(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
衛星写真 (26)掛川、袋井、見附、(29)浜松
旧国名を表示する

米の単位

米の単位を開く

江戸時代の時間

江戸時代の時間

江戸の物価

江戸の物価を開く

江戸時代の貨幣

江戸時代の貨幣のサイトを開く

見附宿(みつけじゅく) は旧東海道宿場で、五十三次の江戸から数えて二十八番目、から数えて二十六番目にあたる。

現在の静岡県磐田市中心部。見附の名は京から来て初めて富士山が見える場所であることから付けられたとされる。天竜川の左岸にあたるが、大井川と違って水深があったため主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかった。しかし川止めのときは島田宿などと同様に足止めされた人々で賑わったとされる。また遠江国分寺や見附天神の門前町であり、姫街道の分岐点でもあった。

東海道本線敷設にあたり、見附宿の南方の中泉村に中泉駅が設置された。見附と中泉は1940年に合併して磐田町となり、1948年に市制施行した。

姫街道

「姫街道」・・・このやさしい名をもつ街道は、東海道の見付または浜松から気賀・三ヶ日の浜名湖北岸を通り、本坂峠を越えて嵩山(すせ)・御油に至るまでの東海道脇往還である。
 正式名を「本坂通(本坂道)」という。静岡県と愛知県の境にある本坂峠を越えることから、「本坂通」と言われている。

 「姫街道」の名称の由来については、大きく分けて二つの説があるようである。
 一つ目の説として、特に女性が東海道を避けて「本坂通」を選ぶようになっために「姫街道」と言われる説である。
 これは
   ・新居の関所の厳しい取り調べを避けるため。(入鉄砲に出女)
   ・舞坂・新居間の危険な航海を避けるため。
   ・舞坂・新居間の渡しを「今切渡」と呼ぶことから、不吉な言葉であるため。
の3つが言われている。
 もう一つの説として、「ひね」が「ひめ」に訛ったとする説である。「ひね」とは「古びた」という意味があり、東海道より歴史の古い街道「ひね街道」が「ひめ街道」に訛って変わったというのである。これは、近世になり発展する東海道に対して、「本坂通」は古代から中世にかけて栄えたが、徐々に「ひなびた」様子となり「ひね街道」になったと考えられる。
 他の説として、本街道の東海道を主(男)、脇街道の「本坂通」を従(女)と見立てた説もあるようである。

 次に「姫街道」のコースであるが、いくつかのルートがあるようだ。
 一つめは「東海道の安間より市野宿・気賀宿へ至る道」である。このコースは安間の一里塚を起点にして一里塚が設けられていたことから、江戸時代の始め頃には幕府公認の街道となっていたようである。次に「東海道浜松宿から気賀宿へ至る道」である。このコースは、明和元年(1764)に幕府の道中奉行管轄となった街道である。これは、城下町でもある浜松宿の肥大化により市野宿が徐々に宿としての機能がなくなったため、このコースが公道になったと思われる。さらに「見付宿より池田の渡しを経て市野宿・気賀宿へ至る道」のコースもある。
 気賀宿からは三ヶ日宿・本坂峠を越えて嵩山宿に至る。嵩山宿からは御油宿に至る道と、吉田宿に至る道の2つがあるが、御油宿に至る道が道中奉行管轄のコースとなっている。
 「姫街道」の浜松宿から御油宿までの里程は13里30町(約55k)であり、東海道の11里20町55間(約46k)より2里10町(約9k)遠くなっている。

ではこの「姫街道」(本坂通)、いつ頃から利用されたのであろうか。
 「ひね街道」の説があるほどである。
   ・万葉集にみられる遠江の東歌が浜名湖北岸を舞台にして詠まれている。
   ・平安初期に橘逸勢が本坂峠東麓で悲運の生涯を閉じている。
   ・本坂に関所が設けられている。
 これらのことにより、浜名湖北岸を通る道は古くから利用されているようである。

 永正年間(1504〜)に今切口ができたことにより、東海道は渡船で渡らなくてはならなくなり、「姫街道」の道が利用される。だが、渡船の確立によりまた東海道を利用する人が多くなり、徐々に「姫街道」は衰退し「ひね街道」となっていく。

 ところが、宝永4年(1707)に大地震が発生し、今切渡船場が破壊されてその機能が停止てしまった。東海道を通っていた人々は「姫街道」に迂回するようになるが、「ひね街道」ではもはや大通行を賄えるだけのものではなかった。街道沿いの宿場は混雑をきたし、村の住民たちも助郷のために迷惑をうけたようである。
 その後、今切渡船場の機能が回復しても「姫街道」の通行は減らず、東海道筋で生計をたてている住民達は困窮に追い込まれることになり、道中奉行へ訴える始末であった。
 このため幕府では「姫街道」を通行しないよう布達を出したが、あまり効果がなかった。しかも、亨保3年(1718)に将軍吉宗の生母浄円院が紀州和歌山から江戸に向かうにあたって「姫街道」を通ったこともあり、「姫街道」の通行もあとをたたなかったようである。したがって、東海道筋の宿場の経営は依然として厳しく幕府に「姫街道」の通行禁止令を何度も願い出ていた。
 「姫街道」も街道としての設備が整い「ひなびた街道」から「ひめ街道」となり、東海道の脇街道として強く意識されて、明和元年(1764)道中奉行の管轄となる。

現在の姫街道の風景
現在の姫街道の風景
現在の姫街道の風景
現在の姫街道の風景

もう一つの東海道

追分(おいわけ)

追分(おいわけ)は、道が二つに分かれる場所をさす言葉。もとはを追い分ける場所の意味で、街道の分岐点を指し、甲州街道青梅街道の分岐である新宿追分、中山道北国街道の分岐である信濃追分など、各地に地名として残っている。

また、そこから派生して、こうした地名を冠した日本の民謡の一種(追分節)の略称として用いられることもある。

三方原の戦いのサイトを開く
追分節

日本の民謡には、「○○追分」(○○は地名)というが各地にあり、その多くは朗々とを響かせてうたうである。著名なものに「江差追分」などがある。もともとは信濃追分(現在の長野県軽井沢町)付近で歌われていた馬子唄が、関東以北の各地を中心に広がったとされている。

追分の音楽的特徴として、

などが挙げられる。

小泉文夫は日本音楽のこのような形式に注目し「追分形式」と呼んだ。追分形式と対照的なのが拍節感のはっきりした「八木節形式」である。

江戸期の内藤新宿追分復元模型

ジュビロ磐田の公式ホームページ

磐田市といえばサッカーの「ジュビロ磐田

2006年度 選手一覧へ

中山 雅史 FW

ワールドカップサッカーの決勝戦が開催されたエコパ
「ねんりんピック2006年静岡」の開会式会場

ジュビロ磐田の歴史

1994年Jリーグ加盟。会社はヤマハ発動機など地元磐田市周辺企業が出資して設立された。正式な会社名は株式会社ヤマハフットボールクラブ。ホームタウン静岡県磐田市。ホームスタジアムはヤマハスタジアム(旧・ジュビロ磐田スタジアム)。練習は同市内にあるヤマハ大久保グラウンドと、隣接する磐田スポーツ交流の里・ゆめりあが使用されている。チーム名の「ジュビロ」はポルトガル語(Jubilo)・スペイン語(Jubilo)・イタリア語(Giubilo)で歓喜の意味。

1992年末にJリーグ準会員に加盟。1993年JFL1部で準優勝し、1994年からJリーグ昇格。元日本代表監督ハンス・オフトを迎え、オランダ代表ファネンブルグ、元イタリア代表スキラッチ、ブラジル代表ドゥンガなど大物外国人選手の補強が相次いだが、次第に日本人選手の育成にシフト。レギュラー選手を固定化することで高度なチーム連携を実現。

1997年の2ndステージで初優勝。チャンピオンシップでは、この年のリーグ戦、ナビスコカップを通じて一度も勝てなかった鹿島アントラーズ中山雅史の活躍により破り初の年間王者に輝いた。1998年は爆発的な攻撃力により1stステージ優勝、2ndステージ2位、ナビスコ杯優勝の成績を残すも、チャンピオンシップで鹿島に昨年の借りを返され連覇はならなかった。1999年は1stステージの優勝によりチャンピオンシップに出場し、清水エスパルスを破り2度目の王者に輝いたものの、2ndステージは12位に終わっており、中山らは「年間を通して安定した戦いをしたのは清水だ」と語っている。この年はアジアクラブ選手権にも出場(優勝)しているため過密日程だった。

2000年はステージ優勝はなかったものの、ゼロックススーパーカップで初優勝。年間順位は4位。2001年は開幕8連勝の勢いで1stステージ優勝。2ndステージも好調で初の完全優勝を期待されたが鹿島に次いで2位に終わる。チャンピオンシップではその鹿島と激闘を繰り広げたが延長の末敗れる。ナビスコ杯も準優勝だったため、圧倒的な年間成績(26勝3敗1分)にもかかわらず無冠のシーズンだった。2002年は前年の悔しさを晴らすべく勝ち続け、遂にJリーグ史上初のリーグ戦前後期優勝を成し遂げた。この年の年間成績は昨年と全く同じだった(26勝3敗1分)。

2003年は鹿島に代わる新たなライバルとして岡田武史率いる横浜F・マリノスと覇権を争った。開幕戦でいきなり両者が激突し横浜が4-2で快勝した。結果的にこの試合がシーズン最終戦まで響くことになる。1stステージは横浜に勝ち点1及ばず2位。2ndステージは14節の時点で首位に立ち、横浜との最終戦を迎える。磐田は引き分けでも優勝が決まり、しかも横浜が10人で有利な状況だったが、1-1の後半ロスタイムに久保竜彦に劇的な決勝点を決められ敗れる。この結果横浜、磐田、市原が勝ち点で並んだが得失点差で横浜が2ndステージ優勝。同時に昨年の磐田に続くリーグ戦前後期優勝を達成した。磐田は年間成績で勝ち点1差の2位。ゼロックススーパーカップと天皇杯を制しタイトルは獲得した。

2004年の1stステージでは昨年に続き横浜と優勝争いを演じたが勝ち点2差の2位に終わり、横浜が3ステージ連続優勝の快挙を成し遂げた。この1stステージの2位以降、磐田はリーグ戦では優勝争いから完全に遠ざかることになる。名波浩(現:セレッソ大阪)や、藤田俊哉(現:名古屋グランパスエイト)など、優勝に貢献した中盤の選手の平均年齢が上がったこと、育成を重視し補強に積極的ではなかったことなどから、2004年の2ndステージでは13位と低迷。2005年にはジェフ千葉から村井慎二茶野隆行のふたりに加え、デンマークリーグ・ノアシェランで不遇を託っていた日本代表GKの川口能活を獲得するなど、久々の大型補強を敢行してストーブリーグを沸かせた。しかしベテランと若手をうまく融合させたアグレッシブなチーム、とまでは至らず、早々と優勝戦線から脱落した。この年、結果的には年間6位とまずまずの成績ではあった。

だが、2006年ワールドカップによる中断までの順位は暫定11位(ガンバ大阪がACLに参加した関係で消化試合数が1試合少ない)と低迷した。更にナビスコ杯準々決勝で敗退(6月8日)した直後に2004年2ndステージ途中から2007年までの3年契約を結んでいた監督の山本昌邦が辞任。五輪日本代表監督だった山本は磐田でのコーチ経験も長く、磐田にとっては切り札的存在だっただけに任期途中での辞任は残念な結果となった。後任には黄金時代に選手として所属し、ブラジルの若手監督として評価を高めつつあるアジウソンをコーチ陣と共に招聘し、巻き返しを図る。

「サッカー王国」といわれる静岡県の中でも傍流である西部の一地方都市に拠点があること、また親会社であるヤマハ発動機が健全財政を方針としていることもあり、資金面では必ずしも恵まれていない。日本人選手育成にシフトしたり、積極的な補強を2005年まであまりしてこなかった背景にも、資金面での問題が影を落としている。それでも多くの有力な新人選手を獲得しているが、上記のように現在クラブは過渡期に差し掛かっており、2003年天皇杯を最後にタイトルから遠ざかっている。

磐田はJリーグのMVPを4人(97年ドゥンガ、98年中山雅史、01年藤田俊哉、02年高原直泰)、得点王を3人(98年中山雅史、00年中山雅史、02年高原直泰)輩出している。いずれもチームとしては最多である。さらにリーグ通算の勝利数で鹿島に次ぐ2位、ステージ優勝6回とJリーグ史上最も成功したチームの一つであると言え、Jリーグの創生10クラブ、いわゆる「オリジナル10」以外でステージ優勝・年間優勝を経験しているのは磐田のみである。ただリーグ戦では年間を通して圧倒的な成績を収めるものの、カップ戦などの短期決戦に勝負弱いイメージがあり、事実、前後期制覇を成し遂げた2002年でさえも、ナビスコカップでは鹿島の前に敗れた。そのため鹿島やヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)に比べてタイトルの獲得数は少ない。

ちなみに、初代監督だった長澤和明は、女優長澤まさみ(地元磐田市出身)の父である。

なお地元での「いわた」は、「い」にアクセントを付けて発音されるが、放送局でジュビロ磐田を紹介する際は、平滑に発音される為、地元で呼ばれる表現と異なってしまうことが多々ある。標準語での発音が正しいと認識されてしまう為、現在でも間違ったまま表現される事がある。

見附  1910年代 撮影