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赤坂宿(あかさかしゅく)は、東海道の江戸品川宿から数えて36番目の宿場
御油宿吉田宿とともに飯盛女を多く抱えていた同地は、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と言われた程、活気のある宿場町であったが、明治の東海道本線建設を忌避したために御油宿同様、繁栄を鉄道通過地に奪われた。

その後、愛知電気鉄道愛電赤坂駅が設置されたものの、優等速達列車が停車しなかったため、往時の繁栄は取り戻せなかった。

東海道筋で唯一営業を続けている旅籠として、「大橋屋」がある。創業は慶安2年(1649年)、現存の建物は正徳6年(1716年)の建築と伝えられ、創業時の屋号は「伊右エ門 鯉屋」であった。赤坂宿には、享保18年(1733年)時点で83軒の旅籠があったが、大橋屋はその中でも大旅籠に属していた。間口は9間、奥行は23間ほどである。

赤坂宿と御油宿との間隔は、東海道の宿場の中で最も短く、2km足らずである。関川神社(音羽町大字赤坂字関川)には、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」という松尾芭蕉の句碑があるが、この句は地理的に極めて近い両者の関係を詠んだものであるとされる。

御油宿とは宿中心でわずか1.7km、宿のはずれでは600m程度しか離れていない東海道で、もっとも宿駅間が短かく宿の長さは約900mで歓楽街としても有名でした。
 御油宿との客の奪い合いが壮烈で昼間から派手な化粧と着物を着た女性が嬌声を張り上げて客引きをし、旅籠からは管弦の音色が耐えることがありませんでした。
 享保18年(1733)には家数400軒のうち83軒が旅籠で、旅人だけでなく近郷近在からも多くの人が遊びに来ていました。

弥次喜多 赤坂宿
弥次喜多 赤坂宿

赤坂宿の旅篭屋大橋屋

1649(慶安2)年創業の旅籠(はたご)で,
19代続いている。
現在の建物は1715〜6(正徳5〜6)年頃の
建物という。

広重の絵のモデルとされる。
夕刻になると,御宿所とかかれた提灯に灯がともる。

大橋屋さんは,現在も営業している。

近世赤坂宿
東海道は古くから開けた街道でしたが、戦国大名の領国支配が進むと、軍隊の移動や国内支配のための交通 整備が行われるようになりました。
  今川義元は、天文23年(1554)に伝馬の制度を定めました。伝馬とは、兵の移動や物資の輸送に備えて、宿駅に乗り継ぎ用の馬や人足を置くことをいいます。
  天正19年(1591)には、池田輝政が、赤坂宿あてに毎日馬46疋を常備するように命じています。
  慶長6年(1601)家康は東海道に伝馬制を走め、宿駅毎に伝馬朱印状を出しました。寛永元年(1624)までに東海道五十三次がほぼ完全に整備され、赤坂宿は江戸から36番目の宿となりました。 伝馬の朱印状には「赤坂・五位」と併記され、当初赤坂・御油宿は一宿として扱われていたと思われます。
  その後「下りは藤川から(赤坂を飛ばし)御油まで通し、上りは吉田から(御油を飛ばし)赤坂宿まで」と定められ、上りと下りで使い分けられていた時期もあったようです。
伝馬朱印状
宿のしくみ
見附
宿の入口に石垣を積み、松などを植えた土居を築き、出人りするものを見張ったところです。 赤坂宿見附は東西に設けられました。東は関川地内の東海道を挟む両側にあり、西は八幡社入口附近の片側にありました。
東の見附は、寛政8年(1796)代官辻甚太郎のとき、関川神社前に移されたようですが、慶応4年の町並図では以前の場所に戻っています。
明治7年に廃止されました。
問屋場
問屋場は、伝馬役によって決められた人足や馬を常備し、宿場間の公用の荷物や旅人を次の宿場まで輸送する事務を行うところです。問屋・年寄・帳付・馬指という宿役人により運営されていました。
宿場のほぼ中央に置かれ、本陣・脇本陣と共に宿場の大事な役目を果たしていたので、宿内の有力者が世襲でつとめることが多くありました。
赤坂宿では、初め彦十郎が本陣と兼務していましたが、文化年間より弥一左衛門に代わり、幕末には弥一左衛門と五郎左衛門の二人で執り行っていました。
本陣

本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、玄関・書院・上段の間(他の部屋より一段高くなった部屋)を備えていました。
  赤坂宿の本陣は、初め彦十郎家一軒で行われていましたが、宝永8年(1711)の町並み図では、庄左衛門家・弥兵衛家・又左衛門家が加わり4本陣となっています。4本陣のうち伝統のある彦十郎家は、間口17間半、奥行28間、部屋の畳数422畳、門構玄関付きの大変立派なものでした。
  慶応4年の町並み図では彦十郎家・長崎屋・桜屋の3本陣と輪違屋の1脇本陣となっています。

旅籠屋

本陣・脇本陣以外の武士や庶民などを宿泊させた食事付きの宿屋を旅籠屋といいました。
  江戸中期になって交通量が増えるとともに、旅籠屋の数も増えていったようです。享保18年(1733)の赤坂宿は、町裏も合わせて家数は400軒でした。その内、旅籠屋は83軒となっています。

旅籠屋は、土間、板の間・部屋・座敷・勝手向・湯殿および雪隠からなり、往還に面したところは二階建てが一般的でした。

大橋屋

昭和52年3月1日町指定建造物
旅籠屋は、その規模によって大・中・小に区別されていました。
大橋屋は、大旅籠で間口9間、奥行23間ほどありました。旧屋号を鯉屋といい、正徳6年(1716)頃の建築であるといわれています。

飯盛女
もとは泊り客の食事や寝具の世話をしていましたが、やがて遊女化していきました。 「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と詠われたように、赤坂宿の繁栄は飯盛女によるところが大きかったようです。
飯盛女の多くは、近隣の村々の農家や街道筋の宿場町出身の娘たちでした。
寛政元年(1789)の『奉公人請状之事』には、「年貢に差しつまり、娘を飯盛奉公に差し出します。今年で11歳、年季は12年と決め、只今御給金1両2分確かに受け取り、御年貢を上納いたしました。」とあります。
高札場

幕府の法令布告を掲示する場所を高札場といいました。赤坂宿の高札場は、宿の中央で最も目につきやすいところにあり、高さ2間、間口2間、奥行1間の瓦葺でした。内容は、親子兄弟夫婦仲良くし、奉公に精を出すべきことやキリシタン禁制などです。

赤坂の高札(正徳元年)
陣屋

代官の役宅や屋敷のことを陣屋といい、年貢の徴収や民政全般の管理をしていました。赤坂陣屋は三河の国の天領支配の拠点であり、代官国領半兵衛(1683一86)のとき、牛久保(豊川市)から移ってきたといわれています。
  当初、東裏大藪地内に設けられましたが、元禄2年(1689)に神木屋敷(正法寺と浄泉寺の間)ヘ移転されました。寛政年間(1789−1800)以後遠州中泉(静岡県磐田市)の出張陣屋となっていましたが、幕末の三河県成立にともない「三河県役所」となりました。

三河県御印
神木屋敷間取り図

明治2年(1869)6月伊那県に編入されると、「静岡藩赤坂郡代役所」と改められました。行政の中心地となり、手狭になったため同9月に再び大藪地内に新築移転されました。

赤坂陣屋(明治2年頃大薮)

『村田五郎左衛門日記』によると、3日間お練りや芝居なども出た盛大な地祭りが行われたようです。しかし、明治4年廃藩置県により伊那県が額田県に合併されると、赤坂陣屋は廃止されました。

陣屋位置図
◆ 音羽町の文化

 清々しい緑の香りに包まれた音羽町は、かつての東海道五十三次36番目の宿場町。明治時代の初めごろまで、およそ270年もの間、江戸と大阪を結ぶ交通 の要として栄え、最盛期には、間口が狭く奥行きが深い、旅籠や茶屋が80軒も軒を並べていた。

 当時行われていた参勤交代は、20万石以上の大名の場合、馬に乗った身分ある武士から足軽、人足まで総勢300から500人が移動する大がかりなもの。大名行列が休憩、宿泊するたびに賑わいをみせた、宿の様子が想像される。

 その頃の赤坂宿の佇まいを今に伝えるのが、280年程前に建てられた大橋屋。元の屋号を「伊右工門鯉屋」といい、安藤広重が描いた「東海道五十三次・赤坂旅舎招婦図」のモデルといわれている。町指定の有形文化財でもある。中庭には、六角形の中台の左右各面 に「走り獅子」の装飾を持つ、花崗岩でできた南北朝時代の石灯籠があり、たくさんの旅人が夜を過ごした、旅籠の歴史を語っている。

夕刻になると、「御宿所」と墨で書かれた提灯の淡いオレンジ色の光が、現代の旅人を温かく迎えてくれる。長い歴史を語る黒光りした階段を上がると、襖で仕切られた部屋が三室。表通 りに面したこれらの客室は、昔のまま。障子を開けると、紅の千本格子の間から、東海道赤坂宿の喧騒が時を超えて聞こえてくるような気がする。

 大橋屋の辺りには、東海道に沿うように、由緒ある寺や神社が並ぶ。町内全域には、ざっと数えただけで、37の社寺があり、中には1,000年以上前の棟札が残る杉森八幡社なども。それらの風格ある凛とした容貌は、町の長い歴史を語る。

 町のことが初めて書物に記されたのは、1,300年前「壬申の乱のとき草壁皇子が宮路山に居をかまえた」というもの。平安時代に書かれた更科日記にも、宮路山を通 ったことが書かれている。
 そして、この辺りは宮路越えで有名な鎌倉街道に。鎌倉時代に書かれた十六夜日記には、「紅葉の中に常緑樹が交じってまるで青地の錦を見ているような気がする」と紅葉の美しさとともに宮路越えのようすが描かれている。この街道のコースは、はっきりとわかっていないが、いく通 りかの道があったらしい。宮路山に向かう少し奥まった山道には、やさしい顔の石仏が。里人の手によって、季節のかれんな花が手向けられている。
 やがて東海道の赤坂宿に。その繁栄の裏には、この町に売られてきた、まだ幼き少女たちの哀愁の物語も。彼女たちの信仰を集めたという浅間神社への山道には、憂いを秘めた十五の石碑、石像が山の項上まで続いている。

 鎌倉街道沿いの清らかな水が湧き出る聖徳太子ゆかりの井戸、歴史が薫る黒塗りの寺の総門と五百羅漢を配した庭園、境内に佇み見る者を無我の境地へと誘う百観音、人々の厚い信仰を受けるたくさんの仏像。

 たっぷりと時間をかけて、歴史が生んだ数々の遣産を、観てまわりたい。そして1つ1つに刻まれた奥深い物語をたどってみたい。

 幾千日の時を数え、雨にさらされ、風雪に耐え、移り変わる時の流れをじっと見つめてきた大いなる古木たち。その足元に佇むと、深い緑の呼吸が聞こえ、苔むした肌に触れると、連綿とつながる歴史の重さが迫ってくる。

 初夏に赤い実を実らせる善住禅寺のヤマモモ、朽ちかけた幹から今なお新芽を芽吹かせる長福寺のヤマザクラ、12月から3月に淡い桃色の花を咲かせる正法寺のウラクツバキ、県下でも珍しいほど大きな同寺のイヌマキなど、推定樹齢300年を越える古木がたくさんある。中でも関川神社のクスノキと杉森八幡社の通 称夫婦楠は圧巻。それぞれ800年、1,000年という長い年月、この町の歴史を見つめてきた。巨樹・古木を訪ねる旅。それは、私たち人間が、永遠に知ることのできない歴史の真実を感じる旅。あなたも、幻想紀行を体験してみませんか。