(6)藤沢 ⇔ (0)日本橋
航空写真( 御油 )
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御油宿(ごゆしゅく)は、東海道五十三次宿場の一つ。品川宿からかぞえて35番目の宿場。現在の愛知県豊川市に所在する。街道の面影を残す松並木が美しいことから観光地になっている。

1601年徳川家康が江戸日本橋から数えて35番目の宿駅として開設。本陣が最多時4軒。最少時2軒。

明治維新後、宝飯郡役所が置かれ、郡の中心になったが、東海道本線を忌避したため、鉄道開通後は鉄道が通じた御津蒲郡に繁栄を奪われた。愛知電気鉄道開業時に、本御油駅が開設されたが、速達列車が停車しなかったため、維新前の繁栄は戻せず、郡役所、警察署等が御油から移転した国府に拠点性も奪われた。
1959年には、宝飯郡御油町が豊川市と合併した。

弥次喜多 御油
弥次喜多 御油

「御油宿」の衰退

大政奉還(1867)により明治維新となり、参勤交代(大名行列)は廃止され、伝馬制・助郷制も明治五年(1872)に廃止されて、各宿場は急速に寂れていった。
 それに拍車をかけたのが東海道線(明治二十二年全通)の敷設を忌避したことである。鉄道院の計画は、豊橋から名古屋までの間は東海道の旧宿場町を連ねて通す予定であった。ところが沿線に当たる御油・赤坂・藤川・岡崎・知立の旧5宿がこぞって反対したため、やむをえず鉄道は海岸に沿って蒲郡を通る経路に変更された。
 反対の理由は、汽車が通ると客が素通りしてしまう、機関車から火の粉が飛んで火事になる、鶏がおびえて卵を産まなくなる等々と言われているが、真の理由は当時盛んになりつつあった養蚕の桑の葉が煙や灰でいたんでだめになるということにあったようである。
ところが鉄道が開通するとその効用がわかり、明治二十八年(1895)に複線工事が計画されると、上記5宿は近道であるとの理由で誘致運動を展開するが、時すでに遅く実現はしなかった。
 停車場は御油から4kmも離れた御津村西方(みとむらにしがた)に御油駅 (現愛知御津駅)が設置されたが、このことは御油の知名度が高かった証拠とみることができよう。
 
 昭和2年に御油を通る愛知電鉄(現名鉄)が開通し、本御油駅(もとごゆ・現御油駅)が開業したが普通電車しか停車せず、寒村になってしまった御油を復活させる力はなかった。

御油の古い町並み

天文18年(1549)より今川領となり、永禄7年(1564)松平元康(徳川家康)が東三河に進出し、家康が江戸幕府を開いた後は、明治維新まで当地は幕府領となった。
御油宿は、東海道の宿場で吉田宿から2里22町、次の赤坂宿まで16町である。御油−赤坂間は東海道でも最も短い距離で、歩いて30分たらずである。天保14年(1843)の「宿村大概帳」によると、御油宿の町並みは長さ9町32間、戸数316軒、人数1298人、本陣4軒、脇本陣なし、問屋場1カ所、旅篭屋62軒である。本陣の4軒は、林五郎太夫・鈴木半左衛門・中村谷十郎・橘屋弥左衛門が勤めていた。
御油宿は道幅も昔ながらで、格子戸の家があり宿場町の風情を残して、静かな街道の雰囲気がある。
御油の熊谷家は切り妻造りの2棟の連棟の建物で、平入り、どちらの棟も背の低い二階建、一階も二階も殆ど全面に連子格子がはまっていた。右側の棟には煙出しが付いていて、桟瓦葺であった。御油宿には他に中田家・森家・近藤家などの伝統的な町家があった。どの家も切り妻造りの背の低い二階建てで、平入り、一階、二階ともに格子が多く使われていて、出格子も殆どの家に付けられていた。袖壁のある家もあった。
御油宿は赤坂宿とともに旅篭屋と飯盛女が多かった。両宿ともに旅人にとって飯盛女目あての遊興の宿場であった。歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」の御油は「旅人留女」で旅人を招く女が描かれ、俗謡にも「御油に赤坂・吉田がなくば、何のよしみで江戸通い」と謡われている。
御油宿の町並みが途切れたところから松並木がはじまり、松並木が終わったところから赤坂宿がはじまる。
この松並木は国の天然記念物に指定され、街道の両側に見事な松並木が600mほど続く。江戸時代から松並木保存の努力がなされていたが、昭和47年「天然記念物御油松並木愛護会」が結成され、献身的努力で保存がはかられている。
赤坂宿は天保14年(1843)の宿村大概帳によると、町並みの長さ8町30間(約1km)家数349軒・本陣3軒・脇本陣1軒、人口1304人の規模であった。近くには三河の幕府領を支配していた赤坂代官所もあった。宿場の中程に江戸時代からの旅篭 大橋屋(旧屋号伊右エ門鯉屋)がある。
建物は正徳5〜6年(1715〜16)ころのものといわれていて、東海道赤坂宿全盛期における女郎置屋の形態を残しているものである。玄関を入ると黒光りする天井、柱、板の間、階段等落ち着いた歴史の重みを感じさせる。なお大橋屋は現在も旅館業を続けている。
大橋屋の少し御油よりに、東海道53次赤坂宿と看板を揚げた、民芸品の尾崎屋や他に伝統的な建物では、花井家、藤田家、近藤家などあるが、どの家も切り妻造り、2階建て、平入りで格子が全面又は多くの部分に使われているのが特徴だった。 

【飯盛女の伝説】

町に入ってすぐ右に大きな味噌屋さんがあった.
ここは元, 大津屋といって飯盛り女を抱え旅館を経営していた場所だったそうだ.
明治になってからのことらしいが,ここの女性が5人も集団自殺してしまった.
主人はすっかり家業が嫌になって,味噌屋さんに鞍替えしたという.
供養の墓を近くの東林寺に作った話が伝えられている.
並んで立つ遊女の墓は,この時に築かれたものらしい.

安藤広重の絵のせいで,一般の御油宿のイメージは,あまり良くない.
飯盛り女が強引に客の襟を捕らえて引っ張る姿が道の中央に描かれているからだ.
この地名をゴユと発音することを知ったのは,当地に転勤してから,随分経ったから だった.通過することはあっても,まずこの駅で降り立つ用はない.

広重の絵に描かれた女性は健康そうだが,決して美しくはない.
あそこまで強引に客引きをしなければ生きていけない宿場であったのだろうかとも 思う.
今日歩く,静かで,のどかな町並みには,そんな過去は微塵も残っていない.
御油宿の宿屋の建築物が,そっくり豊川市立図書館横に移築されて保存されている そうだ.
現物にはお目にかかっていないが,写真で見る限り広重の絵の構図とそっくりな建築 だった.一度訪ねてみたい気がする.

(和田光平さんの記述)
【御油の松並木】

今日見られる天然記念物・御油の松並木は,街道で一番とも言えるほど良く保存され 貴重な名所となっている.
正確には,御油の宿と赤坂の宿の間の松並木が,良く保存されているので,代表して 御油の松並木と呼ばれているものだった.
それでも往時に比べると,数は随分減っているようだ.巨木は110 本ばかりしか 残っていない.
宿場の入口に,松並木のことを展示した会館があった.ここの松は亀甲型をした樹皮 に特徴があると解説されていた.大きな枯れた松の切り株と,亀甲型の樹皮が展示して あるので,しげしげと亀甲型を眺め,納得.

御油宿を抜けると向こうに,延々と続くかに見える,堂々たる松並木に出会う.
左右に並ぶ松があるのは街道でも珍しい.実際の長さは500 メートルほどらしい.
中央は舗装されていて,車道が二車線あって,びゅんびゅん車が通り過ぎて行く.
松をゆっくり眺めながら歩きたいのだが,なんとなく気ぜわしい.
弥二さん北さんの頃はうっそうとして,人恋しくなるくらい淋しい場所だったようで 狐が出たと勘違いして,仲間を縛り上げる話が出てくる.

ところどころに大きな松の切り株が散見される.
この松林も,多くの人が保護に努力されて命脈を保っているのだろう.
シロアリ駆除をした印など,一本一本に番号札が付けられていて,大切に守られて いるようだ.
この区間の松が見事に残されたのは,確かに宿場が時代から取り残されたという事情 も幸いしたのだろうが,もっと違った理由があったような気がしてならない.
ここが,徳川家の地元中の地元であったからではなかろうか.
三河武士たちの故郷の地なのだ.
東海道を守り続けたい気持ちが日本全国で一番強い人達が住む場所だったのからでは なかったか.
今に残る松の巨木には,そうした昔の人々の深い愛情が生きているように感じられて ならない.

中央付近で一服した.
心地良い,午後のひとときだった.
ゆっくりと過ぎる時間を,ゆったりと体感した.
空を見上げてみた.
青い空,白い雲.高い松のこずえ.
旅人は,いつの時代の人も
こうやって黙って空を見上げたに違いない.
そして心が空へ吸い込まれるに任せたのだろう.
悠久の時間を雲が悠々と流れて行く.
もう一度やって来て吸い込まれたい空間だった.

ここを出ると,もう赤坂の宿だ.

以上、和田光平さんの記述