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弥次喜多 浜松宿
弥次喜多 浜松宿

浜松宿(はままつじゅく) は旧東海道宿場で、五十三次の江戸から数えて二十九番目、から数えて二十五番目にあたる。

現在の静岡県浜松市の中心部にあたり、浜松城の城下町として天保年間には本陣が6軒、旅籠が94件もあったとされる、遠江国・駿河国を通じて最大の宿場であった。天竜川の右岸にもあたるが、洪水の度に川の流れが変わったこともあり、現在の川岸からは6キロほど離れている。

遠江にある町々は江戸幕府にとって特別な意味をもつ場所が多いのですが、この浜松もそのひとつです。
徳川家康が天正十四年(1586年)にその居城を駿府に移すまでの十七年間ここ浜松城で過ごしてしているので、江戸時代を通じて浜松城は家康ゆかりの縁起のいい城とされていました。浜松藩主を経て幕府の要職につく大名が実際に多く、当時の出世コースのひとつともなっていました。出世城とも呼ばれていたそうですし。

ということで。
江戸期を通じて重要視された浜松でしたので、当然、浜松宿は多くの人々であふれ活気のある宿場でした。実際近隣の宿場と比べてみてもその規模・人口が飛びぬけて多く、本陣が六つもあったことからも当時の興隆が忍ばれますが、残念ながら太平洋戦争の戦災で宿場のほとんどが焼失してしまっていて、現代では宿場町・浜松としての面影を思い出させてくれるものはあまり残っていません。

明治以降はまた近代工業の先駆けともなった都市で、浜松三大会社と呼ばれた日本楽器製造(後のヤマハ)などが誕生し、日本の近代にとっても重要位置をしめました。

浜松城

浜松城の【歴史】

別名:曳馬城、引馬城。

永正年間(1504〜1520年)に戦国大名今川氏親の支城として重臣飯尾乗連が築城し、曳馬(引馬)城と称したのが起源といわれている。永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると松平元康(後の徳川家康)は今川家を離反して岡崎城に戻り独立。その後、旧今川領に侵攻を開始して曳馬城を落とした。

元亀元年(1570年)、家康はそれまでの居城であった岡崎城を長子信康に譲り、この曳馬城に入城する。

元亀三年(1572年)十月、西上を開始した武田信玄は、二俣城をはじめとする遠州諸城を落とし、浜松城にせまった。信玄は浜松城が堅固な守りであることを知ると、これを無視するかのように西に進軍。怒った家康は「もはや庭先を踏みつけられて見過ごすは弓矢をとる者の恥だ。」として織田信長の援軍三千を加えた一万一千の軍勢を率いて城から出撃。武田軍二万五千と正面からぶつかるが、散々たる負け戦となりわずか十数人の旗本に守られて浜松城に逃げ帰った。この時、城内の守備にあたっていた酒井忠次は城門を開き、大篝火を焚かせ、大太鼓を連打したため、追撃してきた武田軍はいかなる奇計があるかと疑い、攻めるのを諦めたとされる。

天正五年(1577年)、家康は本多作左衛門重次を奉行として、三河・遠江の大名の居城としてふさわしい城造りに着手。曳馬城域の高台に大規模な城を築く。(これが現在の浜松城の原型)以後、天正十四年(1586年)に駿府に移るまで家康の本拠地となる。家康の関東移封後は堀尾吉晴が城主となるが、子の忠氏の時に関が原の戦いが起き、西軍に付いたため松江に移封。代わって松平忠頼が入り、その後は水野、高力、松平、太田、青山、松平、井上と譜代大名が城主となって明治を迎えた。浜松城は家康飛躍の城という意味から俗に「出世城」と呼ばれ、幕府の重職につくためには浜松城主となる事が登龍門とされた。天保の改革で有名な水野忠邦もここから老中に登りつめた。

本田技研工業

本田技研工業株式会社 1948年創業ほんだぎけんこうぎょうHonda Motor Co.,Ltd.)は、本田宗一郎藤沢武夫が創業した自動車メーカー。日本を代表する機械工業メーカーのひとつ。主にHondaのブランドでオートバイ自動車、汎用製品を製造している。新規分野へも意欲的で、ASIMOのようなロボット飛行機についても開発を行なっている。創業者の本田宗一郎は経営者・技術者として著名であり、社名は本田宗一郎の姓から名づけられた。日本の自動車メーカーとして9番目に設立された。本社は東京都港区南青山東証一部上場。

生い立ち
1906(M39)年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・天竜市)に生まれる。父儀平、母みかの間に生まれた長男である。父親は鍛冶屋で小さいころから工具とともに育った。早くから機械いじりに興味を持ち、小学校でも試験管や機械が出てくると勉強したが、それ以外は無関心で通信簿の成績は芳しくなかった。高等小学校の頃父親が自転車屋に転業。

自動車修理て独立
1922(T11)年、二俣尋常高等小学校(現在の中学校に相当)を卒業と同時に、東京・本郷の自動車修理工場、アート商会丁稚奉公。6年の勤務の間に自動車修理と運転技術を体得する。1928(S3)年、暖簾分けを受けて浜松に「アート商会浜松支店」の看板を掲げて独立。卓越した技術と当時同業者がほとんどいなかったで自動車修理業は大繁盛し、工員も50人ほどになり月の利益は1000円を越え、25歳の頃には自家用車を2台乗り回し、芸者をあげて毎晩遊びにふけり、あげくに酔っぱらい運転で芸者ともども天竜川に落ちたこともある。1934(S9)年、修理業にあきたらずメーカーを志し、ピストンリングの制作を開始。1935(S10)年11月20日、磯部さちと結婚。1937(S12)年、ピストンリングの制作がなかなかうまくいかず、鋳物の基礎知識を学ぶため浜松高等工業機械科(現静岡大学工学科)の聴講生となって基礎から勉強を始める。2年ほど通学するが、必要な授業しか聞かずに試験さえ受けない。学校側から「試験を受けないものに免状はやれない」と退学勧告を受けたが、宗一郎は「免状はいらない。免状をもらいに学校に来ているのではない。免状では飯は食えない」といって校長を激怒させている。2年後にはピストンリングの製造に成功する。1939(S14)年、東海精機重工業社長に就任し1940(S15)年ついにピストンリングをトヨタ自動車に納入、メーカーの仲間入りをする(この時、自動車修理業は弟子に譲る)。戦争中は軍需工場となる。1942(S17)年、長男・博俊(無限代表取締役)誕生。終戦後2ケ月程したころ、1945(S20)年10月、東海精機重工業の株をトヨタに45万円で売却。突然「休息宣言」なるものを勝手に出した。

世界のホンダへ
1946(S21)年10月、浜松市に本田技術研究所設立、旧陸軍無線機用の小型発電機を自転車用補助エンジンに転用して売り出す。この自転車(通称「バタバタ」)は大ヒットする。エンジンそのものの開発へと進む、開発を決めたのは1947年に入ってからの事だった。1948(S23)年9月24日、浜松市板屋町257番地に本田技研工業株式会社を資本金100万円で設立、また浜松市の板屋町というところに研究所を移し本社とし、オートバイ生産に着手した。1949(S24)年「ドリームD型」発表。10月、生涯の経営パートナー藤沢武夫が専務として入社。1950(S25)年3月に本田技研東京営業所が東京駅近くの京橋に完成する。これは宗一郎の悲願である「全国制覇」への第一歩であった。1951(S26)年3月、北区上十条の東京工場が稼働開始。ドリーム号で当時トラックのみならず、乗用車やオートバイにとってもここを越えるのは難しかった箱根越えを成功させ、7月に名前を正式にドリームE型とし東京の上十条工場での生産を開始、発売と同時にドリームE型は小型オートバイの販売台数トップに躍り出た。1952(S27)年、4億5000万円の工作機械輸入、実に資本金の30倍の設備投資を行う。小型エンジンの発明により、藍綬褒章受章。1954(S29)年、英国マン島T・Tレース出場宣言。売行き不振で深刻な経営危機に陥いる。1955(S30)年、本田技研工業、2輪者生産台数日本一達成。1958(S33)年、スーパーカブC100型発売。以後、現在まで世界的なロングセラーを記録。1959(S34)年、マン島レース初参加。1961(S36)年、マン島レースで1〜5位を独占して完全優勝する。

自動車メーカーへ
1962(S37)年、自動車産業に進出し、軽トラックと小型スポーツカーのS360、N360を発表。三重県鈴鹿市に「鈴鹿サーキット」完成。1964(S39)年、F1GPに挑戦(1968年撤退)。1965(S40)年、F1メキシコGPで初優勝。1967(S42)年、軽自動車でシェアトップ。1972(S47)年、低公害のCVCCエンジン発表。アメリカの排ガス規制法であるマスキー法規制に世界ではじめて合格する。

ホンダDNA
1973(S48)年、本田技研工業社長を退任、副社長の藤沢武夫と共に取締役最高顧問に就任。潔い引退ぶりに脚光を浴びる。1974(S49)年、ミシガン工科大学より名誉工学博士号をおくられる。1977(S52)年、環境と技術の調和のためにエコテクノロジーを提唱、本田財団を創立して、この主張の国際的展開をめざした。1980(S55)年、アメリカ機械学会より日本人としては50年ぶりにホーリーメダルを受賞。1982(S57)年、日本商工会議所副会頭、行革推進フォーラム代表世話人に。1983(S58)年、F1レース復帰(1992年撤退)。取締役を退き、終身最高顧問になる。1988(S63)年、藤沢武夫死去。1989(H1)年、自動車文化に貢献した人々を永遠にたたえるAutomotive Hall of Fame(ミシガン州)に、日本人としてはじめて殿堂入りした。1990(H2)年、国際自動車連盟より史上3人目のゴールデンメダル賞受賞。1991(H3)年8月5日、84歳で逝去。

本田宗一郎

HONDA本社

HONDA公式ホームページ
HONDA公式ホームページ
HONDA公式HP motor
YAMAHAの公式HP
YAMAHA

創生期

山葉寅楠

1887年(明治20年)
常に時代に先がけた新製品の開発に取り組み、名実ともに世界一の総合楽器メーカーとなったヤマハの歴史は、1887年(明治20年)東京にはじめて電燈が灯った年にまでさかのぼります。

1887年(明治20年)
アメリカ製のオルガンと出会い、その魅力に魅せられた創業者 山葉寅楠は、すぐさま国産第一号のオルガンを製作。以来、ピアノ製造を夢み、単身アメリカに渡ることになります。

試作したオルガンをかついで箱根を越える寅楠

1900年(明治33年)
そして、1900年(明治33年)ついに国産初のピアノ製造に成功します。

明治30年代のアップライトピアノ

1902年(明治35年)
1902年(明治35年)にはグランドピアノの製造に成功し、1904年(明治37年)のアメリカの大博覧会では、ピアノとオルガンに名誉大賞が贈られました。

明治時代のグランドピアノ

発展期

音響実験室

1930年(昭和5年)
1930年(昭和5年)には世界でも最先端の音響実験室を設立したのです。職人のカンに頼るだけでなく科学の次元へとピアノづくりを昇華させていきました。

創業50周年記念式典

1937年(昭和12年)
創業50周年記念ピアノ発売。

木材乾燥室

1965年(昭和40年)
1965年(昭和40年)には、最新の技術と設備を投入したアップライトピアノの専門組立工場を完成させ、ピアノ生産台数世界一となった。

掛川工場

1965年(昭和40年)
1965年(昭和40年)、来日していた世界的ピアニスト、ミケランジェリの調律師タローネがヤマハの工場を訪れ、その近代設備とピアノづくりにかけるスタッフの情熱に感激し、商品開発に協力することを約束。世界の一流ピアニストが求める「良い音」を探求し、一大プロジェクトが動き始めます。

ミケランジェリとタローネ
フランクフルトメッセ

1967年(昭和42年)
1967年(昭和42年)、ドイツの楽器見本市「フランクフルト・メッセ」に「コンサートグランドピアノ CF」を出品。
美しい音色が専門家達から絶賛され、その後、巨匠と呼ばれるピアニストや国際コンクールで次々と採用されていくことになったのです。

マントン音楽祭で演奏するリヒテル

1969年(昭和44年)
そして、1969年(昭和44年)、今世紀を代表する幻のピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルがイタリア公演やマントン音楽祭でCFを使用。以後、CFを愛用し続けたのです。

コンサートグランドピアノCF
ヤマハピアノテクニカルアカデミー
1980年(昭和55年)
どんなに素晴らしいピアノでも、優れたピアノ技術者がいなければその真価を発揮することは出来ません。
専門家から一般家庭まで広く普及したヤマハピアノ。そのピアノの魅力を100%保つことができるようにと1980年(昭和55年)、ピアノ技術者の養成学校ヤマハ ピアノテクニカルアカデミーを設立。
毎年100名前後の研修生が、ハイレベルな技術を習得し、卒業後は、ヨーロッパを初め世界中のコンサートホールで活躍しています。

1983年(昭和58年)
世界の高い評価を受けながらも、ヤマハは更なる「音」を求めていました。もっと歌うピアノを....。
その結晶として1983年(昭和58年) 「コンサートグランドピアノCFIII」を発表。この後、CFIIIは世界の伝統あるコンクールで次々と選ばれ、一流のピアニスト達から多くの賛辞を受けることになります。

ヤマハCFIIISを弾いてチャイコフスキー
国際コンクールで優勝したデニス・マツーエフ

1998年(平成10年)
そしてついに1998年(平成10年)、第11回チャイコフスキー国際コンクールで、デニス・マツーエフ氏がヤマハコンサートグランドピアノCFIIISを弾いて優勝。
世界のトップステージでヤマハピアノの優秀性が高く評価されました。

「餃子」と言えば宇都宮、静岡?いえいえ実は浜松は全国に誇れる立派な「餃子王国」なんです!浜松市内には全国シェアナンバー1の餃子製造機械メーカーがあり、餃子専門店がなんと約80軒もあるのです。富士宮やきそば、静岡おでんに続き盛り上がりを見せる、ご当地グルメ「浜松餃子」を特集しました。

昭和30年頃、浜松駅周辺に出ていた屋台の中に、餃子を出す店があった。安くておいしい餃子はたちまち評判となり、その味はさまざまに伝えられていった。この屋台餃子が浜松餃子のルーツだといわれている。現在、市内には約80軒の餃子専門店があり、専門店以外は、居酒屋系、ラーメン店系、中華料理店系、食堂系などに分けられる。

一番の特徴はなんと言っても、餃子に茹でたもやしが添えられていること。ボリュームたっぷりの餃子の箸休めとして添えらており、浜松餃子には欠かせない存在だ。次にタレ、ラー油にこだわっている店が多く、

たいていどの店にも自家製のタレやラー油がおいてある。そして3番目の特徴は、店によって作り方が違うこと。専門店が多く、味にうるさい浜松っ子の舌を満足させるためにどの店も改良に改良を重ねた結果、その店独特の個性ある味わいになった。

屋台の時代、餃子は四角い鉄板ではなく、フライパンで焼いていた。フライパンで焼く際、丸く並べて焼いていたため、そのまま皿に盛ると中心部があいてしまう。そこで、茹でもやしをサービスでのせたところ、餃子との相性もよく、そのスタイルが広がったといわれている。

浜松 宿  1910年代