名を卒いて延享3年9月に江戸を発ち、地元捕り方の応援を得て、金谷、掛川、浜松に大捜査網が敷かれました。しかし、手下は捕まっても日本左衛門は一向に捕まらないため、全国に人相書きを配布(右)。一方、日本左衛門は支配者の異なる旗本知行地を転々とし、見附から美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へ逃れますが、自分の手配書きを見、受け入れてくれる脈も無くなったことから逃げ切れないと決心して、京都町奉行所へ自首しました。一部書物では、ここで「問われて名乗るもおこがましいが…」と大見栄を切ったとされています。

最期と後の義賊贔屓

日本左衛門が盗賊を働いていたのは八代将軍吉宗の時代で、幕府の窮状を救うため享保の改革が進められたころ。庶民は倹約と重税に息苦しい生活を余儀なくされていました。そこに日本左衛門のような盗賊が出現して、江戸から来た侍たちが大捕り物を繰り広げたら庶民の間で義賊像がふくらんでもおかしくありません。役人や権力者を翻弄して逃げ来る怪盗に江戸庶民は拍手を送りました。反権力のヒーローを求める心理が、盗賊を義賊にまつりあげていったのです。そして事件から120年後、白浪狂言の名人河竹黙阿称作『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(演目では『白浪五人男』)が庶民にもてはやされました。

延享4年(1747)3月、日本左衛門は遠州見附で処刑され、首は見附の三本松の仕置き場にさらされました。その首を愛人三好ゆきが盗み出し、金谷宿川会所跡の南にある宅円庵に葬ったといわれ、今も日本左衛門の墓と「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」の句碑があります。

日本左衛門手配書控

落合芳幾「無題(白波五人男)」

白浪五人男と称する盗賊五人組の活躍を描く。白浪物は盗賊が活躍する歌舞伎狂言を総称する名前で、後漢書霊帝紀に現れる白波の賊(白波谷に出没する張角の残党)に由来する。二幕目第一場(雪の下浜松屋の場)での女装の美男子、弁天小僧菊之助の名乗り(男であることを明かして彫り物を見せつける)、二幕目第三場(稲瀬川勢揃いの場)での追っ手を前にした男伊達の扮装に身を包んだ五人男の名乗りが名高い。敵を前に五人組が勢揃いし、堂々と一人づつ見得を切る姿は見物であり、この様式ははるか後世の秘密戦隊ゴレンジャーを初めとする子供向け特撮ヒーロー番組(所謂戦隊もの)にまで受け継がれている。大詰第一場(極楽寺屋根立腹の場)の弁天小僧切腹から第二場(極楽寺山門の場)の駄右衛門登場に至る「がんどう返し」(どんでん返し)も目を惹く。「青砥」は追っ手の名前に因む。歌舞伎の人気狂言「雁金五人男」「新薄雪物語」「山門五山桐」などのパロデイが見られ、それをまったく新しい作品に作り変えた作者黙阿弥の機知に富む傑作。

白浪五人男

父親の職「七里役」とは、藩が街道の七里ごとにおいた公文書の取継ぎや情報収集を役目とするもので、「進行を妨げる者は3人までは斬り捨て御免だ」と豪語し、その服装は竜虎梅竹などを加賀染めした半はんに金糸銀糸の刺繍をほどこしたビロードの半襟、腰には脇差と赤房の十手とたいそう派手なもので、横暴な振る舞いも多かったそうです。そのような親の資質と環境からも、日本左衛門の登場はうなずけるものがあります。

諏訪原城址

諏訪原城は、牧ノ原台地の北東に位置し、東方に大井川が流れる台地上に築かれた後堅固な山城である、
 標高200m余り(比高は約150mほど)、北および東側は切り立った斜面となっているが、牧ノ原台地に面する西側から見ると、平城かと錯覚しやすい。
 現在、城跡は雑木林と茶畑となっていて、比較的高低差の少ない山城なので歩きやすい。

 現在も、空堀・曲輪・井戸など9割の遺構がほぼ完全な形で残されており、丸馬出しを多用した武田流築城法の典型を堪能することが出来る。
 本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦手・亀甲曲輪の八郭からなる縄張りで、その形態が扇状に配置されていることから「扇城」の別称を持つ。
 自然地形を利用したものと人工の大小の堀が、三日月堀を含めて13本あり、その堀は、石垣こそ用いていないが、深くて急斜面を呈している。

 武田氏の守護神である諏訪大明神を城内に祭ったことから、それが、城名の由来となっているが、史料には、城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られるという。

石畳

諏訪原城址

日本左衛門

至島田

至菊川

金谷 1910年代