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江戸以前の懸河

古代、交通の要所として設置されていた遠江五驛のうち横尾駅が現掛川のあたりであろうといわれています。掛川の名については、『吾妻鏡』に「懸河」の地名がはじめて登場しています。中世になると豪族がこの地に館・砦・城を築いていたらしく、応仁期には大きな城邑を築いていたといわれます。

 掛川宿の城下町としての歴史は、今川氏が遠江侵攻の足掛けとして室町時代の文明年間(1469〜1487)に家臣朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)に掛川古城を築かせた頃から始まります。泰熙は、掛川城(古城)を天王山に築き、この城下町形成にあたって、街道を逆川の南側に変更してます。永正以前の懸河宿は、この天王山あたりを呼んだものと思われます。この懸河という呼称は、松尾曲輪の内、池東の低地の数十歩の間を懸河と呼び、その地形が川の流れが迫って、懸崖であったためではないかといわれますが、西宿のあたりが倉真川と逆川の合流地点であることからきた呼称とも考えられるそうです。
 その後、永正十年(1513)ごろ、この古城の南西方向にある竜頭山に、現在の掛川城の前身となる新城を築き、江戸時代には徳川氏譜代の諸大名が入れ替わり入封し、現掛川城付近が宿場として栄えることになります。  

江戸以降の掛川宿

江戸時代の掛川宿は、慶長初期に山内一豊が形成した城下町です。一豊は逆川を利用して城下町を境堀で囲み、境堀内の当初の町は、表通りに木町(喜町)・仁藤町・連雀町・中町・西町、裏町に塩町・肴町・紺屋町・研屋町、横町に瓦町の10の町から成っていました。時を経て境堀東の外側に町並みが発展し、元和6年(1620)に新町として加えられて11カ町となり、さらに文化3年(1806)には下俣町・十九首町が加わって13カ町と発展していくました。『東海道宿村大概帳』(天保14/1843)によると、宿の境は、東側上張村、右側仁藤村から西の境左下俣村、右大池村までとあり、おそらく新町より西町分十王町までの間と思われます。町並は東西8町、宿内人口3,443人、総家数960軒、旅籠屋30軒とあり、川越えを控えた金谷宿よりも宿の規模は小さいのですが、宿周辺の11町(のちには13町)が伝馬町、人馬役町として指定され伝馬宿として栄えていました。伝馬町に対しては、馬1疋につき地子(じし/屋敷課税)を免除する制度がありましたが、その率は一定でなく、平均馬1疋に対して40坪だったのに対して、掛川宿の場合は60坪でした。これは掛川のような城下町は藩体制において運輸・郵送上重要な役割を果たしていたからだと考えられます。

大手門

太鼓櫓(たいこやぐら)

掛川城二の丸御殿

戦国時代、掛川は東海道の東西交通の要衝として重要な戦略拠点であったため、今川、徳川、武田氏など多くの武将がこの地をめぐって争いを繰り広げました。
 掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりです。しかし、今川義元が桶狭間で討たれると今川氏は力をなくします。1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真を徳川家康が攻め、半年に渡る激しい攻防戦の結果、家康は掛川城を手に入れます。

1590年、事実上の天下統一を果たした豊臣秀吉の命により、掛川城には”内助の功”で有名な山内一豊が入城します。一豊は戦乱で傷んだ城の大改築を実施し、同時に城下町の整備を行いました。
 江戸時代になると、掛川城には徳川の譜代大名数氏が城主を引き継ぎ、最終的には太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、明治維新まで続きました。
 しかし、1854年の嘉永の大地震により天守が倒壊し、その後しばらくは再建が行われることはありませんでした。

現在の掛川城は平成6年4月に、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。天守閣の再建にあたっては、山内一豊が築城した高知城を参考に、残された図面に基づき、樹齢300年を越える厳選された青森ヒバを用いて、「東海の名城」とうたわれた往時の美しさを忠実に復元しました。

城主の席?

大河ドラマ『千代と一豊・掛川館』
掛川の名園・名所・名物を動画で紹介

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山内一豊の静岡での業績

◆国土開発にも努めた一豊
 一豊は、往城の10年間、国造りの一環として大きな土木工事を行っています。秀吉から命じられ、1,200人の軍兵を引き連れて、伏見城の石垣の普請と門の作事を行いました。また掛川城では、外堀と内堀で城下町を取り囲む「総掘り」の土木工事を行っています。そのほかにも、後世に残る大きな工事として、新田開発と洪水防止に努めた大井川の土木工事があります。

◆金谷宿と島田宿へ影響を与えた大正の瀬替え
 室町時代から戦国時代まで、大井川の流れは横岡あたりで、牛尾山にぶつかり、西へ向きを変え新宿、志戸呂を経て二軒屋の崖にあたり、束に流れを変え対岸の旗指・野田方面へ流れ、大雨の際は大洪水を起こしていました。この大きな川の扇状地の要で流れを変えたのです。駿河城主の中村一氏が牛尾山と相賀の間、約144間(約260m)の掘削を行い、流れを直進させました。一豊は、それまでの流れの牛尾山と横岡の間に、約80間(約145m)の堤を築き、その後旧河川の跡が開墾され、新たに「竹下、牛尾、島、番生寺、横岡新田」の五和村(ごかむら)が誕生しました。五和村は山内領とされ、この堤は現在も地元の人達に、一豊堤(横岡堤)と呼ばれ、石稗が建てられ大切にされています。 この河道の変更は、金谷宿・島田宿の形成に大きな影響を与えました。戦国時代までの東海道は、牧之原台地から二軒屋、鎌塚を通り元島田へ渡るルートが主流でしたが、本流が東へ移ったことにより、流れは鎌塚を直撃するようになり、渡渉箇所としては不適当になりました。一方、金谷宿では旧河道の開発が進み、日坂から間の宿菊川を経て金谷へ至り、金谷河原から大井川を渡り島田河原町へのルートが確立され、近世東海道の川越しの金谷宿・島田宿として発展します。

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弥次喜多 掛川宿
弥次喜多 掛川宿