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鳴海宿(なるみじゅく)は東海道40番目の宿場で、現在は愛知県名古屋市緑区

絞りの町有松は、江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない慶長13年1608年)に、絞り開祖竹田庄九郎らによって 誕生しました。
 有松絞り400年の歴史は、尾張藩が有松絞りを藩の特産品と して保護し、竹田庄九郎を御用商人に取り立てたことからはじ まりました。
 旅人が故郷へのお土産にと、きそって絞りの手拭、浴衣など を買い求め、これが街道一の名産品となり、その繁栄ぶりは、北斎や、広重の浮世絵にえががれたが、鳴海の宿は有松を描い たもので、 「 名産有松絞り」と記してあります。
 昔の繁栄と、日本建築の美しさを今に伝える町並みは、200 年を経過した貴重な文化財です。その景観は、名古屋市の町並 み保存指定第一号として、また全国町並み保存連盟の発祥地と しても知られています。

図案が決定したら、よく切れる
小刀やハト目抜きで、模様を切
り抜いたり穴をあけて、型紙を
作ります。

出来上がった型紙を布の上に置き、刷毛で青花を模様を刷り込んで写します。青花は露草(栽培用)の色素を酸で抽出し、和紙に浸み込ませて乾燥させたもので、必要に応じて小さく切り、小皿に置き少量の水で溶いて使います。

通常4〜5人の家庭へ次々と廻されて、加工されます。技法により様々な加工方法及び道具が異なります。写真は筋絞りの加工。代表的な道具では、烏口台・鹿の子台・巻き上げ台などがあります。

専業の染屋によって各種の染色が行われます。絞り染めの染色は、一般に浸染めで行われますが、特殊な染め方をする場合もあります。染液は、用布に適した染料、助剤などを使用してつくる。また用途や量によっても染料が違い。染方が変わってきます。

絞り染めは糸を締めることによって防染をするので、とくに堅く糸留めをしています。糸抜きの際は、布の破損に注意し、手早く行う。絞りの種類によって糸抜き法も異なりますが、大たい四つに分けられます。
1反に3〜4日を要するものも有ります。

反物として巻かれる仕上げと、仮縫いして図柄のわかる絵羽仕上げがあります。

絞の始まり(1)
有松の歴史

有松町史によれば「慶長十五年(1610)名古屋城築城の頃、築城に参集してきた諸藩の人々の内に九州豊後(大分県)の者が珍しい手ぬ ぐいを持参していることに気をとめた竹田庄九郎がその製法のヒントを得たと言い伝えられているらしい。
当時東海道は、京と江戸を結ぶ幹線道として、ようやくその重要性が認識され、 尾州藩の基礎も次第に固まりつつあった。移住してきた人達はまだ第一陣八名、 第二陣七名、合計でも十五家族と少なく、周囲の耕地も乏しく、農業で生計を立てる までには到らなかったものと考えられる。新設されつつあった東海道の築造工事人夫として働き、街道筋の軒先で「ワラジ」などわずかな品を売り、屋敷廻りで取れる少しの作物を口にするありさまであったと推測される。この窮状をみかねた幕府は、移住させる時の条件であった譜役免除のほか、記録には見られないが、たぶん米麦の実物支給も相当の期間実施したのではなかろうか。
第一陣が来村してから十数年が経ち、何とか飢えることなく、十五家族の生活に見通 しが立った慶長二五年(1620)過ぎ頃、第三陣を呼び寄せることにしたのではなかろうか。この頃には大阪夏の陣が徳川の勝利で終わり(1620)、世情も安定に向かい出した頃と事情が一致する。第三陣はこの安定を見た上で寛永二年(1625)、阿久比から呼び寄せたものと推測出来る。この時、先住の一五名は尾張藩に対し、一層の優遇策として譜役務ご免と米麦の尚しばらくの支給延長と、家屋の建築用材の支給を願い出て許可されたものと考えられる。移住させてから十五年以上が過ぎ、実直に精を出す村民をまのあたりにした尾州藩は、それまでの労にむくい、何よりも家康公の初志である生母の住んだ阿久比の人々に恩義を返したい、との願を新村有松に注いだものと考えられる。神君家康公の遺志をここに返す為との特例を表看板にする新村優遇策に異を唱える者などあろう筈もなく、この優遇策は維新まで機能し続けたもののようである。

絞の始まり(2)

更に第三次移住までに第一陣の人々の内、「竹田庄九郎」の努力の積み重ねによって、「括り染め」の試作改良も進み、軒先での販売も除々に増大してきたので移住に踏み切ったものと推測される。生産と販売の見通 しを立て、藩に庇護を願い、万全 の対策を建ててから呼び寄せる手だては見事というほかはない。(この周到な配慮に竹田庄九郎の手腕・人柄が偲ばれる。)
生産に用いる木綿布は、当時は知多郡一円や伊勢国、藤堂藩(現松坂市)方面 から、 染料の藍は阿波国(現徳島県)から仕入れたが、わずかな仕入れでも現金を必要といした筈で、その支払い保証も尾州藩が肩入れしてくれたものかも知れない。
阿久比から移住してきた第三陣が腰を落ち着けた寛永十年(1633)頃から、有松絞りが全村挙げて取り組み始められたと考えられる。
東海道に町人が数多く通りはじめたのは寛永十五年(1638)頃からで、伊勢参りが全国的に流行のきざしを見せ始めるが、この少し前頃から参勤交代の制が確立したようである。諸国の大名が、江戸詰めを終え、帰国する時に有松に立ち寄り、国元への土産として絞の反物や手ぬ ぐいを買い求めたのが有松を有名にした始めという。
この頃はすぐ西に鳴海宿があったため、広く全国で、有松絞りに代わり「鳴海絞り」といわれたらしい。また、店先で品定めをし、数量 を伝え、宿の鳴海へ届けるような注文も多かったと伝えられている。(鳴海宿に有松絞りの取次所があった模様である。)

新絞りの種類
新絞りの種類
伝統的絞りデザイン
伝統的絞りデザイン
桶狭間の戦い

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日1560年6月12日)に行われた合戦。

2万5千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河戦国大名今川義元に対し、尾張の大名織田信長が10分の1程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を壊走させた、歴史上最も華々しい逆転劇と言われた非常に有名な戦いである。西に勢力を拡大し続けてきた今川氏はこの戦いを契機に没落し、逆に勝利した織田氏はこれ以降畿内制覇に向かって急成長していったことで、戦国時代の重要な転機となった。

前田利家桶狭間凱旋画(部分)

合戦以前の情勢

たえず織田氏今川氏は、信長の父織田信秀の時代から三河尾張両国の国境地帯の支配を巡って長らく争ってきた。西三河を支配していた戦国大名松平氏が若い当主の相次ぐ変死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文11年(1542年)の第一回の小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。しかし、天文17年(1548年)の第二回の小豆坂の戦いでは今川方が勝利を収め、この戦いの後、織田氏の勢力は尾張・三河の国境線から後退、尾張国内の鳴海城愛知県名古屋市緑区)、大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ち、情勢は今川方が優勢であった。

しかし、織田氏は次第に逆襲に転じ、これらのうちもっとも織田領に食い込んだ鳴海城の周囲を取り巻くように丹下砦善照寺砦中嶋砦を築き、鳴海城を圧迫した。鳴海城の南にある大高城も織田氏の築いた丸根砦鷲津砦によって鳴海城、沓掛城との連絡を遮断され、孤立していた。

合戦までの経過

この情勢のもと永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日夜、松平元康(のちの徳川家康)が率いる三河衆を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。

翌19日早朝3時頃、元康と朝比奈泰朝は織田方の丸根砦、鷲津砦に一斉に攻撃を開始する。一方、前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長は、今川軍の攻撃開始の報を得て明け方の午前4時頃に居城清洲城を進発。わずかな従者のみを連れて出た信長は朝8時頃熱田に到着、軍勢を集結させて熱田社に戦勝祈願を行った。

午前10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦の1つ、善照寺砦に入っておよそ4,000人といわれる軍勢を整えた。この間に今川軍先鋒の猛攻を受けた丸根、鷲津の両砦は陥落、大高城周辺の制圧を完了した今川方は、今川義元が率いる本隊が沓掛城を進発し、大高城の方面に向かって西に進んだ。一方の信長は11時から12時頃、善照寺砦より出撃、鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した。

桶狭間の合戦

13時頃、突如豪雨が降り、視界が悪くなった。通説では、この雨に乗じて迂回行動を行ったとされているが、現在ではそれに否定的な見解が主流である(これについては後で詳しく論じる)。

雨がやんだ直後、織田軍は今川義元(いまがわよしもと)の本隊に接触、攻撃を開始した。全軍で2万5000を数えた今川軍も、本隊はそれほど大きな兵力をもっていなかったため、2000人が一団となって突撃してきた織田軍の猛攻によって混乱し、劣勢を悟った義元は退却を命じた。しかし、双方の大将が徒歩立ちになって刀槍をふるう乱戦となり、ついには今川義元の旗本部隊に織田信長(おだのぶなが)の旗本部隊が突入した。

義元は信長の馬廻の1人、服部小平太に斬りかかられるものの、逆に服部を斬って負傷させた。しかし、服部との格闘の間に迫ってきた新手の毛利新助と乱戦になり、ついに毛利によって討ち取られた。討ち取られた時、義元は毛利新助の人差し指を噛み切るほど抵抗したといわれている。義元の戦死により今川軍本隊は壊滅し、合戦は織田方の大勝に終わった。

合戦後の情勢

主将今川義元と多くの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって退却していった。大高城を守っていた松平元康も合戦直後に大高を捨て、岡崎城近くの大樹寺(松平家菩提寺)に入った。ところが岡崎城を守っていた今川氏の城代までも城を捨てて駿河に去ってしまったため、元康は岡崎城に入城した。

尾張・三河国境で今川方についた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日に沓掛城を攻略するなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし、鳴海城は城将岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級(しゅきゅう、討ち取った大将の首のこと)と引き換えに開城、義元の首を携えて駿河に帰国した。

一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたことにより、岡崎の元康は今川氏から半ば自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と松平元康の角逐の場となった。しかし元康は、義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由(勿論これは口実であって、氏真は当主の死で混乱する今川家中の安定化に力を注ぐ事を重視し、逆に元康は氏真体制が固まる前の自立を図った)に今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させてゆくことになる。