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現在の夜泣き石

久延寺

小夜の中山、夜泣き石

山賊に殺された妊婦。
その傍らにあった石の所で
赤子が産み落とされた。

その石は、赤子に代わり
泣いて助けを求めた。

赤子は、やがて成人し
立派な住職になったという。

喜多さん、この石は
生きているぞ!!
何か言っているようだ!!!

八木洋行さんの「夜泣き石伝説」

平安時代に藤原良政はこの地に住んでいた美しい娘「月小夜」と良政は結ばれます。良政は月小夜を都につれてゆきますが、月小夜は気苦労の多い都の生活をさけ、やがて山に帰ります。その月小夜が住んでいた山が「小夜の中山」です。  月小夜と良政の間には、小石姫と言う女の子が生まれました。やがて、良政の決めた許婚者が都からやってきます。

しかし、このときすでに小石姫のお腹には足利尊氏の伯父、空叟上人の子供がいました。小石姫は自分の身の不幸を嘆き、松の下で自害します。 さて、残された小石姫の子供は、空叟上人が中国伝来の製法の飴を使って育てます。これが「子育て飴」の由来です。

さて、小石姫が自害した松は「夜泣き松」と呼ばれました。きっと、夜に人知れず泣きながら死んだ…とかの話が元になったのでしょう。この悲恋の話は有名となり、江戸時代に入って東海道が整備され、旅人が多くなると観光名所となりました。

夜泣き石伝説に深い関わりを持つ久延寺は、当時の掛川城主だった山内一豊が徳川家康をもてなした寺としても有名です。境内には家康お手植えと言われている五葉松があり、秋には観月会も催されます。

「夜泣き石」伝説には数多くのバージョンがある。
  丸い石は何か神秘性を感じさせるらしく、各地に「子生まれ石」や「子育て石」、「夜泣き石」伝説が、数多くある。

この近辺では、相良町西萩間の子生まれ石と大興寺の住職の石が有名である。

その後の夜泣き石

明治元年、明治天皇の上洛の時、道の真中にある夜泣き石が邪魔になった。
江戸時代、夜泣き石伝説で有名になった久延寺は、境内に石を引き取り観光資源にしようと村の有力者2人から融資250円を受け、それを村に支払った。

明治13年東京浅草で勧業博覧会が開かれ。寺では夜泣き石を見せ物にしようと重さ900キロ、高さ60センチの石を荷車に乗せ山を下り、大井川からは船で会場まで運んだ。

ところがその前に、東京の興行師が張子の夜泣き石をつくり、中に赤ん坊を入れて「これぞ、かの有名な小夜の中山の夜泣き石」と石をたたけば赤ん坊が泣き出す仕掛けを作った。
この興行は大当たりしたというが、本物が着いた時は既に遅く、また石は泣かないので苦労も水の泡、帰りは焼津・和田港までで資金が底をついたという。

小泉屋裏手の夜泣き石

そこで、村の有力者2人は半年後、港にあった石を取り戻し、現在の国道「小夜の中山トンネル」東口の食堂・土産店「小泉屋」の裏手に置いた。

小泉屋

やがて昭和11年、東京・銀座の松坂屋で開かれた静岡物産展に出展したところ大評判になり会場はごったかえしたという。
翌年夜泣き石の所有権をめぐって久延寺と小泉屋の間で裁判沙汰となり久延寺側は敗訴した。

久延寺の夜泣き石

久延寺は、名刹で慶長五年(1600)に徳川家康が江戸に下る時、掛川城主の山内一豊が茶亭を建て家康をもてなしたという寺である。

現在は、静かな峠道の寺であるが、境内には「夜泣き石」が置いてあり伝説を今に伝えている。
地質の研究者によれば、大きな丸い石は、稀に産出するという。(従って、久延寺にある石は江戸時代のものではない。)

「夜泣き石」伝説、菊川バージョン

何百年か昔のことでした。菊川の村に若い夫婦が住んでいました。二人は貧しいながらも仲むつまじく暮らしていました。

妻のお腹には子供ができていて生まれる日も近くなっていました。

 ある日のこと、夫は用事があって京都のほうに行ったままなかなか帰ってきません。生活費も底をつき、妻は昔から家に伝わる『赤玉丸』という刀を質にいれ、お金を借りようと思い、それを持って日坂の町へと急いで歩いていきました。小夜の中山の峠に来た頃にはすっかり日も暮れていました。突然石の陰から盗人がでてきて『金をおいてゆけ』と言いました。お金などあるわけはありません、女は持っていた刀で立ち向かいました。しかし、刀はもぎ取られ、盗人に切られてしまいました。

 その夜から峠にある大きな丸石から赤子の鳴き声がし、夜な夜な近くの飴屋に僧侶が飴を買いにくるようになりました。その僧侶は久延寺の観音様の化身で、殺された女が信心深くお参りしていたお陰で観音様が赤ん坊を助けたのでした。数日後、村人たちが丸石の陰に赤子を見つけ、久延寺の和尚が育てることになりました。その子は母の敵を討つために、大阪へ刀研ぎの修行に行き、『赤玉丸』を探すことにしました。

 ある日、男が名刀を研ぎにやってきました。その刀にはかけた所があったため、男に尋ねました。「とてもいい刀ですが、この傷はもったいないですね。」
男は、「むかし小夜の中山で女を切ったときに、近くにあった石で傷がついてしまった。惜しいことをした。」と言いました。この男が母を殺した盗人であると確信し、その場でその男を斬り、母の敵を討ちました。

 その後、久延寺にもどり和尚にこのことを報告し、出家して山にこもり、母の菩提を弔ったとのことです。

いつしか、夜泣き松の皮をいぶした煙が、子供の夜泣きに効果があるという噂が広まります。こうなると旅人というのは無責任なもので、悲恋話ゆかりの松の皮をみんなが少しずつ削り取り、ついには松は丸裸になって枯れてしまいます。   そして、この近くの寺(久延寺)に商才に長けた和尚がいまして。 この和尚は飴作りの秘伝を持っていて、村人とも協力して、飴を作りそれを「子育て飴」として通行人に売り、収入を得ていた。  そして、営業促進のアイディアを思いついたという。 「夜泣き松」に代わって、減ることの無い「丸石」を使って、「夜泣き石」伝説を作り始めた。 そして、「子育て飴」とセットにして、東海道の名物に仕立て上げたのである。  それが大成功して、寺や村の収入に大いに貢献した。 その「子育て飴」は今でも小夜の中山名物として売られている。 しかし東海道もバイパスが出来て以来、旅人はメッキリ減り、往時の繁栄振りはなくなり、静かな観光地となっている。

日坂の古い町並み

日坂は、鎌倉時代、延慶3年(1310)の「夫木和歌抄」と云われている。「経覚私要鈔」応仁2年(1468)条の京都より鎌倉までの宿次第によると、懸河宿と菊川(現金谷町)の間に「西坂」とみえ、もうこの頃には宿場の機能があったようだ。文明12年(1480)上洛途中の太田道灌は「日坂といふ山中」で和歌を詠んでいる(平安紀行)。
江戸時代はじめは山内氏領であったが後に幕府領となる。
日坂宿は近世宿駅に指定されて以後整備され整っていった。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、家数168・人数750であり、本陣1(本町)・脇本陣1(本町)・問屋1(本町)・旅籠33軒(大3・中22・小8)で、東海道53宿中坂下・由比宿に次ぐ小宿であった。宿内町並は東西6町半(約700m)、宿は東から上町・本町・下町・古宮町と続いたが、上町には人家が無かった。 本陣は片岡金左衛門が代々世襲して扇屋と称していた。 この宿場は東海道の宿場の中でも特異な形をしている。宿場が半円形の街道に沿って展開していることである。中世の街道が鎌倉に向かう場合、宿場の高札場のあった宮古橋から真っ直ぐ北に進んでいたが、東海道53次の宿場に指定され、整備されたのは、現在の町並のように、宮古橋からわざわざ、街道を左に半円形に湾曲させて、長くなった街道筋に本陣や脇本陣・旅籠・問屋などを置いたことである。僅かでも平らな平地を利用して、多くの宅地を確保できる方法が取られたのだろう。

夜泣き石 1910年代撮影
日坂 東海道筋の茶店 明治初め頃