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江戸時代の時間

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江戸時代の貨幣

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白須賀宿(しらすかじゅく)は東海道32番目の宿場(→東海道五十三次)で、現在の静岡県湖西市白須賀。元々は海岸近くにあったが、宝永4年(1707年)の大地震と津波により大きな被害を受けたため、その後高台にある現在地に移された。天保年間の記録では旅籠が27軒と、宿場としては中規模である。
明治の東海道本線敷設では、二川へ至る潮見坂の勾配が蒸気機関車運転の障害となり、浜名湖沿岸の鷲津経由となったため、街の発展はなく現在も一部に当時の家並みや面影を残している。

白須賀観光マップ
白須賀観光マップ
白須賀に残る昔話
猫塚

昔、白須賀のわかば屋という宿におかよという気立てのよい色白の娘が女中として雇われていました。おかよはすぐにお客の人気者になり、特別に許されてタマという白猫を飼い始めました。しばらくしておかよは労咳(肺結核)にかかってしまいました。すると、宿屋の主人とおかみは、手のひらを返すようにおかよを虐待し始めました。食事もろくに与えられなかったので、おかよはついに亡くなってしまいました。そのうえ、お葬式も出してもらえず、無縁塚へ葬られたのでした。  

それから少しして、宿屋の主人が廁(かわや)から出てくると、そこへタマが現れ、主人の顔を爪で引っかきました。その拍子に、主人は庭へ転げ落ち、運悪く石に頭をぶつけて亡くなってしまいました。その直後には、わかば屋が原因不明の火事になりました。これはおかよの怨念(おんねん)だと驚いた人たちは、おかよの霊をしずめるために塚を造り、それを猫塚というようになりました。

袈裟(けさ)切り地蔵

昔、ある侍が、白須賀の宿に泊まったところ、「近ごろ潮見坂に毎夜化け物が出て、通行人が難儀をして困っている」という話を聞きました。「それでは、わたしが退治してやろう」と夜になるのを待って潮見坂に向かいました。坂の途中に差し掛かると、確かに得体の知れない化け物が現れたではありませんか。侍はひるむことなく刀を抜き「えいっ」と一太刀切り付けて宿へ戻ると、「手ごたえがあった」と町の人たちに伝えました。
 翌朝、町の人たちが見に行くと、どうしたことか6体のお地蔵様の内1体が袈裟がけに切られていました。化け物の正体は、お地蔵様のいたずらだったのです。

白須賀宿

あたりは、遠州灘を前に
美しい松林がつづく。
爽快な海の眺めは
旅人の疲れを癒してくれた。

さすが、汐見坂というが
中々の眺め。

眺めはいいが、下をみろ。
大名が通っているぞ。
頭を下げろ、頭をさげろ。
古い町並み

白須賀は街道としては古くから交通の要衝で、室町幕府六代将軍足利義教は永享4年(1432)に富士山を見に行く途中潮見坂で歌を作り、天文年間(1532〜55)に関東へ旅した法華門徒たちは往復とも白須賀を通っており、室町時代にも江戸時代同様に重要な街道筋であった。
慶長6年(1601)に東海道が整備され、白須賀宿が正式に東海道筋の宿場町となった。宿場は潮見坂の下にあったが、宝永4年(1707)の津波によって壊滅的な被害を受けたため、坂の上の天伯原台地に移転したが、今度は西風が強く火災に見舞われることが多くなった。
江戸時代を通じて幕府領のまま推移している。
慶長7年(1602)の資料によると、町並の長さは10町、町名には東町・橋町・東中町・西中町・高見町・西町があり、家数300軒余。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、宿内の町並は東西14町余、加宿境宿新田を含めた家数613・人数2,704、本陣1・脇本陣1・旅籠27(大15・中2・小10)・問屋1。農業の合間に、男は往還稼ぎや漁猟、女は麻・木綿を織る。 

安永2年(1773)の大火により、宿伝馬・問屋のある西部の高見町から東町まで全焼し、200戸余が罹災した。そのため宿の西方の各所に槙の木を植えて防風林・防火林とした。
今でも軒の深い伝統的な家屋がよく残っていて、宿場町当時の面影を色濃く残しているのは、東海道本線が北の鷲津を通ったために、発展から取り残されたのであろう。宿内には枡形(当地では曲尺手(かねんて)という)も残り、防衛的な配慮もされていたし、防火林も残っていた。
これだけ多くの伝統的な家屋が残っているにも拘わらず、本陣や脇本陣、問屋の遺構が残っておらず、その点では少し哀れなひっそりとした町並であった。

豊田佐吉

豊田 佐吉とよだ さきち1867年3月19日慶応3年2月14日) - 1930年昭和5年)10月30日)は、豊田自動織機の創業者。遠江国山口村(現・静岡県湖西市)出身。

来歴・人物

父・伊吉は大工であり、佐吉も後を継ぎ大工になったが、母が朝から晩まで機織りの重労働に苦労している姿を見て、「少しでも母を楽にさせたい」「国の為に何が出来るか」を模索するようになり、発明家への道を志すようになる。

1890年に東京での内国勧業博覧会にて外国製織機を見て、独力で「豊田式木製人力織機」を発明。この「木製人力織機」はコストの安い木を多用して当時まだまだ高価だった金属類は必要最小限に抑えた為、当時主流だった外国産の機械より一桁安い価格で瞬く間にシェアを広げた(この無駄を抑える発想は後の『トヨタ生産方式』の原点となる)。

1893年にたみと結婚し、翌年には長男喜一郎(のちに「トヨタ自動車工業」を創業)が誕生したが、直後に妻たみは姿を消す。1896年「豊田式汽力織機」を発明。1897年に浅子 と再婚し、1899年に長女愛子(のちに「トヨタ自動車工業」初代社長となる利三郎を養子にむかえる)が誕生。1902年に豊田商会を設立、今日のトヨタグループの礎を築く。藍綬褒章を2回受賞した。

なお、通説では1924年に「G型無停止杼替式豊田自動織機」を発明したとされるが、完成当時は1921年に中国・上海租界に設立した豊田紡績廠の経営に力を注いでいる。なお和田一夫著の『豊田喜一郎伝』によると、G型無停止杼換式豊田自動織機は、実は長男喜一郎が開発を手掛けていた。1930年10月30日死去。享年63。甥はトヨタ自動車第5代社長の豊田英二(現・最高顧問)。孫は第6代社長の豊田章一郎(現・名誉会長)と第7代社長の豊田達郎(現・相談役)。

豊田佐吉生家(平成2年復元)

豊田式木製人力織機
佐吉が発明した最初の織機。それまで両手で織っていたものを、片手で筬(おさ)を前後させるだけで、シャットルも左右に走るように改良し、4〜5割も速く織れるようになった。

豊田自動織機G型
佐吉が世界で初めて完成させた無停止杼換式自動織機。機械の運転を止めずによこ糸を自動的に補給できるこの発明は世界的に認められ、高い評価を得た。

潮見坂

潮見坂
西国から江戸への道程で初めて太平洋の大海原と富士山を見ることが出来る場所として古くから人気があった。